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  • 157. 「従軍慰安婦問題」決着ーー泥さんが、右派のウソを元から断つ.

  • 157. 「従軍慰安婦問題」決着ーー泥さんが、右派のウソを元から断つ.

     泥憲和さんの従軍慰安婦についての一連の論考(Facebook)は極めて優れたもので、巷にあふれる右派の嘘・歪曲を元から絶つものです。
    そこで、泥さんの了承を得て、以下にその一連の論考をまとめて掲載することにしました。
    じっくりお読みください。

     なお、環境依存文字(○内に数字)は化けるので1)等に変更してあります。また、レイアウト、色付け等は、当方(古林)にて適宜調整しました。

     印刷用にPDFファイルを用意しました。
    ご利用ください。 =>クリックでダウンロード

     リンク切れ、リンクの誤りを修正しました。一部のリンク切れは現在調査中です。2014年12月4日


    追記:
    【従軍慰安婦の真実】英語版が出来ましたのでご紹介します。
    米国在住の三枝恭子(さえぐさきょうこ)さん(言語学)が【タケセンの「思索の日記」】を読んで、ぜひ英訳を、と申し出てくださいました。その成果がこの”The Truth about the Comfort Women”です。
         クリック=> The Truth about the Comfort Women Version 20150220©
    PDF版もあります。
         クリック=> The Truth about the Comfort Women (PDF)ダウンロード Version 20150220©
    ぜひご利用ください。

    なお、三枝さんの判断により、オリジナルの最後にある背景説明を最初に持ってきてあります。
    その方が読む人にとってはわかりやすいと判断したためです。
    以上、ご了承お願いいたします。

    2015年2月18日



      【従軍慰安婦の真実】 目次
    1. 慰安婦は性奴隷だったのか 1)
    2. 慰安婦は性奴隷だった     2)
    3. 慰安婦業者と官憲の行為は、どのような国内法に違反したのか
    4. 元慰安婦の証言に信ぴょう性はあるのか
    5. 従軍慰安婦という名称は間違っているという批判について
    6. 敗戦後の日本人慰安婦たち
    7. 慰安婦の働き方と報酬額 1) 慰安婦業者の契約書を確かめる
    8. 慰安婦の働き方と報酬額 2) 日本軍の契約書マニュアルを確かめる
    9. 慰安婦の働き方と報酬額 3) 秦郁彦説を批判する。
    10. 慰安婦の働き方と報酬額 4) 文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳
    11. 慰安婦の働き方と報酬額 5) 文玉珠(ムン オクス)さんの送金など
    12. 日本は韓国に賠償金を支払ったからそれでいいのか? 1)
    13. 日本は韓国に賠償金を支払ったからそれでいいのか? 2)
    14. 「なぜ何度も謝罪しなければならないのか?いい加減にしろ」という意見について
    15. 慰安所は戦地強姦を防ぐことが出来たのか
    16. 最終回



    【従軍慰安婦の真実】1.
    1 慰安婦は性奴隷だったのか 1)

     まるでネトウヨみたいなタイトルです(笑)
    いま もネットに飛び交うデマにだまされている人が、たくさんいます。
    カウ ンター仲間の中にすらいるそうです。
    そのことをFB友の渡辺先生から教えてもらいました。
      幸い、たくさんのカウンター仲間が私のページを読んでくれています。
      そこで、おさらいといった感じで、なるべくわかりやすく、日本軍慰安婦のことを書いていきたいと思いました。
      ご自身の勉強を確かめるため、またネトウヨとたたかうため、活用して頂ければ幸いです。
      何回にわたるのか、まだ未定です。
      質問があれば、なるべく丁寧にお答えしようと思っています。
      第一回は、ネトウヨが発狂するようなテーマです。
       「慰安婦は性奴隷だった」という話です。

    1 慰安婦は性奴隷だったのか

    「性奴隷」とはなんでしょうか。 
     奴隷状態で性労働を強制された女性が、性奴隷です。 

    では奴隷とは何でしょうか。 
    人身を拘束され、自由を奪われた労働者のことです。 
    人身を拘束されるというのは、居住の自由を奪われて、雇い主の指定する住居に住まわされ、移動の自由のない状態をいいます。
    自由を奪われるとは、転職や退職・廃業の自由を奪われて、いやでもそこで働かされることです。

    さて、慰安婦は奴隷ではないという意見があります。 
    なぜならば、とその人たちは言います。

      慰安 婦は自ら志願している。 
      慰安婦は高い給料を得ていた。 
      慰安婦は借金さえ返せば帰国できた。 
      慰安婦は接客を拒む権利さえあった。 

    この言い分を、仮に事実だとしましょうか。
    それなら、慰安婦の労働条件は奴隷でなかったと言えるのか、 
    このことについて、江戸時代の花魁(おいらん)と対比して考えましょう。 

    江戸時代、吉原などで、売春営業が公認されていました。 
    吉原の女郎には、それなりの給与が出ており、接客を拒む権利が認められおり、借金を返せば廃業を認められていました。 
    この待遇は慰安婦と同じです。 
    彼女たちは奴隷だったのでしょうか。そうではなかったのでしょうか。
      
      明治5年、できたばかりの維新政府は、吉原の花魁のことを、 
      「牛馬に異ならず」と評しました。 
      明治5年『芸娼妓解放令』に合わせて出された「司法省達」です。
      原文を末尾に資料として転載しておきます。
      現代語になおせば、つぎのように書かれていました。

      「娼妓・芸妓は人身の権利をなくした者であって、牛馬と同じことである。」

      当時は奴隷という用語がまだない時代ですが、 
      「牛馬に異ならず」という表現が、奴隷状態であるという認識を示しています。 
    どうして「牛馬に異ならず」なのか。 

    どんなに貧しくても、身体だけは本人のものです。 
      借金でその身体の自由さえ失った状態は、人としての最後の自由を失った状態であり、牛馬と変わらない存在だということです。 
      人と しての最後の自由を失った状態、すなわち、奴隷です。 

      吉原の花魁が借金で縛られた身分で「牛馬と異ならず」なら、
     同じように借金でしばられ、待遇も花魁と似ていた慰安婦だって「牛馬と異ならず」だったといえます。
     普通の年季奉公は、前借金でしばったりしないので、ただの有期雇用契約です。
    この点を混同してはなりません。

    こういうことで、慰安婦を性奴隷とみなすのは不当ではありません。 

      明治5年でさえ、この程度の人権感覚はあったのです。 
      21世紀に生きる安倍さんたち政治家が、慰安婦が奴隷状態であったことを否認するなんて、なんともはや、ため息をつくばかりです。

    ところで、明治のはじめにはこんなにまっとうな認識だった日本政府ですが、その後に後退してしまいます。
      「娼妓契約は人身売買ではない、だから娼婦は奴隷ではない」、こう言い始めたのです。
    それがなぜであるかということと、その後退した考えからみても慰安婦は性奴隷だったということを、次回に書きます。

     【資 料】

     明治 5年10月9日司法省達第22号 第2項 

     娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ 牛馬ニ異ナラス 
    人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ 
    故ニ従来同上ノ娼妓芸妓へ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事 
    https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q&esrc=s&source=web&cd=10&cad=rja&uact=8&ved=0CF8QFjAJ&url=http%3A%2F%2Fja.wikisource.org%2Fwiki%2F%25E5%25A8%25BC%25E5%25A6%2593%25E8%2597%259D%25E5%25A6%2593%25E3%2583%258B%25E4%25BF%2582%25E3%2583%25AB%25E8%25B2%25B8%25E5%2580%259F%25E5%2585%25B6%25E4%25BB%2596%25E4%25BA%25BA%25E8%25BA%25AB%25E8%25B3%25A3%25E8%25B2%25B7%25E3%2583%258B%25E9%25A1%259E%25E3%2582%25B9%25E3%2583%25AB%25E6%2589%2580%25E6%25A5%25AD%25E3%2583%258E%25E8%2599%2595%25E5%2588%2586&ei=LW3WU_O8Otjc8AXQiYLgDg&usg=AFQjCNGm3yx-_wHmJbhvYnvBfrbUtdjfLg&sig2=4kVsZ83wQrvDd8Zbdl1NMw

    写真は近代デジタルライブラリーより
    残念ながらここに司法省達22号は収録されていません 

    慰安婦

    2014年7月29日  泥 憲和 

    【従軍慰安婦の真実】2
    慰安婦は性奴隷だった その2

    1.合法的な売春契約と違法な売春契約のちがいを知ろう

    今回 は、大日本帝国の国内法の観点から見ても、慰安婦は性奴隷であったという話です。

    明治政府は娼妓契約を「牛馬と異ならず」として奴隷契約だったと認定したというのが、前回のお話でした。
      その理由は、娼妓契約が「人身売買」であり、人身の自由を奪う契約だったからです。

     明治5年 太政官布告第295号
     「人身を売買することは古来から禁じられているのに、年季奉公など色々の名目を使って、実際には人身売買同様のことをしているので、娼妓を雇 い入れる資本金(親に貸 し付ける契約金のこと)は盗難金とみなす。貸した金を返せという訴えは認めない。」


      中には「娘は買ったのではなく養女にしたのだ、我が子に何をさせようと親の勝手だ」という理屈で売春をさせていた者もいたようです。
      太政官布告は続けます。

     「子女を金銭で取引して名目的に養女にし、娼妓・芸妓の仕事をさせるのは、実際上はすなわち人身売買である」

      こうした措置で、明治政府は売春業は禁じなかったけれど、人身売買契約にもとづく売春業を禁じたのでした。
      この太政官布告が廃止されたのは明治33年です。
      この年、『娼妓取締規則(しょうぎ とりしまりきそく)』(内務省令第44号)が出されたので、布告は役割を終えたのです。

       『娼妓取締規則』は売春を一般的に禁じました。
      ただし、法令に従うことを条件に、例外的に売春を認めたのです。
      この規則を理由に、帝国政府は「娼妓契約は奴隷契約ではない」と言い続けました。
      それというのは、規則に「何人たりとも廃業を妨害してはならない」と決めていたからです。

      娼妓取締規則は、娼婦に「契約破棄の権利」と「廃業の自由」を認めました。
      警察に届けさえ出せば、いつでも辞めることができたのです。
      奴隷契約は、人身を買われた奴隷側から契約を破棄することができません。
      これと異なる娼婦契約は、人身を身分的に拘束する人身売買ではなく、したがって奴隷ではないという理屈です。
      娼婦が辞めるのは「届出制」。ここ、大事なのでおぼえていてください。

      しかし前借金がある場合、娼婦を辞めても借金契約は残るという仕組みだったので、借金を返すために娼婦を辞められない現実もありました。
      人身売買の形は回避したけれど、こんどはいわゆる「債務奴隷」の立場に置かれたのです。
      
      それにしても、辞める自由が法的に保障されてはいたのです。
      借金を連帯保証人(たいて いは親)に押し付ける気になれば、辞めることは出来ました。
      自己破産してしまえば、自分だけは助かります。
      親方が「借金を返さない限り辞めさせない」と引き止めるのは違法です。
      そういう大審院(いまの最高裁)の 判決がたくさんあります。

    2. 慰安婦制度は合法的な売春制度だったのか

    親が娘を担保に前借金をして娼婦に出すことを、「身売り」と言いました。
      貧しい農村では身売りが多くありました。
      身売りという言葉が示すとおり、実質上は人身売買ですが、法律的には娘には廃業の自由があるため「担保」の意味がないと見なされ、人身売買に当たらないということになっていたのです。

      こうしたことから、慰安婦否定側はいいます。
      特別に慰安婦だけが悲惨だったのでもなく、奴隷だったのでもないと。

        日本軍慰安婦は「身売り」契約による売春だ。
        悲惨であったにせよ当時としてはありふれた話だ。
        また当時、それは合法だった。

      本当でしょうか。
      ここでは、「身売り契約は奴隷ではない」という言い分を、いったん認めましょう。
      そのうえで、慰安婦契約がどんなものだったのかを確かめます。

      日本軍の慰安婦関係契約資料は散逸してほとんど残っていないのですが、運良く「馬来軍監区」の契約原本が残っていました。(写真)
    馬来とはマレーのことです。
      マ レーを占領していた南方軍は、慰安婦の管轄権限を師団ではなく南方軍司令部に一括していたので、東南アジア方面では馬来軍監区と同じ契約 だったと推測できます。

      その資料に、書かれています。

       「営業者および従業員は、軍政監の許可を受けるにあらざれば、転業転籍をなすことを得ず」

       「営業者および稼業婦にして廃業せんとするときは、地方長官に願い出てその許可を受けるべし」

      慰安婦が辞めるのは「許可制」だったのです。
      官の許可がなければ辞められませんでした。
      自由に辞められなかったのです。

      先に娼婦の退職・廃業は「届出制」であるといいました。
      届けさえすれば自由に廃業できるから人身を身分的に拘束する人身売買ではなく、奴隷契約ではないというのが、帝国政府の建前でしたね。
      慰安婦はこれと異なります。
      廃業が許可制で、自由に辞められませんでした。
      それなら、人身を身分的に拘束する契約ということになり、これは人身売買であると言えます。
      つまり慰安婦契約は、帝国政府が禁じていた奴隷契約なのです。
      しかも許可を与えるのは官庁です。
      人身拘束制度=奴隷制度に官権が直接関わっているのです。

      日本政府が「慰安婦は性奴隷ではない」と抗弁できる余地はまったくないと思います。

    慰安婦

    2014年7月30日 泥 憲和

    【従軍慰安婦の真実】3
    慰安婦業者と官憲の行為は、どのような国内法に違反したのか

     前回の「2」で、南方軍が、帝国政府が禁じていた奴隷契約を慰安婦に強制していたことを示しました。
    軍をはじめとする国家機関と慰安婦業者は、ほかにも様々な法律に違反しているので、今回はそこを確かめましょう。
    売春が合法でも、慰安婦が合法だったとは言えないことが如実にわかるでしょう。 

    ■「娼妓取締規則」違反 

      占領地でこそ軍が軍政を敷くので警察権を持ちますが、慰安婦を募集したのは占領地ではなく、朝鮮半島と内地がほとんどです。
      そこでは「娼妓取締規則」を守らなくてはなりません。
      慰安婦は国外で働くことを前提にしていますが、「娼妓取締規則」はそのような事態を想定していませんでした。
      第七条に、「娼妓は庁府県令を以て指定したる地域外に住居することを得ず」とあります。
      しかし慰安婦をどこに送るのか、それは軍事機密なので、官庁は慰安所の所在地を指定することができません。
      慰安婦という制度が、その性格上、そもそもが違法なのです。

       「娼妓取締規則」は、つぎのように定めていますが、慰安婦についてはなおざりにされているし、業者を使役していた軍も守らせていた形跡が見えません。 

    1. 娼婦になろうとする者は、そのやむを得ない事情を書いて、両親と保証人2名の連署を添えて警察区長に届 け出なければならない。 
    2. その手続は、本人が警察に出頭して行わなければならない。 
    3. 警察は娼婦になろうとする者を尋問し、本人の意思を確認しなければならない。 
    4. 娼婦になろうとする者は、警察区長の確認書を添えて警視庁に願い出なければならない。 
    5. 満18歳未満の者は娼婦になってはならない。 

     これらはほとんど守られていませんでした。
    このように、「娼妓取締規則」に違反しているのですから、慰安婦の契約は法律違反であって、業者は本来ならば営業停止です。 

    ■民法第90条(公序良俗)違反 
     〈公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする〉

      違法契約であることを隠し、相手の法的無知に乗じて契約させても、明治民法第90条により、公序良俗に反する契約として無効になります。 
      無効というのは、はじめからなかったことになるということです。 

    ■刑法第226条(所在国外移送目的略取及び誘拐)違反
     〈所在国外に移送する目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、二年以上の有期懲役に処する〉

      無効な契約なのに、あたかも有効であるかのようにだまして連れて行くのは、誘拐に当たります。 
      誘拐の定義は、判例等によって「欺罔(ぎもう あざむき、だますこと)・誘惑を手段として、人を生活環境から不法に離脱させ、自己又は第三者の実力支配下に置くこと」とされて います。

      慰安婦は、誘拐して海外に連れ出すことを禁じた刑法第226条の条文にピッタリと当てはまります。
      そういうことをした業者も、渡航を公認した内務省と身分証を発給した外務省、輸送に便宜を計らった軍も、共犯として同罪です。

      ところで話が少し横道にそれますが、北朝鮮による拉致被害者である有本恵子さんら4人は、北朝鮮でいい仕事があるとだまされ、自分の意志で 北朝鮮に入国しました。
      自分の意思であっても、だまして連れて行けば、誘拐に当たります。
      政府は誘拐された有本さんたちを拉致被害者として認定しているのだから、誘拐は拉致にあたるということになります。
      拉と強制連行は同じ意味です。 
      すると慰安婦も合法的なよい仕事があるとだまされて連れて行かれたのだから、誘拐に当たるのだし、日本政府の定義に沿っていえば拉致された のであり、強制連行されたことになります。

    ■刑法第227条違反
       〈3  営利、わいせつ又は生命若しくは身体に対する加害の目的で、略取され、誘拐され、又は売買された者を引き渡し、収受し、輸送し、 又は蔵匿した者は、六月以上七年以下の懲役に処する〉

      慰安婦は営利・わいせつ目的で誘拐されました。
      慰安婦を軍に引き渡したのは慰安所業者、収受し、輸送したのは軍です。 
      両者は刑法第227条違反の共同正犯です。 

      これほど違法に違法を重ねては、もう誰にも弁護のしようがありません。 
      軍をはじめとする国家機関が直接的に関わった国家犯罪と言えます。 

    ■法令がちゃんと適用された例がある

      昭和12年、大審院(最高裁)で、売春目的で女性を海外に連れ出そうとした業者らが有罪になっています。 
      長崎から15人の日本人女性を娼婦として上海へ送った業者らに対し、 
      大審院第4刑事部は 「婦女を誘拐して国外に移送した」「共同正犯」として上告を棄却、有罪が確定しています。

      法令がちゃんと適用されれば、このように有罪になるのです。
      この業者が有罪になったのは、軍と結託していなかったからです。
      軍が求めれば、その威光で誰も逆らえなかった時代でした。
      大日本帝国の時代、日本がそんな国であったことを認めるのは気分の良いものではありません。
      しかしその歴史を反省することで、別な道を歩むことが私たちにはできます。 
      その歴史を肯定してしまえば、同じような未来が待ち受けていることでしょう。

    刑法の論証集(山口刑法にほぼ準拠) 略取・誘拐の罪 224条以下

    2014年7月31日 泥 憲和 

    【従軍慰安婦の真実】4
    元慰安婦の証言に信ぴょう性はあるのか

    (今回はめんどくさい上に長いです)

    元慰安婦の証言には腑に落ちない点が多々あります。
    移動中の船内でテレビを見たとか、それはちょっと有り得ません。
    人の記憶は不確かなんですよね。

      でも、韓国側はそういった不自然な証言を改変することなく発表しています。
      おばあさんに「戦時中にテレビはまだなかったんだよ」といったアドバイスをしていないようです。
      間違っていてもそのままに記録するという、オーラルヒストリー採取の基本をわかっている証拠です。

    金福童さん

      金福童さんという元慰安婦がいます。
      彼女の証言が怪しいと言って、右派が総攻撃しています。
      金さんは第15師団に着いてシンガポールに行ったと言うが、嘘だ。なぜなら第15師団はビルマの部隊だから。 
      金さんは14歳のときに慰安婦にさせられて8年間働き、19歳の時に解放されたというが、計算があわない。足し算もできないのか。
      金福童はニセ慰安婦だ・・・等々。
      いまも金さんはどこへ行っても、一見つじつまの合わない証言を繰り返しています。
      矛盾してたって自分の記憶がそうなんだから気にしないという姿勢です。
      体験に裏打ちされた記憶に自信があるのでしょうか。
      今回は、金さんの証言がどこまで当てにならないか、それをこれから検証します。 

    ■同時代の公文書に反する記憶 


     金さん証言
       「陸軍第15師団の本部について、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと連れ回されました。」
     (2012.9.23「橋下市長! 日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言) 
    http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/18155831.html 

    「最初、中国・広東の慰安所に入れられた。」 
    (『朝鮮新報』2013.6.3) 
    http://chosonsinbo.com/jp/2013/05/0527ry03/ 

      金福童さんは、第15師団について各地を回ったと証言している。 
      しかし公文書はこの証言を否定している。 
      南方軍第10陸軍病院の1945年8月31日付の記録に、軍の傭人として金福童さんの名前が載っており、本籍も一致しているので本人に間違いないという。 

     元日本軍慰安婦・金福童さんの実名記録が発見(朝鮮日報記事) 
    http://f17.aaacafe.ne.jp/~kasiwa/korea/readnp/k285.html 

    資料の名を、「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」という。 
      資料名でわかる通り、金福童さんは第16軍の下にいた。 
      場所はインドネシアのジャワ島である。 
      慰安婦をしていたという以外に、こんな所にいる理由がない。 
      たしかに彼女は慰安婦だったのだ。 
      このことは間違いない事実である。 
       
      しかし、金福童さんが証言する第15師団は、ビルマで戦った。 
      第16軍はジャワ島にいた部隊である。 
      二つの接点はまったくない。 
      金福童さんはシンガポールやインドネシアに行ったと証言しているが、第15師団はそういった場所に行っていない。 
      金さんが第15師団と行動を共にしたとすると、解けない矛盾だらけになる。 

      本人の記憶は大切にしなければならないが、記憶と同時代の公文書との間に矛盾があれば、公文書が正しいと考えるほかないだろう。 
      第15師団について行ったという本人の記憶は、間違っていると考えた方がよい。 
      しかし以下に示すとおり、「第15師団」という条件さえはずせば、金福童さんの証言は極めてリアルなのだ。 
      そのことを、これから確かめたい。 
      まずは、広東からである。 

    ■広東時代 
     証言 1「最初、中国・広東の慰安所に入れられた。」 
    (『朝鮮新報』2013.6.3) 
    http://chosonsinbo.com/jp/2013/05/0527ry03/  

      広東省は香港やマカオの北隣、深セン経済特区で有名な地域である。 
      連れて行かれたのは、「14歳のとき」だという。 
     (2012.9.23「橋下市長! 日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言) 

      先に見たとおり、1945年8月に19歳だったのだから、金さんは1926年生まれである。 
      金さんは戦前の人だから、満年齢ではなく数え年を使う。 
      連れて行かれた数え年14歳 は、1939(昭和14)年である。 
      この年に広東で何があったのだろう。 

      前年の1938(昭和13)年9月、広東作戦が発令された。 
      10月に作戦が開始された。 
      11月には広東の要衝がすべて占 領された。 
      この時から広東に日本軍が駐留した。
      第5師団、第18師団、第104師団の三個師団。大部隊で ある。 

      翌1939年には、少なくとも都市 部の治安は安定した。 
      それに伴って大量の慰安婦の需要が発生した。 
      金福童さんが連れて行かれたのは、まさにその時期に当たっているのだ。 
      日本軍の作戦行動と証言に矛盾がない。 

      なぜ金さんはこんなに幼いのに連れて行かれたのか。 
      その理由を示す資料がある。
      当 時の日本軍は性病に悩まされており、朝鮮の「年若き女」を求めていたようなのだ。
      別の地域の資料だが、同じ年、昭和13年4月10日付「第14師団衛生隊」文書に、こんな記述がある。

       「支那妓女の検黴(けんばい)の成績を見るにほとんど有毒なるにより支那妓婁に出入りせざること。」 

      現地のプロの娼婦は性病にかかっていて、慰安婦として使えないというのである。 
      また同時期の「第11軍第14兵站病院」文書は、内地から 来た慰安婦を「あばずれ女」と評価し、花柳病(性病)が多いと書き、病気を持たない朝鮮の「年若き女」を奨励している。 
      こういった軍の要請にもとづいて、金さんのような朝鮮の少女に白羽の矢が立ったのだと思われる。 

    ■広東からマレーシア、シンガポールへ 

    証言2 「陸軍第15師団の本部 について、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと連れ回されました。」 
     (2012.9.23「橋下市長! 日本軍『慰安婦』問題の真実はこれです」集会の証言) 
    http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/18155831.html 

    証言 2では、最初に行った広東が、台湾のつぎに上げられている。 
      このことから、証言2にあげられた地名は、思い出すままに並べただけで、移動の順序に並んでいるのではないことがわかる。 
      広東を占領した部隊がどのように移動したのかを確かめるにあたり、便宜的に、金さんが上げた地名に丸数字を振る。 

      1)台湾、2)広東、3)香港、4)マレーシア、5)スマトラ、6)インドネシア、7)ジャワ、8)シンガポール、9)バンコク 

    注意 すべきなのは、5)スマトラと7)ジャワは、どちらも6)インドネシアの国内地名だという点である。 
      6)と5),7)は重複しているのである。  
      その点を念頭に置いて、順次、見ていこう。 

    1941年11月 
      大本営がマレーシア攻略を含む南方作戦の作戦準備を下令した。 
      しかし広東作戦とマレー作戦は全然別の作戦で、参加した部隊もまるで異なっている。
      通常なら、広東にいた慰安婦がマレー方面に移動することはないはずだ。
      この点、一見すれば金福童さんの証言は不可解に見える。
      ところが、広東からマレーに引き抜かれた部隊が、一つだけあるのだ。
      広東にいた第18師団は、 新編成の第25軍に加えられ、マレー方面に転ぜられた。 
      広東からマレー方面に転進した部隊は第18師団だけである。 
       (証言にある第15師団 は参加していない。) 
      そして第18師団の部隊記録に、金さんのあげた地名が次々に登場するのである。
      金福童さんは、第18師団 について行ったと見るのが合理的である。 
      第18師団は渡航準備のため、広東 から3) 香港を経由して海南島に移動した。 

    1941年12月 
      マレー作戦が開始され、まずタイ国攻撃が始められた。 
      渡洋してきた第18師団 は、第25軍の部隊としてタイの首都 9) バンコクに進駐した。 

    1942年2月 
      第18師団は第25軍の部隊として、4) マレーシアに進撃した。
      日本軍はたちまちマレー半島全域を占領する。 
      第25軍がシンガポール作戦開始。 同、占領。 
      第18師団は 8) シンガポールに駐留した。 

      ここで確認しておきたいのが、慰安所の管轄である。 
      中国戦線では管轄があまりはっきりせず、各級部隊がてんでに管理していたような記録がある。 
      しかし下級部隊が内地や朝鮮総督府と勝手に連絡を取り、慰安婦を要請したのでは統制が取れない。 
      その経験の蓄積もあってのことだろうが、南方軍は軍政部に管轄を一元化している。 
      軍政部は各師団の指揮下にない。 
      上級の第25軍の機関であ る。 
      中国から第18師団についてきた金福童さんだが、ここで規則通り、第25軍の軍政部の管轄下に置かれたはずである。 

    ■インドネシアへ 

    1942年4月 
      広東から一緒だった第18師 団が、第25軍から離れてビルマに移動した。 
      しかし金福童さんの慰安所は、第25軍の直轄になっていたから、第18師団と切り離されており、シンガポールに留まったとみられる。

    1943年5月 
      第25軍司令部がシンガポールを離れ、5) スマトラ島の ブキッティンギに移駐した。 
       (スマトラは 6) インドネシアの地名) 
      金福童さんたちもこの移駐に従った。 

    ■帰国へ 

    証言3 「アジア各地の前線を転々とし、8年間、慰安婦を強いられた」 
    (2013.5.20『沖縄タイムス』) 
    http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-05-20_49450

     1945年8月 
      敗 戦。 

    1945年9月 
      第10陸軍病院( 7) ジャワ)の名簿に「金福童 19歳」との記録。 
    (「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」) 

    これは軍の公文書だから、数え年ではなく満年齢である。
      金福童さんは、どんな理由で第25軍の管轄を離れて第16軍の管轄下に入ったのだろう。 
      それは引き揚げ準備のためだったと思われる。 

      別の部隊の話だが、セレベス島第2軍民生部作成の資料(昭和21年6月20日付)によると、連合軍の命令で第2軍がジャワ島の将兵(第16軍)を管理し、パレパレ港に集合させている。 
      第16軍が管轄していた慰安所の調査も、第2軍がまとめている。 
      日本軍の戦闘序列からすれば、おかしなことが起きているのだ。 
      そしてそのことは連合軍の命令だったというのだ。 
      連合軍が用意した引揚船(ジョージポインレックスター号)の運航や寄港地に合わせて、連合軍の管理しやすいようにしているのである。 
     (以上の資料はアジア女性基金の『政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料』第3巻所収) 
      こ ういった時期だから、金福童さんの管轄権が第25軍から第16軍に移っていることに、不審はない。 

    1946年〜1947 
    インドネシアから引き揚げ。金福童帰国。 

      連合軍がまず最初に日本軍に命じたのは、慰安婦を帰国させることであった。 
       「連合国指令書第一号」が「遊女屋並びに慰安婦を日本軍と共に撤退させよ」という命令なのだ。 
       (昭和20年9月7日付「日本派遣南方軍最高司令 官宛連合国指令書第一号」『政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料』第4巻) 
       
      慰安婦の帰還に消極的な軍を、連合軍が叱咤していると思われる。 
      最高司令官命令だから、慰安婦の帰還はわりと早かった。 
      各種資料を総合してみると、生き残りの慰安婦は1946年6月までには全員帰国しているはずだ。 
      金福童さんの帰国が1946年 ならば、1939年から足かけ8年だ。 
       「アジア各地の前線を転々とし、8年間、慰安婦を強いられた」という本人の証言とピッタリ符合している。
      このとき、満年齢で20歳、 数え年で22歳であったはずだ。 
      右派は満年齢と数え年を混同して、計算が合わないと騒いでいるのだ。
      それは合うはずがないだろう。
      ご苦労なことである。


      これで考察を終わる。 
      日本軍について多少の知識があれば、金福童さんの行動軌跡は、有り得ないものと見える。
      作戦区域をまたいで移動したり、軍をまたいで管轄が移動したり、そんな無茶なとわたしも初めはそういう印象だった。
      しかし、調べてみて驚いた。ちゃんと合理的な裏付けがあったのだ。

      金福童さんの証言「第15師 団」は、「第18師団」の記憶違いではあるまいか。 
      そう仮定すると、年齢にも経歴にも矛盾が見あたらず、ほとんどの地名が漏れなくピッタリと符合する。
      ただし、「台湾」だけが不可解だ。
      そこだけは、裏付けが取れない。
      つまり金福童さんの証言は、年代はぴったり合うのだが、9ヶ所の地名のうち、1ヶ所だけ資料的な裏付けが見当たらない。
      その程度には、「当てにならない」のである。 
      彼女がニセの慰安婦で、デタラメを語っているのだとしたら、まぐれ当たりでこれほど見事に地名が符合することはあり得ないと私は思う。
      残り1ヶ所にこだわって、まだウソだデタラメだニセ慰安婦だと言いたい向きには、もう勝手にしろと言うしかない。

    2014年7月31日 泥 憲和 

    【従軍慰安婦の真実】5
    従軍慰安婦という名称は間違っているという批判について


    否定派は、従軍慰安婦という名称にこだわります。

    従軍という言葉は軍属という正式な身分を表す言葉だ。
    だが、慰安婦たちは民間の売春業者が連れ歩き兵士を客とした民間人である。
      従軍というのは間違いで、追軍売春婦だ。

      このように言うわけです。
      慰安婦制度に国家が関与していたことを認めたくないからですね。
      この意見は、もちろん間違っています。
       46年も前の昭和43年に、国会で慰安婦に関する質問がされています。 
       
      第058回国会 社会労働委員会 第21号 
     昭和四十三年四月二十六日 
    http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/058/0200/05804260200021c.html 

    日本社会党の後藤俊男衆議院議員が、慰安婦に対する援護法適用について質問しており、厚生省(当時)の政府委員がこう答弁しています、
     「慰安婦に無給の軍属のような身分を与えていた」と。 

      軍属だったら、従軍していたのです。 
      慰安婦は雇い主から稼ぎを受け取るので、軍が給料を支給しないのは当然ですし。
      答弁は「軍属のような身分」ということなので、正式の軍属ではなく、「軍傭員」に類するパート職員扱いだったと思われます。
      前回のエントリーに書いた金福童さんは「軍傭員」の身分でした。
      それにしても軍属なのだし、軍から宿舎を提供してもらっているのだから、追軍売春婦というのはまったく人を馬鹿にした呼び名です。

      厚生省(当時)の政府委員は、こうも答弁して います、
     「輸送船が沈められて亡くなった慰安婦は援護法の対象である」。 

      援護法の対象になるのは「公務に従事して死亡した場合」に限りますから、慰安婦は公務で輸送船に乗っていたと認定されているのです。
      こういうことだから、「ただの民間人だ」というのは間違いで、「従軍」という接頭語は正しいのです。

      大事なことなので、政府委員の答弁を要約しておきます。 

    1.戦地の慰安婦に軍が宿舎の便宜を与えていた。 
    2.慰安婦には無給の軍属の身分を与えていた。 
    3.戦地で銃を取って戦ったり従軍看護婦の役割を果たした慰安婦もいる。 
    4.戦場で軍に協力して死亡した慰安婦は、正式の軍属や準軍属とみなして援護法の対象になる。 
    5.海上輸送中に沈められた慰安婦も、軍属あるいは準軍属として、援護法の対象である。
     

      政府委員は、つぎのようにも答弁しています。
       「立場として申し出にくい場合があるだろう。法律を知らずに泣いている人もあるだろう。一人残らず救うために努力したい。」

      一人残らずと言ってもそれは「戦闘協力者として、または輸送船が沈没したことで亡くなり、正式の軍属や準軍属とみなされた慰安婦」のこと、 死んでしまった慰安婦の、遺族のことです。
      生き残った慰安婦には何の援助もありませんでした。
      彼女たちは戦後をどのように生きたのでしょう。
      次回はそのことについて書きます。

    従軍慰安婦

    2014年7月31日 泥 憲和

    【従軍慰安婦の真実】6
    敗戦後の日本人慰安婦たち


    前回は慰安婦が軍属に準ずる扱いを受けていたことを書きました。
    中には最前線で戦闘協力者として戦死したり、または輸送船が沈没したことで亡くなった方もいて、その場合は遺族年金の対象とされています。
    しかし生き残った慰安婦には何の援助もありませんでした。
    彼女たちは戦後をどのように生きたのでしょう。

    ネトウヨやバカ評論家は言います。
    「日本人は奥ゆかしいから賠償など要求しない」...
    「売春婦が売春禁止反対を唱えるような韓国人とは違う」
    ふざけちゃいけません。

    昭和23年11月27日、衆議院で一通の陳情文が読み上げられました。
    陳情者は、大阪府接待婦組合連合会の会長、松井リウ。
    接待婦とは、要するに売春婦です。
    陳情書で松井は売春防止法の制定を延期して欲しいと述べます。
    (国会議事録 第003回国会 法務委員会 第10号 昭和二十三年十一月二十七日)

    自分たちは戦時中は看護婦や慰安婦としてお国に尽くせと言われ、帰ってみれば何の保障もなく、
    あるいは夫が戦死したために生活に窮し、
    女中に行けば雇い主から犯され、働きに出れば上役から関係を迫られ、
    そんな男の身勝手が横行している世の中なのに、暮らしのために売春してはいけないとはどういうことか。
    せめて暮らしていけるぐらいの経済力が身につくまで、また男たちの性に対する意識が向上するまで、売春防止法はつくらないでほしいと。

    「私たち就業婦の中には、戰爭中白衣の天使として第一線に從軍し満洲、中支、南支、南方各地域において、また軍の慰安婦として働きおり引揚げたる者、その他夫が戰死し子を持つ者、元ダンサー、女給、看護婦、女店員、女工等と諸種の前職を持つておる者ばかり」

    「現在の接待婦以上のことをいたさねば生活ができず・・・、生活もろくにできず、衣類等を賣り盡くして現在の職業に入つて來ている者が少くないのであります。」

    「いかに男女同権とか基本的人権の尊重が叫ばれましても、現在の社会はそんなりつぱなものではありませず、私たちのうち、女中奉公中主人にむりを言われ、ビズネス・マンとして上役の人よりむりを言われ、いずれの職域においても職業婦人は横暴なる男性のために犠牲になり、苦労しているのが事実であります」

    「経済界が安定して生活苦が少くなり、一般職業婦人が給料にて生活ができ、その上服の一着もくつの一足も買うことができ得るようになり、他面青年男女が一定年令に達したなれば、結婚して主人の收入にて生活ができるよう、また全國民が衞生思想が発達し、性教育が今少し普及され、すべての点につき世界の水平線まで進み、自他ともに認められる時期まで、今度の法律が出ぬようにしていただきたいと思います」

    彼女の言い分がすべて正しいとは言わないけれど、売春を続けさせて欲しいと言わねばならない境遇に陥ったのは、彼女たちの責任ばかりではないでしょう。
    こういった彼女たちに対し、しかし世間は冷たかった。
    昭和27年04月25日、参議院法務委員会において、参議院議員宮城タマヨが、売春防止法を早く施行してほしいと求めています。

    「東京の吉原を調べてみましても現在ざつと千三百人以上従業員がおります。そうしてこの様相は実に驚いたものがあるのでありますが、そういうことが一体今後いつまで許されるものか」

    「慰安婦として政府が集めましたその人たちがまだ随分残つておる。それでその人たちは実に大手を振つて威張つてこの仕事に従事しておりますのでございます。政府からもお招ばれしているんですよということをまだ言つておるのです。それで一つどうしても早い機会にこれは何とかしてほしいのでございますが、これにつきまして政府の御意見は如何でございましようか」

    戦後、日本政府は連合軍が進駐してくるよりも前に、兵隊には慰安所が必要だろうと勝手に決めつけて、特殊慰安所RAAを設けました。
    そこに戦時中に慰安婦だった女性も多く応募しました。
    彼女たちはGHQが慰安所の閉鎖を命令したことで失職したあとも、売春婦として生きていました。
    宮城タマヨは、いつまでそんなことをさせているのかと問うのです。
    売春婦風情が大手を振って大威張りで生きるとは何事かと。
    「政府にいわれて売春していたのだ」といまだに言っているが、許しがたいと非難するのです。

    司法大臣を夫に持つ宮城タマヨは、戦前から上流社会の名士でした。
    戦時中にはこんなことを書いていた人です。

    「敵の本土上陸、本土決戦は、地の利からも、兵員の上からも‥‥決して不利ではありません。一億一人残らず忠誠の結晶となり、男女混成の総特攻隊となつて敢闘するならば、皇国の必勝は決して疑ひありません」
    「大義に徹すれば火の中、弾の中をもの ともせぬ献身の徳は、肇国以来の日本婦道でございます」
    『主婦之友』1945年7月号「敵の本土上陸と婦人の覚悟」

    てなことを書いていた御仁が敗戦とともにくるりと手のひらを返して参議院議員におさまり、「平和憲法」「民主憲法」に賛成しました。
    戦時中、この人は夫を兵隊に取られた庶民の苦労などお構いなしでした。
    生活苦を嘆く若妻に、彼女はこうご託宣を下していました。

    「良人の収入の範囲で生活を築いていくと言うことがモットーにならなければ、その家庭は健全に育っていきません。新家庭がお金に不自由するのは、むしろ当然だと私は思いますよ」
    「これからの日本では殊に、厳しいとか辛いとかいうことを知らないで過ごされるような人を作らなくちゃなりません」
    『主婦之友』1941年12月号「戦時下花嫁の生活建設相談会」

    厳しいとか辛いとかいうことを知らないで過ごすというのは、苦労を苦労と思わないようになるべきだという意味です。
    何でも闇で買える優雅な暮らしを送りつつ、平気でこんなことを書く人でした。
    だから元慰安婦の苦労など顧みることがなかったのは当然といえば当然です。
    元慰安婦たちの、「自分たちだってお国に尽くしたのだ」というせめてものプライドを切り捨てて、たかが売春婦が「大手を振つて威張つて」いるのが許せないと。
    こういう人が参議院議員に当選した一方で、松井リウは紹介議員さえ得ることができなかったために、陳情書を政府専門員に代読してもらった。

    日本人元慰安婦は声を上げなかったのではありません。
    声を上げたのです。
    兵隊と一緒に苦労したのに、恩給ももらえない身の上でした。
    戦史に華々しく飾られることもない彼女たちです。
    せめて売春を続けさせて欲しいとしか言えない哀れな立場でしたが、そのような境遇に追いやった政府に向かい、精一杯の抗議をしたのでした。

    その声は聞き入れられることがなく、無視されました。
    上品でご立派なご婦人から嘲笑され、見下げられ、切り捨てられました。
    彼女たちのその嘆きと怒りの声が、かろうじて、いまも国会議事録に残っているのです。

    2014年8月3日 泥 憲和

    【従軍慰安婦の真実】7
    慰安婦の働き方と報酬額 1) 慰安婦業者の契約書を確かめる

     ネトウヨや右翼評論家によって、慰安婦はとんでもない高給取りだというデマが流されています。
    その証拠として元慰安婦の文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳が引き合いにだされます。
    文さんが慰安婦をしていたときに軍事郵便貯金として26,145円を貯めていた通帳の原簿が日本に残っていたのです。
    小野田少尉の話では、当時の大卒初任給が40円だったというので、その54年分にあたるそうです。
    そこで、「そんなに稼いでおきながら、何が性奴隷だ」という意見になります。
    だけど、その意見は間違っているのです。
    文さんのことは別の回で確かめるとして、まずは慰安婦の稼ぎについて、一般的な状況を確かめましょう。

     それには雇用契約を見てみるのが一番確かです。
    女性達はどんな契約を結んで戦地へ赴いたのでしょうか。
    『上海派遣軍慰安所酌婦契約条件(しゃんはい はけんぐん いあんしょ しゃくふ けいやくじょうけん)』という文書が残っています。
    慰安婦の募集に歩いていた男を警察が捕まえて、持っていた契約書を出させたものです。
    誘拐の疑いでいったんは逮捕したものの、軍がバックについていることがわかったので、警察は男を釈放してしまいました。

     では中身を見てみましょう。ひどいものです。 (写真)

    慰安所契約書


    前借金で身分をしばって働かせる、いわゆる「身売り」という契約です。
    こういうのは公序良俗違反なので、民法上は無効でした。
    明治時代に、大審院でその判例が確定しています。
    無効な契約なのに、庶民の法的無知に乗じて有効であるかのように見せかけて結ばせた、詐欺契約です。

     契約書は16才の女子にまで売春させようとするものです。
    こんな子どもに売春させるのは、いくら親の同意があっても完全に違法です。
    前借金の最高は500円。 
    都会で働く会社員の初任給が40円だったというので、その1年分です。
    農家には大金でした。
    契約書には、前借金のうち、2割を経費として天引きすると書いてあります。
    500円借りても、2割を天引されるので手に乗るのは400円。
    2年間働いて返さなければならないのは、元の500円です。
    2年で2割は、アドオン金利で年利10%。実質年利はもう少し高くなります。
    社内貸付としては、常識はずれの高利と言えます。

     慰安婦は2年間の契約ですが、病気などで中途でリタイアしたら、年利12%をつけて前借金を返さねばならない。
    そのうえ、別に前借金の1割という高額な違約金を取ると定めてあります。
    これでは女性はなにがあろうと辞めるに辞められません。
    しかし本当のところ、業者側は女性に途中でリタイアされたって痛くもかゆくもないのです。それは後で計算します。

     慰安婦が月給として手に出来るのは、水揚げの1割でした。
    兵が支払った料金は1回1円ないし1円50銭だったといいます。
    1人30分で1日に12時間働けば、24人を相手に出来る勘定です。
    実際には洗浄時間も休憩も必要だから、仮に20人としましょう。 
    1日に20円ないし30円の水揚げということになります。
    30日働けば600円ないし900円の水揚げです。
    手取りが1割なので、手に出来るのは60円から90円の計算となります。

     小野田元少尉によれば、普通のサラリーマンの初任給が40円でした。
    普通のサラリーマンの月給は100円とされていました。
    100円が50万円にあたるとすれば、慰安婦の手取りは30万円から45万円。
    1日12時間、1ヶ月30日も体を酷使して働いて、この金額です。
    時間給にして800円から1200円です。
    バカバカしいほど安いと思いませんか。

     住む、食べる、置き薬代は、業者負担だと書いてあります。
    それ以外の経費、たとえば着物や下着や化粧品、日用雑貨、性病以外の医者代、嗜好品、酒、タバコなどは女性が自分で負担しなければなりません。
    彼女たちは原則として外出も出来ないので、ちょっと手慰みにバクチでもおぼえさせられたら、あっという間にカスられてしまう金額です。

     ところで証言によれば、1日40人も相手をさせられた女性もいたといいます。
    これぐらい働けば、女性にも貯金ができるでしょう。
    しかし、そういうタフな一部の女性をのぞき、普通の体力、普通の性的能力しかない女性には、経済的実入りは驚くほど少ないのが実情でした。

     さて、女性ひとりが月に600円ほども稼いでくれれば、給料を支払ったあとで雇い主が手にできるのは540円。
    これなら500円貸し付けても、1ヶ月で元が取れます。
    半年働いてくれれば、ボロ儲けです。途中でリタイアされたってなんてことない。
    前借金を回収したあとは「維持管理費」を支出するだけで、稼げば稼ぐほど丸儲け。
    維持費と言ったって、建物は軍が建ててくれるのだし、食料まで支給された所もあるから、本当の丸儲け。
    雇い主側としてはもうかってしかたがない。笑いの止まらない商売でした。

     女性さえ集めればこんなにおいしい商売だもの、金にあかせた女性の獲得競争が始まったことは想像に固くありません。
    前借金が釣り上げられ、最高で2000円ほどにもなったといいます。
    芸者稼業は、すればするほど借金の増える商売だったといい、2年間働けばその借金がチャラにできるというのは、プロの女性にとってうまみのある仕事だったと言えます。
    業者の立場で言えば、2000円ぐらいなら、4ヶ月で元が取れるのです。
    これほどうまい商売だから、金にいやしい連中が、女性を集めるのにまともな方法ばかりとっていたかどうか。
    現在の闇金業やウラ風俗業にたずさわる紳士たちがどういうことをしているか考えれば、類推できるのではないでしょうか。

     今回は、業者と女性の契約条件を見てみました。
    次回は、軍が作った契約書を確かめます。

    2014年8月4 泥 憲和

     

    【従軍慰安婦の真実】8
    慰安婦の働き方と報酬額 2) 日本軍の契約書マニュアルを確かめる

     前回は慰安所業者の契約書を見ました。
    今回は軍が作成した規則です。こういう契約を結べという決まりです。...
    資料の名前は「馬来軍政監」作成の「規則集」に収録されている「慰安施設及旅館営業遵守規則」。
    そこに「芸妓、酌婦、雇傭契約規則」というのが定められています。(写真)

    軍規則集


    軍がこういった規則を作った背景に、無茶な搾取をする業者と慰安婦との間にトラブルがあったのではないかと私は推測しています。

     では規則を確かめてみましょう。
    慰安婦の給料は「慰安婦配当金」といいます。
    前借金の額により、配当金が異なります。
    前借金が大きいほど業者のリスクが高いから、「慰安婦配当金」の割合が低くされているのです。
    身体はいつ壊れるか分からないんだから、借金が多いほど搾取を強めるのは、雇用主としては当然だということでしょう。

     1500円以上
    雇主が六割以内、本人が四割以上
    1500円未満
    雇主が五割以内、本人が五割以上
    無借金の場合
    雇主が四割以内、本人が六割以上

     前借金の返済については、「慰安婦配当の三分の二以上」と規定されています。
    水揚げの四割〜六割の手取りから、さらに前借金を三分の二もさっ引かれるのです。
    米軍が捕虜にした慰安所経営者に尋問した、いわゆる「ミッチナ捕虜尋問調書」には、慰安婦の負債額に応じて、経営者が水揚げの50ないし60%を受け取っていたと記録されています。
    軍の規則に合致した内容ですね。

     ここまでは、規則の面から待遇を見てみました。
    しかし決まりごとと実際が異なるのはいつの時代も同じこと。
    そこで、実際はどうだったのかを別の資料で確認しましょう。
    慰安婦の水揚げがわかる資料があります。

     「鉄寧派憲警445号 軍慰安所に関する件報告(通牒)」
    アジア歴史資料センター レファレンスコード.C13031898700

     「南寧方面 慰安所戸数32  慰安婦295 1日一人当り平均売上19円47銭」

     こういった記録なのですが、平均売上は18円から19円程度のようです。
    前回、1日の水揚げを20円から30円と推測しましたが、その低い方の数字なのですね。
    1ヶ月なら600円です。

     前出の「ミッチナ捕虜尋問調書」には、水揚げが「300円から1500円」と記録されています。
    病気がちなら300円程度しか稼げない女性もいたでしょう。
    日本人慰安婦なら、将校専用となって1500円稼げたかもしれません。
    条件はいろいろですが、朝鮮人慰安婦の水揚げが平均600円程度というのは、そんなに大きく間違っていないと思います。 

     かくして、死ぬほど働いて1ヶ月600円の水揚げを確保したとします。
    2000円も借金があったら、水揚げの六割360円が搾取され、手取りは残り240円です。
    そこから三分の二160円を返済金として天引きされるから、慰安婦の手元に残るのは80円です。
    現代の感覚なら40万円程度になります。
    時間給にしたら1100円ほど。
    慰安所業者のつくった契約より、ちょっとだけましですが、これが売春という仕事にふさわしい稼ぎかどうか、私はかなり疑問に思います。

     文玉珠さんはビルマで宝石を買ったと証言しています。
    (元慰安婦が語るのは悲惨な作り話ばかり、という評価が間違っている一例です)
    月給40万円なら宝石も買えたでしょう。
    ただ、それは一日12時間以上、年間7000人もの兵隊とのセックスの代償です。
    こういう無茶をすると計算では一年で借金が消えることになります。
    しかし身体はもうボロボロでしょう。
    女性を監禁して、辞めることも許さず、時間給1100円で1日に12時間、月の休みがたった1日か半日で売春させたら、これはどう言い繕ってもやはり奴隷待遇ではないでしょうか。

    次回はいよいよ文玉珠さんの貯金について書きます。

    2014年8月5日 泥 憲和

    【従軍慰安婦の真実】9
    慰安婦の働き方と報酬額 3) 秦郁彦説を批判する。


    本日は文玉珠さんの貯金通帳について書く予定でしたが、予定を変えて短くて済むものに変更します。

    慰安婦は月に千円も二千円も稼ぐ高給取りだったという説がネットではびこっています。
    こんなに高給だったから応募倍率が高く、強制連行などする必要はさらさらなかったそうです。
    この説の大もとは慰安婦研究の第一人者、秦郁彦教授です。
    本を読まない人たちにそれを広げたのは、産経新聞です。
    ...
    教授は元防衛大学校教授にしてプリンストン大学大学院客員教授、そして日大教授という素晴らしい肩書きをお持ちの方です。
    このような方が唱えておられる説を私ごときが批判するのはおこがましいのですが、やはり一言せねばなりません。
    教授はこんなことを書いておられます。

    「経営者との収入配分比率は40〜60%
    女性たちの稼ぎは月に1000〜2000円、
    兵士の月給は15円〜25円。」
    「慰安婦と戦場の性」、P270より

    これをもとに、慰安婦は総理大臣の二倍の給料をもらっていた、なんて言われております。
    さてこの数字ですけど、ちょっと検算してみましょうか。

    仮に女性が50%を受け取るとします。
    2000円稼ぐには水揚げが4000円なければなりません。
    どれくらいの兵隊を相手にしたら、これだけ稼げるでしょうか。

    兵が支払う料金が一回1円から1.5円だったそうです。
    4000円にするためには1ヶ月に2600人から4000人の兵を相手にしなければなりません。
    30日働いたとすると、1日あたり86人から130人!
    こんなこと、できるんでしょうか?

    兵の持ち時間は一人あたり30分だったそうです。
    すると、86人を相手するには1日に43時間必要なんですよね。
    130人なら65時間です。
    とんでもない仕事ですね。
    1000円稼ぐには、21.5時間から32.5時間です。
    どんなに慰安婦が頑張っても、1日は24時間しかありませんし、人間は寝なければ死にます。

    プリンストン大学院の教授は数字には強いかも知れないけれど、その数字を現実に適用する想像力がないみたいですね。
    ところが、さらに驚いたことに、この程度の検算もしないまま、評論家などによって「慰安婦高給説」がテレビで堂々と流されているのです。
    そのバカバカしさたるや、本当にお話になりません。

    2014年8月6日 泥 憲和

    【従軍慰安婦の真実】10
    慰安婦の働き方と報酬額 4) 文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳【写真】

    貯金通帳

     慰安婦は高給取りだったとのデマが右派から流されていて、その証拠として元慰安婦の文玉珠(ムン オクス)さんの貯金通帳が引き合いにだされます。

     元慰安婦の文さんが戦時中に軍事郵便貯金として26,145円を貯めていた通帳の原簿が日本に残っていたのです。
    小野田少尉の話では、当時の大卒初任給が40円だったというので、その54年分にあたるそうです。
    そこで、「そんなに稼いでおきながら、何が性奴隷だ」という意見になります。
    だけど、その意見は間違っているのです。

    ◇軍事郵便貯金の正体

    お札

     まず「軍事郵便貯金」というのが何かの説明をしておきましょう。
    これは郵便貯金と名がついていても、郵便局の貯金ではありません。
    軍事郵便局というのは軍の機関です。
    預ける通貨は軍票でした。
    文さんのいたビルマではルピーの軍票が発行されていました。(写真)

     1ルピーは1円と数えました。
    しかし本当の円ではなく、ルピーを円に替えることは禁じられていました。

    ◇軍事郵便貯金は日本円に替えられなかった

     軍事郵便貯金が交換できたのは軍人・軍属だけで、それも現地で交換できたのではなく内地への電信送金に限られていました。
    金額も月額100円まででした。 つまり生活費相当です。
    民間人の交換は禁じられていました。
    なぜなら、軍人・軍属の給料は戦時予算で手当されていたので、円の裏付けがあったけれど、日本軍が物資を調達するために大量発行した軍票には、円の裏付けがなかったからです。
    円の裏付けのない軍票を大量発行したので、現地はインフレになりました。
    このインフレが日本国内に波及しないように、政府は軍票と円の交換を禁じていたのです。

    資料1「南方経済処理ニ関スル件」】
    昭和17年1月20日 閣議決定
    http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00374.htm

    資料2 大阪毎日新聞「南方へ邦貨携帯 現地軍で厳重に処罰」1942.7.16(昭和17)
    http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=69155609&comm_id=5973321

    現地がどれほどインフレで苦しもうと、日本だけは安泰という身勝手なシステムを作っていたわけです。
    この操作には横浜正金銀行が使われました。

    ◇文さんがもらったのは紙くずだった

     では、軍票の1円は、日本円でいくらになるのでしょうか。
    そのことは後にして、先に彼女が軍票をたくさんもらった背景について述べます。

     彼女はこれを「兵隊からもらったチップ」だと証言しています。
    印字された日付をみましょう(通帳の写真参照)。
    1945年4月4日〜5月23日の2ヶ月足らずの貯金が20,360円です。
    彼女はビルマのマンダレーにいたのですが、ここが陥落したのが45年3月です。
    この時点からあと、軍票は使えなくなっています。
    3月に価値のなくなった軍票を、4月にもらっているのです。
    文さんは、使えないお金 − 敗戦で紙くずとなった軍票 − を、日本軍将兵からわしづかみで渡されていたのです。

     こういう軍票をつかまされたのは、慰安婦に限りません。
    在留邦人も同じでした。
    その人たちは日本に引き揚げてきてから、日本円に変えて欲しいと要求しました。
    交換できるようになったのは、昭和29年のことでした。
    持ち込まれた金額は、10万円が最高、大部分はそれ以下だったそうです。

    (昭和29年第019回国会質疑)
    http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/019/0806/01904300806012a.html

     文さんは2万6千円だから、かなり下の方の金額です。

     1軍票円が1円に交換されたわけではありません。
    換算率は法律で定められていました。
    以下のサイトで換算表が確認できます。

    軍事郵便貯金等特別処理法(昭和29年法律第108号)
    http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs29-108.htm

     その換算表で計算すると、文さんの貯金額は、日本円で3,215円となります。
    この年の大卒銀行員初任給は、5,600円だったそうです。
    その1か月分にもなりません。
    ということで、文さんは全然金持ちではなかったことになります。

     この項、つづく

    2014年8月10日 泥 憲和

    【従軍慰安婦の真実】11
    慰安婦の働き方と報酬額 5) 文玉珠(ムン オクス)さんの送金など

     前回は文玉珠さんの稼ぎがけっしてよくなかったことを見ました。
    彼女の証言を裏付ける傍証があります。
    元日本兵の人が、当時のビルマの様子を書き残しているのです。
    2万円や3万円は紙くずだったのがよく分かります。

    【資料1 ビルマ敗走記 敗走モールメンへ】末尾に抜粋を記載
    http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/61475733.html

     本日はその余の話です。

    1. 文玉珠さんが貯めたのは慰安婦の稼ぎではない

     文さんのいた慰安所は、ビルマのマンダレーが陥落した時に経営者が逃げてしまって閉鎖されました。
    文さんたちは敗走する軍と一緒にタイのアユタヤまで逃げて、帰国船に乗るまで野戦病院の手伝いをしています。
    2万円を貯めたのはその時期です。
    だから慰安婦をして貰ったのではなく、怪我をした兵隊たちからチップとして貰ったのです。兵隊たちだって持っていても役に立たないからくれたのでしょう。
    この面からも、慰安婦が内閣総理大臣以上の高級取りだったという俗説は、まったくのデマです。

    2.文玉珠さんは五千円を送金したのか

     文さんは朝鮮に五千円も送金したと証言しています。

    『強制連行と従軍慰安婦』(平林久枝編)
    >ビルマに行ってからの名前「文原吉子」名義の通帳は、お金に替えることもできずになくしてしまった。
    >貯めたお金の一万五千円の中から、手紙と一緒にタイから大邸の実家に五千円を送った時、下士官に「故郷に全部送れ。おまえはバカだ」と言われた。
    >朝鮮に送金したのに、家も買わずに兄が下らないことに使ってしまった

     証言で文さんがいう「なくした貯金通帳」のことが、原簿に表れています(前回の写真参照)。
    昭和19年5月18日と6月21日に預金した900円分について「19.8.18亡失届出」と記載されているのがそれにあたるようです。
    原簿は「文原玉珠」名義ですが、他に「文原吉子」名義の通帳があり、そこに900円を預金していたのだと思われます。
    このように文さんの記憶と証言はとても正確なのですが、理解しがたい点もあります。
    文さんはなくした通帳の1万5千円から5千円を引き出したように語っていますが、実際の通帳記録は900円です。
    おそらく記憶違いでしょう。

     送金方法は、「手紙と一緒に送った」というのだから、戦時郵便を使ったのだと思われます。
    預金から5千円引き下ろして送金したのなら引き下ろし記録があるはずですが、それはありません。
    通帳に入れたもの以外に、もらった軍票があったのでしょう。
    戦時郵便で送ったものが無事に朝鮮に着いたかどうか、途中で沈められていないのか、いまとなっては確かめるすべがありません。

     仮に無事に郵送されていたとしても、文さんが送ったのは、ルピー軍票ですから、実家で円に換金できたはずがありません。
    無学な文さんはそういう仕組みを知りません。
    そこで「朝鮮に送金したのに、家も買わずに兄が下らないことに使ってしまった」と誤解して怒っているのです。
    軍票はお金ソックリだし、お金として貰ったものなので、文さんはお金だとずっと勘違いしているのですが、そのまま勘違いしている方が幸せだと思います。

    3 敗戦さえなければ大金持ちだったのか

     理屈のうえでは、1ルピーには1円の値打ちがあるはずでした。
    敗戦さえなければ、そのお金を文さんは手にできたでしょうか。
    それは無理でした。

     まずルピー軍票を日本円に替えることができません。
    ルピー軍票を軍事郵便貯金に入れれば、円になりました。
    しかしこの円は日本政府の規則で、内地に送金できないことになっていました。

    【資料2 1942年2月18日 読売新聞「大東亜経済建設の指標」】末尾に抜粋を記載しています
    【資料3 「南方占領地域における為替管理関係」】末尾に抜粋を記載しています

    資料2には、内地への送金は禁じられていると書かれています。
    資料3には、為替送金できたのは、「軍人・軍属が軍より支給を受けたる俸給、旅費、その他の給与」に限ると書いてあります。
    慰安婦の収入は「軍より支給を受けたる」ものではないので、「軍関係のもの」に当たりません。
    民間人でも、内地の家族を養わなければならない人は、許可を得て送金できましたが、「1か月200円相当額以下」に制限されていました。
    大金を送金するのはシステム的に不可能でした。
    しかも、扶養家族がいるのでもない文さんには、送金許可はおりなかったでしょう。
    さらに、戦争に負けていなくてもインフレで軍票の価値は戦時中から下がり続けていました。
    100ルピー軍票というのが発行されていますが、いまの価値で言えば50万円札です。

    軍票

     それほど軍票の値打ちが落ちていたのです。 (写真)

    こうして、文さんの2万円には価値がないことが論証されたことになります。
    ついでに戦後のことも書いておきます。
    敗戦により戦時中の政令の効力がなくなると、政府は「金融緊急措置令」を出して預金口座を封鎖してしまい、引き下ろせないようにしました。
    預金封鎖を解いたのは、新円に切り替えた後です。
    その時は、額面どおり払い戻されても、古いお金はもう二束三文の値打ちになっていました。

     次回は「韓国に賠償したのだからもうすんだ話」という議論について。

    【資料1 ビルマ敗走記? 敗走モールメンへ】
    「私たちは経理部の者ですが、これから車両と荷物を焼き捨てます、入用の物があったら何でも持って行ってください」という。私は兵にしては年配で態度がでかいから、将校と間違えたのだろうか、「将校服もだいぶありますから、2,3着持って行かれたら・・」という。

     何食わぬ顔で「いや、折角ですが、服は持っていますから」と答えたら「じゃ、金はどうです?今から焼却するところだから必要なだけ持って行って下さい。2,3十万どうですかー」と言うので「荷物も多いし、じゃー当座の用に3万円ほど頂きましょうか・・」と新札の軍票3万円を貰い、礼を言って別れた。戦前の感覚では普通の会社員が一生稼いでも3万円残せば上等の方である。それにしても始め30万円と聞いた時には驚いた。今の金なら恐らく億単位であろう。あとでこんな事ならも少し欲張っていたらよかった、と思った。
    http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/61475733.html

    【資料2 1942年2月18日 読売新聞「大東亜経済建設の指標」】
    本邦業者にせよ在来企業家にせよ差当り資金を必要とする時にはすべて南方開発金庫より軍票を借受けるのであって、たとえ三井財閥であっても内地より円資金を現地に持込むことは許されないこの反面現地で或程度の資金が集積してもこれを内地に送金出来ないのであって、現地で得た利潤は現地開発に当てねばならない
    http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00841425&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

    【資料3 「南方占領地域における為替管理関係」 】
    アジ歴Ref.B02032868600

     アジア歴史資料センターにアクセスして、レファレンスナンバーを入力して下さい。
    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet?GRP_ID=G0000101&DB_ID=G0000101EXTERNAL&IS_STYLE=default&XSLT_NAME=MetaTop.xsl&RIGHT_XSLT_NAME=MetaSearchRefCode.xsl

    第二条
    本邦通貨、軍票又は外国通貨を本令施行地外の地に送付又は携帯せんとする者は所轄民生部長の許可を受くべし。但し左に掲ぐる場合はこの限りにあらず。

    1.軍人、軍属が軍より支給を受けたる俸給、旅費、その他の給与を携帯するとき
    2.軍人、軍属以外の者が旅費に充つるため二百円相当額以下の外貨軍票を携帯するとき
    第五条
    全各条の規定に違反したる者は三年以下の監禁又は一万円以下の罰金に処す。

    2014年8月10日 泥 憲和

    【従軍慰安婦の真実】12
    日本は韓国に賠償金を支払ったからそれでいいのか? 1)


    【ネットの中だけの真実】

    日韓経済協定を結んで韓国に支払った金は、個人賠償の分も含んでいる。...
    それで最終的に解決したのだ。
    その金8億ドルを経済建設に使ってしまったのは韓国政府だ。
    いわば韓国民の金を政府が使い込んだのだ。
    韓国民にそのことを長期間隠蔽していたのは韓国政府だ。
    それなのに、どうしていまさら日本が個人賠償に応じる必要があるのか。

    【本当の真実】

    1 日本は韓国に賠償していませんし、現金を渡してもいません
    そのことは日韓協定の本文を読めばわかります

    日本は賠償支払いを拒否しました。
    韓国にしたのは経済援助であって、賠償ではありません。

    8億ドルを援助したといいますが、政府分は5億ドルです。
    3億ドルは銀行が韓国政府に貸し付けたものだから、援助といえるのか微妙です。
    ともかくこの分はちゃんと返済されています。

    政府分の5億ドルの内、2億ドルは有利子の貸付で、20年返済です。
    一度に貸し付けたのではなく、10年分割で貸し付けました。
    これも利子を付けて韓国がキッチリ返し終わっています。
    無償援助は3億ドル(1080億円)にとどまり、これも10年分割で実施されました。

    貸付も援助も、韓国に現金が渡されたのではありません。
    だから韓国政府が使い込めるはずがないのです。

    ではお金はどうなったかといえば、全額日本の会社に支払われたのです。
    なぜなら貸付も援助も、協定でその使い道が限定されており、
    1) 「韓国政府が日本から買う物資の代金」と、
    2) 「韓国で工事をした日本の会社への支払」
    この二通りにしか使えなかったからです。

    具体的な支払い方をみましょう。
    まず、韓国がこれこれの機械が必要だとか、これこれの工事が必要だとかいうリストを日本に提出します。
    日本が審査してオーケーを出せば、韓国政府は日本企業に発注します。
    その代金は日本政府から日本企業に支払われます。
    韓国政府は現金に触ることもできません。
    援助金はすべて日本政府から日本の会社に支払われたのです。
    援助がそういうものであることがわかるように、条約本文を末尾に掲載します。

    さてその援助の大きさです。
    無償援助は1080億円なので、10年分割なら、1年当たり108億円。
    1966年の政府予算は4兆5千億円です。
    このうちの108億円は、予算のたった0.24%です。
    大した金額じゃありません。 
    当時、日本は旧軍人・軍属に対し、毎年1兆円以上の軍人恩給を支給していました。
    その1%にすぎません。

    援助がおわるころ、つまり10年後の1976年の予算は24兆6千億円。
    このうちの108億円だから、予算の0.044%。
    全然大したことありません。
    だけどこの援助をうまく使って、韓国は奇跡的な成長を見せたと【ネットの真実】は語ります。
    もしもそうなら、日本はよいことをしたのです。
    せっかくよいことをしたのに、デマで汚してしまっては、値打ちが半減してしまいます。


    ■日韓請求権並びに経済協力協定
    (財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)
    http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19650622.T9J.html

    第一条

    1 日本国は、大韓民国に対し、

    (a)現在において千八十億円に換算される三億合衆国ドルに等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から十年の期間にわたつて無償で供与するものとする。

    (b)現在において七百二十億円に換算される二億合衆国ドルに等しい円の額に達するまでの長期低利の貸付けで、・・・事業の実施に必要な日本国の生産物及び日本人の役務の大韓民国による調達に充てられるものをこの協定の効力発生の日から十年の期間にわたつて行なうものとする。

    2014年8月10日 泥 憲和

    【従軍慰安婦の真実】13
    日本は韓国に賠償金を支払ったからそれでいいのか? 2)


    1「請求権問題は解決済み」は禁反言

    韓国との賠償、補償問題については「日韓条約で完全かつ最終的に解決した」という意見が根強くあります。 ...

    請求権問題

     たしかに日韓両国間では、賠償問題は「完全かつ最終的に解決」しました。
    しかしそれは国と国の間の話。国と個人の間ではいまだに解決していません。
    政府閣僚が「日韓条約ですべて解決した」などと言っては困ります。
    それは禁反言の原則にもとります。
    日本政府はとっくの昔に、そういう解釈を否定しているからです。

     1991年と1992年に、韓国民に賠償請求権があることを認める政府答弁をしているので、引用します。

    ■1991年8月27日 参議院予算委員会 

    「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。」(資料1)末尾に抜粋を記載

    ■1992年2月26日衆議院外務委員会 
    「韓国の方々が我が国に対して個人としてそのような請求を提起するということまでは妨げていない。しかし、日韓両国間で外交的にこれを取り上げるということは、外交保護権を放棄しておりますからそれはできない、こういうことでございます。」(資料2)末尾に抜粋を記載

    二回も同じことを繰り返し答弁しているのだから、間違いありません。
    韓国民の請求権問題は、政治的に解決していないのです。

    2.それはシベリア問題が起点

    なぜこのような答弁がなされたかというと、シベリアに抑留された元日本兵の補償請求権がからんでいます。
    シベリア抑留者たちは、ソ連に対して賠償請求権を持っているのか、否かという問題です。

    日本とソ連は、日ソ平和条約で、個人に対する賠償も含めて、互いに請求権を放棄しています。
    それで抑留者たちは、人道的犯罪行為であるシベリア抑留について、ソ連に賠償請求できなくなってしまいました。
    こういう風に政府が国民の権利を勝手に放棄してしまった場合、権利放棄した政府が、加害者である相手国政府に代わって補償に応じなければなりません。

    そこで元日本兵たちは、日本政府に対し、シベリア抑留の補償を求めました。
    すると、政府はこれを断りました。
    政府はいいました。
    国は国民個人の賠償請求権を放棄したからお手伝いできないが、国民個人がソ連に直接請求する権利まで放棄したのではない、そもそも個人の権利は、政府が放棄できる筋合いのものではない、だからあなた方、勝手にソ連に請求してくれていいですよ、と。

    ■1991年3月26日、参議院内閣委員会

    「日ソ共同宣言第六項におきます請求権の放棄という点は、国家自身の請求権及び国家が自動的に持っておると考えられております外交保護権の放棄ということでございます。したがいまして、御指摘のように我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないというふうに考えております。」

    こういう責任逃れの答弁をしてしまったし、原爆裁判でもそういう主張を繰り返し、それを裁判所が認めたので、立場を変えて韓国民はどうかと問われると、これまでの答弁との均衡上、日韓協定も外交保護権の放棄に過ぎない、国民の請求権は消えていないと答えざるを得なくなったのです。
    (資料3)判決文の抜粋を末尾に記載

    3.政府の答弁のまとめ

    1)日韓協定は外交保護権を放棄しただけである。
    2)韓国民の請求権を日本の法律で消滅させたものではない。
    3)「請求権」について韓国人が日本の裁判所に訴訟を提起することができる。
    4)右の場合に請求が認められるか否かは裁判所が判断することである。

    私としては、裁判所の判断を待たずに政府が自分で決断すれはよかろうと思うんですが。問題は時効の壁です。
    しかしそれを突破する道がないではない。
    外国人に対する戦時債務についての、政令第25号第7条に「消滅時効の特例」を定めており、時効は「政令をもつて定める日まで完成しない」としています。
    これは供託財産についての特例ですが、国賠請求にも援用する必要があるのではないかと思います。
    (資料 昭和二十五年二月二十八日政令第二十二号)
    http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25SE022.html

    要するに、政府にやる気があるかないかというところに帰着します。

    ■資料1
    1991年8月27日 参議院予算委員会  
    「政府委員(柳井俊二君) …先生御承知のとおり、いわゆる日韓請求権協定におきまして両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。その意味するところでございますが、日韓両国間において存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて解決したということでございますけれども、これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。
    日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、こういう意味でございます。」

    ■資料2 1992年2月26日衆議院外務委員会 

    柳井政府委員 
    「…それで、しからばその個人のいわゆる請求権というものをどう処理したかということになりますが、この協定におきましてはいわゆる外交保護権を放棄したということでございまして、韓国の方々について申し上げれば、韓国の方々が我が国に対して個人としてそのような請求を提起するということまでは妨げていない。しかし、日韓両国間で外交的にこれを取り上げるということは、外交保護権を放棄しておりますからそれはできない、こういうことでございます。
    …その国内法によって消滅させていない請求権はしからば何かということになりますが、これはその個人が請求を提起する権利と言ってもいいと思いますが、日本の国内裁判所に韓国の関係者の方々が訴えて出るというようなことまでは妨げていないということでございます。…ただ、これを裁判の結果どういうふうに判断するかということは、これは司法府の方の御判断によるということでございます。」

    ■資料3 昭和41年12月7日東京地裁原爆訴訟判決(判例時報355号)
    「対日平和条約第19条にいう『日本国民の権利』は、国民自身の請求権を基礎とする日本国の賠償請求権、すなわちいわゆる外交的保護権のみを指すものと解すべきである。
    …請求権の消滅条項およびこれに対する補償条項は、対日平和条約には規定されていないから、このような個人の請求権まで放棄したものとはいえない。
    仮にこれを含む趣旨であると解されるとしても、それは放棄できないものを放棄したと記載しているにとどまり、国民の請求権はこれによって消滅しない。」

    2014年8月12日 泥 憲和

    【従軍慰安婦の真実】14
    「なぜ何度も謝罪しなければならないのか?いい加減にしろ」という意見について

    謝罪

     安倍さんは、2007年の第一次安倍内閣のとき、米下院に「慰安婦に日本政府が謝罪するように求める決議案」が提出されたのを受けて、つぎのように反応しました。

    ◆2007年3月1日 記者会見で...
    「強制性を裏付けるものはなかった」

    ◆2007年3月5日  記者会見で
    「(米下院)決議案は客観的事実に基づいていない」
    「謝罪することはない」

    ◆2007年3月14日 安倍内閣閣議決定
    「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」
    http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b166110.htm

    ところが、米国内の批判に追い込まれ、ブッシュ大統領との首脳会談では、まるで借りてきた猫みたいになってこう語りました。

    ◆2007年4月21日
    「辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情し、申し訳ないという気持ちでいっぱいだ」

    ブッシュ大統領は記者会見でこう述べました。
    「首相の謝罪(apology)を受け入れる(accept)。大変思いやりのある率直な声明だ」

    元慰安婦には鼻息荒く、謝罪しないのに、ブッシュ大統領に向けて謝罪するとはなんということかと思いますが、話はまだ続きます。
    帰国後、アメリカ大統領に対する謝罪はなかったと全面否定に転じたのです。

    ◆2011年11月 産経新聞インタビュー (ブッシュ大統領への謝罪を否認)
    「慰安婦問題は全く出なかった。そもそも日本が(当事国でない)米国に謝罪する筋合いの話ではない」

    ◆2013年3月8日 衆院予算委員会答弁(ブッシュ大統領へ謝罪を否認)
    「この問題はまったく出ていない。 事実関係が違うということだけは、はっきりと申し上げておきたい」
    (この答弁を検索する方法を末尾に示します) 

    そしてこの間、主張はまたも、元にぶり返しています。

    ◆2012年12月30日 産経新聞インタビュー (日本軍の関与を認めた河野談話について)
    「そのまま継承することはしない」
    「専門家の意見などを聞き、 官房長官レベルで検討したい」

    ところがところが、舌の根も乾かないうちに、この後、またも態度を豹変させます。
    国の内と外を使い分ける二枚舌が当然にも国際問題化しかけるや、一転してブッシュ大統領に対する謝罪があったことを認めたのです。 

    ◆2013年5月17日 閣議決定(ブッシュ大統領に対する謝罪を認める)
    平成十九年四月二十七日(現地時間)にブッシュ大統領と行った記者会見において、安倍晋三内閣総理大臣(当時)が、慰安婦についての考え方として、「辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである、二十世紀は人権侵害の多かった世紀であり、二十一世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と述べた。また、このような話を本日、ブッシュ大統領にも話した」旨の発言を行ったこと、また、このような安倍晋三内閣総理大臣(当時)の考え方について、ブッシュ大統領が評価を述べた事実関係を説明したものである。

    ◆2013年5月24日 官房長官発表 (河野談話を継承しないという主張を取り下げました)
    「河野談話を継承する」

    国会答弁でさえいけしゃーしゃーと嘘を述べて恥じない、こういった卑怯極まりない振る舞いが、一連の「謝罪」を引き起こしているのだということを、まず確認しておきましょう。
    そのうえで、それぞれの謝罪なるものを具体的に検証します。
    1970年代からの日本政府による、いわゆる謝罪発言の一覧がウィキペディアにまとめられています。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の戦争謝罪発言一覧

    これらがどういった内容なのか、確かめてみましょう。

    2000年8月17日
    - 山崎隆一郎外務報道官。

    これは謝罪ではなく、「謝罪しているじゃないか」という反論です。

    2000年8月30日
    - 河野洋平外務大臣。
    2001年4月3日
    - 福田康夫内閣官房長官。
    2002年9月17日
    - 小泉純一郎首相。
    2005年4月22日
    - 小泉純一郎首相。

    これらは謝罪ではなく、「すでに謝罪している」という説明です。

    2001年9月8日
    - 田中眞紀子外務大臣。

    これは直接的には中韓に対するものではなく、連合国全体に対するメッセージです。

    2001年
    - 小泉純一郎首相。

    これは私が正しいことをしたと評価している「アジア女性基金」の謝罪文です。
    首相が代わるたびに、首相名だけを入れ替えて使われていました。
    でも小泉さんの時に終結してしまいました。

    2003年8月15
    - 小泉純一郎首相。
    2005年8月15日
    - 小泉純一郎首相。
    2001年10月15日
    - 小泉純一郎首相。

    これは謝罪の意を表明するという終戦記念日のメッセージと、直接的謝罪です。
    この発言の裏には、日本国内で閣僚から小泉さんの言葉を踏みにじるような発言が続いたので、小泉さんはその度に何度も同じ事をくりかえすことで、自分の発言がウソではないと念押ししなければならなかったのです。

    結局のところ、自発的な謝罪といえるものはほとんどありません。
    失言の後始末とか、木で鼻をくくったような説明とか。
    しかし公的にこう言わざるを得ないのは、謝罪せざるを得ない事実があるからです。 それを認めないという閣僚の発言がいつまでもなくならないから、何度でも蒸し返されるのです。

    しつこくなりますが、ここで例え話を一つします。

    消費期限の付け替えをして食中毒を出し、社長が謝罪に追い込まれた会社があるとします。
    重役があとから、「期限の付け替えなんかはどこの会社もやっとる」「食中毒なんか、家で食べてもかかる」「批判する奴は補償金でも欲しいんだろう」なんて言ったら、その会社の信用はがた落ちです。
    社長はまたもや謝罪するはめになるでしょう。
    非難を浴びて、会社が倒産するかもしれません。
    こんなことを何度も何度も繰り返しているのが、情けないことに我が日本なのです。

    さきほどの会社で言えば、重役だって会社を愛しているから、そんなことを言うのか知れないけど、ひいきの引き倒しもいいとこです。
    本当に会社のためを思う社員なら、重役を諌め、消費者のために誠を尽くすように求めるのが筋というものです。
    その努めを、私はいま果たしているつもりでおります。

    【解説】
     安倍答弁の検索の仕方。
    「この問題はまったく出ていない。 事実関係が違うということだけは、はっきりと申し上げておきたい」
    (この答弁を検索する方法を示します)
    ■ 国会議事録検索システムをクリック
    http://kokkai.ndl.go.jp/
    ⇒ 「簡単検索」をクリック
    ⇒ 検索語入力「事実関係が違うということだけは、はっきりと申し上げておきたい」(他の情報も入力すると検索が速い。平成25年03月08日、衆議院) 
    ⇒「検索結果一覧」をクリック(1件しかない) 
    ⇒ 「予算委員会」をクリック。

     すると、答弁番号34の上記答弁が表示されるはずです。
    画面左の「会議録情報」で答弁の前後もわかります。

    2014年8月12日 泥 憲和

    【従軍慰安婦の真実】15 慰安所は戦地強姦を防ぐことが出来たのか

     慰安婦の真実シリーズは、あと一回、まとめを書いて、一応の終了とします。

    慰安婦制度を擁護する中に、慰安所を作ったのは強姦被害を減らすためだったという意見があります。
    その動機はたしかにありました。...
    しかし強姦を減らすために慰安婦制度を作るって、犯罪を防ぐために別の犯罪を犯すってことですよね。 そんな理屈が成り立つものでしょうか。
    「俺はムシャクシャしていて、このままでは街頭で無差別にぶん殴りそうだから、代わりにお前を殴って鬱憤を晴らす。痛いけど人様のためだ、黙って殴らせろ」こう言われて、誰がおいそれと殴られるでしょう。

    強姦防止に効果があろうがなかろうが、してはいけないことはしてはいけない。
    そのうえ、効果さえもなかったというのが、本日の記事です。

    戦地強姦に限らず強姦(および性的犯罪)の多くは性欲からではなく支配欲から行われるということは、今や通説です。
    戦時において強姦が多発しやすいのも、相手を屈服させる、支配するという要請が強く働くなかで、性を通じて相手を支配しようとするからです。
    イラクのアブグレイブ刑務所では女性兵士が男性捕虜に対して性的虐待を行っていましたが、彼女たちが性欲から性的虐待に及んだとは考え難い。
    サディスティックな支配欲の発露によると考える方がすんなりと納得できるのではないでしょうか?

    こういうことなら、いくら慰安所をつくっても強姦は減らないと見た方がよい。
    事実、日本軍の資料を見れば、強姦は減っていません。

    1.『支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策』

     最初の慰安所が作られてから3年を経た昭和15年11月、『支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策』(写真)が作られました。(金福童さんが14歳で慰安婦にされた翌年です)
    原文に適宜句読点を加え、カタカナを平仮名に直し、読み仮名を添えて転記します。

    「事変勃発以来の実情に徴(ちょう)するに、赫々(かくかく)たる武勲の反面に、掠奪、強姦、放火、俘虜惨殺等、皇軍たるの本質に反する幾多の犯行を生じ、為に聖戦に対する内外の嫌悪反感を招来し、聖戦目的の達成を困難ならしめあるは遺憾とする所なり」
    JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110762000

    このように、慰安所をつくっても強姦が多発しています。
    同じ年月に作られた『事変の経験に基づく無形戦力軍紀風紀関係資料(案)』にも、同じ悩みが漏らされています。

    「抗命、辱職、逃亡、殺人、傷害、強姦等依然減少せず」
    (アジア歴史資料センター Ref.C11110759600)

    『軍紀振作対策』には、開戦後、約1年半で略奪+強姦致死傷で罰せられた兵が420人。
    強姦致死傷だけで罰せられた兵が312人。
    合計で732人と載っています。
    見つかったのは犯行のほんの一部、目に余るものだけだろうし、脅して口止めした例もたくさんあると聞きますので、実数がどの程度なのか皆目見当が付きません。
    しかも対象となっているのは「強姦」ではなくて「強姦致死傷」ですから、強姦はまだ軽い罪とみなされてか、取締対象にすらなっていません。
    対策として『軍紀振作対策』はもっと慰安所をつくるべきだという提言をしており、慰安所作りに拍車がかかることになりました。

    2.『陸支密大日記 第9号』

    大量の慰安所をつくった結果、強姦事件は減ったのでしょうか。
    統計資料があったはずなのですが、焼却されたのか、現存していません。
    しかし、様子を知る手がかりがないではありません。
    昭和17年 「陸支密大日記 第9号」です。

    開戦以来5年目です。
    対策が功を奏しないことに業を煮やした軍隊司法当局は、陸軍刑法に「強姦罪」を新設し、非親告罪にしました。
    軍隊司法は、それなりに強姦多発に頭を痛めていたのです。
    その理由は、強姦が許しがたい犯罪だからではありません。
    討伐に出れば索敵もそっちのけに強姦に夢中になって戦闘がおろそかになること、日本軍への民衆の恨みばかりが増して、占領がうまくいかないからでした。

    強姦対策強姦対策2

    「戦地における強姦は軍紀を破壊し、軍の爾他の宣撫工作を一切無効ならしむ。又被害者において御難を恐れ告訴を躊躇する場合極めて多きをもって、非親告罪として処分するの要あり」(写真)
    JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04123725700

    3.『陸軍軍事警察月報』
    JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A06030009400

    つぎは昭和20年の資料です。
    慰安所を作り、刑法を厳しくして、それでどうなったでしょうか。
    『陸軍軍事警察月報』は冒頭で「多発犯罪左の如く」と上げる中に、逃亡、掠奪、窃盗と並んで、やはり戦地強姦が並んでいます。
    巻末にグラフがついていて、昭和20年の犯罪が群を抜いて多いことが分かります。
    昭和20年は慰安婦の数が最も多かった年のはずですが、そういう状態でした。

    日本軍は戦争中の強姦多発に悩まされ、沢山の慰安所を作りました。
    しかし作っても作っても強姦が減らないので、ずっと「慰安所が足りない」、「慰安所をつくれ」、「慰安婦を呼べ」と言い続けていました。
    しかしどれほど無理をして女性を連れてきても、強姦防止に関して、結局のところ効果的がなかったのです。

    効果があっても許せないのに、効果がないことに血道を上げていたのですから、もはやこれはどうしようもない愚策であり、あまたの女性に筆舌に尽くせない苦しみを与えた人道的犯罪でした。国内法に違反する奴隷契約でした。
    こんなものを擁護し、公文書で明らかな事実さえも否認する自民党と安倍内閣は、恥ずべき存在です。一日も早く打倒し、新しい政府に、元慰安婦に対してこれまでの過ちをきちんと謝罪させ、確固たる名誉回復をさせること、それなしに地に墜ちた日本の名誉を回復する手立てはないと思います。

    2014年8月12日 泥 憲和

    【従軍慰安婦の真実】16 最終回

     できるだけ分かりやすく書くつもりだったのに、だんだん込み入った話になってしまいました。反省です。長くて論証ばかりの文章におつきあい下さって有難うございました。
    これでネトウヨやクソ評論家の定番ネタに、あらかた反証できたかなと思います。
    もしも慰安婦問題でウヨがチャチャを入れてきても、この程度の資料を並べれば、大抵の奴は引き下がるはずです。
    ...
    まあそれにしても、ウヨたちは、丸っきりのデマを信じ込んでヘイトをカマしてくるわけです。
    で、ですね、読んで貰ったような、わりと細々した裏付けを背景にして、私は奴らに街頭でこう怒鳴り上げるのです。

    アホ!ボケ!クソ!カス!死ね!

    こういった罵倒を良しとしない向きがあることは重々承知しておりますが、この程度の罵倒を浴びても仕方がないことを連中はしてきました。(と私は判断します)
    ただ単にバカ同士が言葉のうんこを投げ合っているように見えるかも知れません。
    けれども、私が「ボケ!カス!」と罵るのには、それなりの下地というか、裏付けというか、根拠があるのであって、他に言うことを知らないアホがただ罵っているわけではないことだけは、ご理解願いたいなと。まあ、あんまり言い訳にもなりませんが。

    なぜそうするか、ですけれどね。
    奴らの中の確信犯的イデオローグたちは、奴らの政治目的のために、意図的に歴史をねじ曲げますよね。
    そいつらはプロウヨです。職業的デマゴーグです。
    わかっててやっているのだから、いくら批判され、論破されても改めません。
    街頭で日の丸おっ立ててわめいている奴らの中にも、確信犯的差別者がいます。
    そいつら行動派も、いくら批判されても行動を改めません。
    この連中は死ぬまでデマゴーグだろうし、差別者です。焼かないと治りません。
    まともに相手にしたって不毛でしかない。
    こいつらは、何を言われてもされても、屁の河童なんです。
    屁の河童に勝つには、陸に上がった河童にするしかありません。
    奴らから支持者を引き剥がして干上がらせるのです。

    理論闘争は、奴らの周りの付和雷同分子の確信を揺るがせるためです。
    街頭で中指立ててコラ!ボケ!とわめくのは、ビビリの付和雷同分子を物理的に蹴散らすためです。
    やり方は全然違いますが、二つの方法はちゃんと共通しているのです。
    単に騒いでいるだけではない。ここが馬鹿ウヨとカウンターの質の違いというもんです。

    闘い

     この国の頭目たちは、まともに理性的なやり方では集団的自衛権や改憲を推進できないと見切っています。
    それは日本に根付いた民主思想、ピースマインドが強固だからです。
    ここを切り崩すために、差別心をあおり、劣情を刺激して、情緒的なところから突破しようとしている。
    つまりこれは日本の進路を左右するたたかいです。
    負けるわけにはいきません。
    そういうことで、平和運動、民主運動と反ヘイト運動を結合して、戦う必要があろうと私は考えております。

    これで慰安婦のことはいったん閉じますが、たたかいは続きます。
    シリーズで書いたことは、どのように使っていただいても構いません。
    使えるなら学習会の資料や、ウヨども相手の論争に役立てていただければ幸いです。
    有難うございました。

    2014年8月13日 泥 憲和



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