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金泰昌-武田康弘の恋知対話 1
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2007年5月10日 武田康弘
    キムさんのお申し出を受けて、はじめの問題提起です.

わたしは、「哲学するってどういうことかな?」と考えて、40年以上の月日がたちましたが、それは、ただ書斎の中で本を読むこととは違い、自分にとって切実な人生問題や社会問題にぶつかることで始めて生きて動くようなもの、と思うに至りました。
ひとつの論理で追うのではなく、複眼的にものを見るのが哲学することですが、そのためには、さまざまに「対立」する世界を生きてみることが条件になるのではないでしょうか。いくつもの論理があるとき、それを平面に並べて比較してみてもダメで、立体としてつかむことが必要ですが、この立体視は、現実問題とぶつかり、その解決のために苦闘するところから生まれるようです。
書物の勉強は思考の訓練として重要ですが、それだけを積み重ねても、意識・事象を立体として把握することは難しいと思います。ただ知識を増やし、演繹を延ばすに留まり、自己という中心をしっかりともった立体世界がつくれないからです。
そうなると、哲学はいろいろな哲学説を情報として整理すること、という酷い話になってしまいますが、ここからの脱出は容易ではありません。それは、日本では幼い頃から、正解の決まっている「客観学」だけをやらされ「主観性の知」の育成がなされないからですが、いわゆる成績優秀者ほどこの弊害がひどく、しかも「優秀」であるゆえにこれが自覚されずに、かえって平面の知を緻密化している自分を他に優越する者と誤認しがちです。
こういう世界で生きると、人はみな実務的領域だけに閉じ込められ、ロマンと理念を育む立体的な生を開けず、即物的な価値に支配された平面的な存在に陥ってしまうのではないでしょうか?
金さんは、どうお考えですか?

武田康弘
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