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《12/23金さん・武田さんを軸にした白樺討論会》について  13
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哲学を革命する民から始める公共哲学

内田 卓志 (会社員)

内田

昨年の12月23日、白樺教育館で金泰昌さんとの対話会で私は次のような意味の質問を行いました。

私:「金さんの考える公共哲学とは、対話する・共働する・開新する三次元相関関係(固定的ではないダイナミックな精神とその実践)にあるものであり、哲学する・共に哲学する・他者と共に公共哲学する、民から開くものですね。それには同を求める精神から決別し、異を尊重し和を実現すると考えてよいですね。この様な公共哲学の精神と実践には、すべて賛成し共感します。では今なぜ公共哲学なのか、単に哲学ではだめですか?金さんの言われていることは哲学本来の営みであり、例えば西洋だったら古代ギリシャ以来、東洋だったらインドのブッダ以来の哲学の意味だったのではないでしょうか。」
 金さん:「古代ギリシャにおいても自由市民だけの特権的なものでした。奴隷も女性も哲学的対話には参加できませんでした。その様な一切の差別を排して哲学するーつまり公共哲学することが、現代にもっとも必要なことだと思います。あえて公共哲学を手段や戦略としてではなく“原理”として標榜し実践していくことに公共哲学の現代性があるのです。原理としての公共哲学を広め普遍化していくことに命を賭けているのです。」

私にとって、金さんの発言は、強烈かつ衝撃的でありました。それは正に、明治以来の日本の哲学的パラダイムを、いやギリシャ以来の西洋哲学の主流と思われていたパラダイムまでも結果的にチェンジすることになると思われたからです。

明治以来日本では(ここでは思想と哲学を区別します)哲学とは、デカルト・カント・ヘーゲル他の大哲学者と言われる人の哲学書の解釈及び哲学史学が主流であり、これぞ哲学でございますとばかりに二拍手“パシ・パシ”と神棚に祭り上げる正に専門知の代表選手でした。私たちはかつて、集団同調性の強い民衆性にこの専門知を“バスに乗り遅れるな”とばかり悪用した歴史的恥辱を経験しているはずです。最近は、『哲学者のいない国』とのことで、西田幾多郎、廣松渉や大森荘蔵といった人が数少ない哲学者だとする意見もあります。ただ、私にはこの意見も専門知哲学から逃れることはできない様に思われます。(確かに廣松氏らは哲学者だと思いますが、哲学とは存在とは何か?とか時間とは何か?を議論する専門家だけのものではないはずです)

この様な専門知としての哲学的パラダイムをチェンジして、本来の哲学=「個人の主観性を鍛え育てエロースをこの心身で感じ受け取ることができる全体知としての哲学」を原理とする(武田白樺教育館長の言う恋知としての哲学=民知)ところへ、回帰するところから、公共哲学もスタートするからこそ現代的意義があると思われます。そうだとしたら、まさに“哲学の革命的運動”です。(革命の原義は回転とか回帰であり、よき伝統や営みに戻ると言うこと)
 今公共哲学が求められる理由は、この様な原理を踏まえつつ、「誰でも・いつでも・どこでも・ただで」哲学することができる点にあると思います。つまり、公共哲学の専門家などはいないことがある種の特権(逆説的ですが)とも言える『普通の人の知』だからでしょう。

ただこのことは大問題でもあります。日本ではいまだかつて、個人の生活世界で哲学的思考を活かし働かせる習慣も伝統も大変希薄だからです。西洋には哲学的議論を普通に母語で行う習慣のある国もあると聞きますが、日本ではそうはいきません(西洋では日常語がそのまま哲学用語であり、日本のように哲学用語をあえて作り専門化する必要がなかった)。『対話する・共働する・開新』することを原理とする公共哲学は、民からこそ行えることでしょうが、大変な“価値転換”を伴うはずです。だから金さんが命を賭けるのでしょう。ただ、こうした実存からの思考は、古くから日本にもありました。親鸞を始め、鎌倉新仏教の祖師たちも、内面の真実につき命がけで旧仏教の価値転換を図り、その思想を広く民衆のものにしたのです。

最後に金さんの夢、『公共哲学により日本・朝鮮・中国の人々の幸福と平和を実現する』(アジアから世界へ)その夢を共有したいと思います(武田館長は、幸福とは結果として感じられるものであり、目的として追求するものではないと主張しますが、このことについては詳細な説明が必要ですのでここでは触れません)。それには、学者もビジネスパースンも職業・年齢・性差に関係なく裸の個人・市民として無条件に一切の権威を排し、他者と公共哲学すること=自由な対話が求められるはずです。公共哲学が、一部の専門家の独占物になったら既存哲学と同様に『神棚哲学』に堕することになります。公共哲学の原理上、民(市民)の力を求め、民から開くしか径(みち)はないはずです。その困難性の自覚が最も必要に思えてなりません。ただ希望はあります。私のように最近このようなことを考え始めたものと違い、「白樺」は30年そんな困難なことを実践してきているのですから。この小論も武田館長から哲学の原理上の意味を学んだ結果です。

異(差異・違い)を尊重し真摯な知的誠実さを持って一致できるところから共働・協力していきましょう。

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