封建制の武家社会と符号した「型の文化」は、明治に輸入された近代ヨーロッパ出自の「客観学」と織り合わされて日本的な様式主義・権威主義・序列主義を生みました。
山県有朋らが明治半ば(1880年代後半)に固めた天皇神格化による政治は、主観の対立が起こる前に主観そのものを消去する様式道徳を植えつけることによって可能になったのです。
近代天皇制とそれを支える東大法学部卒の官僚支配の社会は、型の文化と客観学の融合がつくり出した「個人を幸福にしない世界に冠たる!システム」だと言えるでしょう。
豊かな「主観性」を鍛え育てる古代ギリシャ出自の恋知(哲学)や古代インド出自の討論は無視され、「主観性」とは悪であるかのような想念が広まったのです。曰く「君の意見は主観に過ぎない!」(笑止ですー主観でない意見とは意見ではありませんから)。
したがって日本の勉強や学問とは、パターンを身につけ、権威者(出題者)に従い、人の言ったことを整理して覚えることでしかありません。決められている「正解」!?に早く到達する技術を磨くこと、エロースのない苦行に耐えることが勉強だ、というわけです。
これで主観性―主体性が育ったら奇跡です。自分の意見を言ってはならない、これはわが国の基本道徳です。主観とは悪だ、という恐ろしい国で自説を主張する人は、数えられるくらいしかいません。日々の具体的経験から自分(主観)の考えをつくり、情報知や東西の古典に寄りかからないで話すことのできる学者が日本に何人いるでしょうか?
自分から始まる考えと生=主観性のエロースを育成することが抑圧され、集団同調の圧力が日本ほどひどい国は、一部の独裁国家を除いてはありません。個人の思いは「考え」として表出されること自体が「悪」とみなされるのです。和を乱すな!です。
客観学に支配され、まっとうな「知」−(官知ではなく民知)が育つ土壌がないのですから、型はまりの紋切り人、先輩の言を守るイエスマン、古典を引用するだけの暗記マンしか出ないのは当然です。
このように同じ土俵で右派と左派が対立しているだけという不毛性から脱却するための基本条件は、「客観」とは背理であることの明晰な自覚に基づいて、主観を鍛え、深め豊かにしていくことです。皆が納得する普遍了解的な言説は、魅力的な主観からしか生まれないはずです。のびのびと楽しく「主観性」を表出することができる環境をつくること、それが日本社会をよく変えていくための第一条件なのです。エロース豊かな魅力ある個人の育成なくしては何事も始まりませんから。
おぞましい主観主義やヒステリィクな自己絶対化は、「自由の行き過ぎ」が原因ではなく、あらかじめの「正解」を強要する客観主義の想念に個人を閉じ込めておいた上で自分の意見?を求めるという矛盾した要求―虐めのような主観消去の詐術が生み出すものです。
個人の輝きを発揮させずに元から消してしまう「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン)は、主観をその深部で殺す仕掛けによってつくられています。その中で弱い一人のわたしが入手できるのは、ただの「わがまま」だけということになります。
客観神話が支配する精神風土の中では、「わがまま」(自己絶対化)の領域拡張に精を出す以外に個人の生きる術がありません。制度によって自己実現が保証された一部の「エリート」を除いては。
「わたし」(主観)の感じ方、心、思い、考えが尊重されずに、制度知の示す「正解」・権威的な人や組織が与える「正解」を日々暗黙のうちに強要される環境のもとでは、ひとつメダルの裏表=「主観主義」(自己絶対化)と「客観主義」(官知・制度知・権威知)が交互に提示されるだけという不幸で愚かな不毛性の世界からの脱却は困難です。
客観神話=あらかじめの「正解」に呪縛された社会の中では、はっきりと堂々と「主観」を述べる個人が出ないのは当然の話です。主観が主観として存在しないことーそれが日本社会の最大の問題なのです。いま一番必要なのは、上下意識やありもしない「正解」(客観)に脅迫される観念を払拭する思想的、実際的努力です。恐ろしいことに、私たちの社会では、主観は主観になる前に消去されているのですから。
(2006年1月10日)
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