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金泰昌-武田康弘の恋知対話  4
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2007年5月21日 金泰昌
    お聞きしたいことが三点ありますー「公」と「私」

早速お聞きしたいことが三点あります。

“まず第一点ですが「事実学」が支配する日本の教育は、最も反・哲学的であり、効率だけを追う教育は、人間を昆虫化させてしまう”ということですが、反・哲学的な教育が日本の社会風土と文化特徴を反・哲学にしているのか、それとも反・哲学的な社会風土と文化特徴が教育を反・哲学的にしているのか、また相互強化的なのか、どう考えたらよろしいでしょうか。多数の日本人の学者や言論人たちの書いたものを読んだり、また直接お会いして聞いたりしたことですが、日本人は元来哲学や思想が嫌いで物を創ることや実際経験したりすることを大事にするのが、その特性ということです。それが日本人のよさであり、日本文化のすぐれた面であると言われたこともあります。私が1990年来日以来、日常生活を通して皮膚感覚的に実感したことも抽象的なことに対する否定的な対応ですね。抽象思考を嫌うという傾向です。ですから、誰々の思想の研究はいろんなものがありますが、自分の脳と心と身で練り上げた哲学―本当に哲学すること―への意思と願望と忍耐の生生しい力働を分有・共感・共鳴できるものが少ないという意味で非・哲学的な環境であると言えますね。しかし、わたくしの感覚が間違っているのかも知れませんから、武田さんのご意見を伺いたいのです。

第二点は日本で「私」(事・心・欲・利・益)が否定されなければならなかったのは戦国時代末期の「封建社会」における「上位者へ従うことがよく生きること」という道徳と、明治の富国強兵のために西洋から「客観学」として輸入された学問体系が乗ることで、「私」の私性は、その根付く場所を失ってしまったからだと考えているということでしたが、わたくしが知りたいのは、「上位者へ従う」というとき、上位者の「何」に従うということなのかということです。それは上位者の「私」(事・心・欲・利・益)ですか。それとも上位者が声高く唱える「公」(事・心・益)ですか。上位者への忠誠は「滅私奉公」という言い方で美化奨励されましたし、下位者の「私」は上位者の「公」のために徹底的に抑圧・排除・犠牲になりましたが、その「公」というのは上位者自身の滅私・破私・無私によるものであったと言えるものでしたか。

そして第三点です。一人ひとりの主観性を豊かに育て鍛える教育がない国においては、集団同調による同一の価値が支配してしまうということと、その前に国家の宗教的最高権威者に天皇を据え、かつこれを主権者にした全體主義的な体制にとって、「主観」とは悪であるかのような想念を学校教育によって徹底させたとおっしゃったことに関係するのですが、それをわたくしの言い方に変えますと、一人ひとりの「私」(事・心・欲・利・益)をまったく認めない、すべてが「公」で「公」以外には「主観」という悪しか存在しない体制こそ全體主義体制であり、すべての「公」が天皇によって象徴される滅私・破私・無私の体制は天皇制的全體主義体制以外になにものでもないということになりますが、このような理解でよろしいでしょうか。わたくしは、所謂全體主義に関する多様な定義・規定があるということを十分承知したうえで、あえて申しますが、一つの「公」―それが実体として何であれ―がありとあらゆる「私」を全否定する体制・装置・仕組・思想・イデオロギーは全體主義的であると思うのです。武田さんのお考えはどうですか。

金泰昌

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