私はどのように生きるか、私たちはどのような社会をめがければよいか、いずれも極めて本質的な問題で哲学上の課題でもあります。
が、どのような道を見出すにしても、その大前提となる基本の認識はしっかり押えておく必要があります。
以下は、その基本中の基本について、非日常的・特権的な専門用語ではなく、誰にもわかる日常の言葉で語った対話篇です。じっくりお読みください。
哲学の大事な問題=「自分を中心に考える、とはどういうことかー小我と大我」をはじめとして、関連する四つのブログと、コメント&白樺mlメールをまとめました。立体的になり、分かりよくなったと思います。ぜひご一読ください。
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2011-03-22 | 恋知(哲学)
「自己中」といえば、批判されるべきことですが、どんな人でも、まず、自分の「気分」が先立ちます。自分の安全を考え、自分の損得を考えますが、それは悪いことではなく、当然のことです。
自分という言葉の意味には、いまの気分を絶対化する「小我」、という意味と、よりよい「私」をめがけようとする「大我」という意味がダブっています。
いまある自分をそのままにして、その固定した自我から損得を考えれば、他者との関係は、必ず、利用可能か否かでしかなくなります。互いに主体者同士としての相互性のエロースを追求するのではなく、小我である自分が他者を利用するという他者関係にしかなりません。現代の成功者はこのような人が多いために、不幸を生産、再生産しているようです。
物や制度であれば、十分に利用するのがよいことです。利用することで、それらは価値をもちます。しかし、人間は違います。人間関係とは、親子、兄弟、友人、夫婦、恋人、生徒と先生、社員と経営者・・・ なんであれ、協力関係・相互関係であり、一方が他方を利用するのではありません。人間存在とは「主体者」の別名ですから、他者を客体視することは不可能なのです。
小我としての自分のために他者との関係をつくるというのが「自己中」といわれるもので、これは、非難されて当然です。自分自身もダメにしていく愚かな思考・言動で、なんともイヤラシイ。
けれども、もうひとつの自分、よりよい「私」をめがけようとする「大我」であれば、これほど価値のあるものはありません。哲学の基本である、深い納得=腑に 落ちる知を目がけるのは、この大我です。「なるほどそうか」という認識=了解ですが、それを得るためには、徹底せる自己が必要です。それが大我です。
【自分(大我)を中心に考える】、これは、よく生きるための基本であり、それを貫くことは、自分のみならず、他者の幸福・よろこびに貢献します。自他相互の関係性をエロース豊かな「得」のあるものにするのは、徹底せる自己(大我としての自己)なのです。それは、無限な拡がり、実存の充実から公共世界を生む基盤 ―条件と言えます。
武田康弘
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このブログを約めて言うと、
人間は、自分を中心にして生きることが大事。ただし、その場合の自分とは、小我ではなく、大我のこと。
小我に囚われていると、自分自身の損であり、他者に害を与える。
自他共に利するのは、大我としての「私」。
ついでに言えば、利他的に考える(他者の優先)という思想は弱い思想であり、それでは、真に他者を利することもできない。
というものです。
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『【自分(大我)を中心に考える】、これは、よく生きるための基本であり、それを貫くことは、自分のみならず、他者の幸福・よろこびに貢献します。自他相互の関 係性をエロース豊かな「得」のあるものにするのは、徹底せる自己(大我としての自己)なのです。それは、無限な拡がり、実存の充実から公共世界を生む基盤 ―条件と言えます。』
異論をたてようがありません )^o^(。
幼少のころ、『おてんと(天道)さまが見てるよ!』と祖母によく言われました。
自己中に陥っていたり陰でワルサしたりしてれば、そこでギクッ!
自分の良心は良いか悪いかはよく知っていて、おてんとさまはそれを気づかせてくれるきっかけ、というわけです。
多くのは宗教はもっと明示的に、『○○すべからず!』、『○○すべし!』という形で人々を従わせます。
保守的な発想の人々も、内的な確信からではなく外からの正しい価値、道徳(○○すべからず、○○すべし)を教えるべきだといいます。姪の通っていた高校の教師たちも、教育とは道徳(明示的な禁止や命令)を教えることだと勘違いしていました(>_<)。
宗教や伝統的価値観・世界観が崩れ、個人の自由が尊重されたとき、人の行動を規定する原理を一体どこに求めればよいのか。今はそのような時代かと。
放置すれば、グローバル化と新自由主義に染まった節操のない自由(エゴ)も蔓延します。
「小我である自分が他者を利用する」輩が多くなっていくのには、いささかうんざりします。
これではいけないと、思想・イデオロギーに頼る生き方を主張する自称哲学者が大勢いるのにも閉口します。これは宗教や伝統的価値観と変わらぬ外からの明示的な価値(規制)を押し付けているにすぎません。
エゴはゆがめられ、別の形で人に不幸をもたらすだけでしょう、きっと。
これが最近の哲学ブームの実態だと思います。
前振りが長くなりました。
自分の頭で『より良い』について考える。それを徹底することで他者への想いにもいたる。
ご指摘の、
『もうひとつの自分、よりよい「私」をめがけようとする「大我」であれば、これほど価値のあるものはありません。哲学の基本である、深い納得=腑に落ちる知を 目がけるのは、この大我です。「なるほどそうか」という認識=了解ですが、それを得るためには、徹底せる自己が必要です。それが大我です。 』
これは、言うは易し、行うは難し。
実際には、幼いころから日常生活の中でのたゆまぬ(『より良い』を追及する)体験の積み重ねこそが、『大我』に至る限られた道の一つなのでしょう。
あくまで、日常の積み重ね、です。
これが肝心かなめの肝(きも)、ですね。
いくら知識をため込み、理論を学び、論理を振り回そうと、それは本来の哲学とは無縁の世界です。
そのことを、『白樺教育館』における学者さんたちとの討論を通じて私は学びました。
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011-03-24 | 恋知(哲学)
大我としての自分=自己=意識とは、開かれた我=私のことです。
元来、人間の意識とは「志向性」を本質としますから(何かをめがける、何ものかについての意識)、閉じたもの・固定したもの=小我であると、意識の価値は下がります。
意識の本質とは「自由」である、とは、開かれているという意味です。
自分=自己とは、意識の別名ですから、人は生きている限り、絶えず自分を新しくしていきます。繰り返しますが、自分=意識とは、閉じた固定した世界ではありません。
意識が自己防衛の必要から一時的に閉じで固まっている状態を「小我」と呼びますが、この状態を続けるのは、自己欺瞞(自分で自分を騙す)でしかなく、「歪んだ意識」「不幸な意識」の別名です。したがって、小我としてしか生きられない人の生は、失敗した人生というほかないでしょう。
本来、自分=意識とは、固定させることの不可能な存在で、ゆえに「実存」と呼ばれます。実存とは「自由」の別名です。人間存在=実存は、「自由たるべく宿命づけられている」(サルトル)ために、人は、その言葉と行為に全的に「責任」を負っています。人間は、自由であるゆえに「責任」から逃れることができないのです。
自分につく、自分を中心に、というのは、一つの立場=思想ではなく、人間が人間として生きるためには、大我としての自分(=意識)を原理とするほかにないの です。石橋湛山の言う「我」「何をおいてもまず自己を考える」「明瞭にせられたる自己から出発する」「自己の立場についての徹底せる智見」(『哲学的日本 を建設すべし』1912年・明治45年6月『東洋時論』社論・湛山28歳))というのは、そのような意味での我=大我のことだと言えます。
武田康弘
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これ、読んでギクッとしました。
確かに、その時の気分が絶対化されて、それを中心として行動した時に
自分でも「何やってんの?」と思う言動になることがあります。
僕は自転車屋で働いていますが、お客さんに対する対応が回りくどくなったり、
親切とはいえない対応になったりする時があります。
そういった時、必ず意識は「小我」の状態でした。
逆に、意識が固定化されておらず、目の前のことやお客さんが、
何を求めているのか察知し、どうするのかをその場その場で臨機応変に
対応しようとしている時、頭はよくまわり、発言や行動はシンプルになり、
保身の意識はなくなり、自分を中心としながらも「オレがオレが」という意識は
消え去り、簡単に言えば活き活きと生きられます。
そうなれば良い意味で、周りを気にしなくなり
そして、良い意味で周りを気にするようになります。
ただ、終わった後はかなり疲れますが(笑)
まだまだ不徹底なので頑張らねば。
染谷
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「周りを気にしなくなり、
周りを気にするようになります。」
うん、言語表現すればこういう矛盾した言い方になるほかないですね。
このコメントは、とても明晰。「哲学する」ことの見本のような文章だと思います。
学者の哲学(哲学史の研究者)とは異なり、生きたほんものの思考です。
武田康弘
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自分の「小我」にとことん向き合い、その根本にあるものを良く知ることが出来るようになれば、
真理が見えてきて全体が見え、「大我」につながっていくのでしょうか?
とても難しいですが、自己への向き合い方と大切さが少し具体的に見えてきたような気がします。
間違っているかなあ?
楊原
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武田先生の仰有ることを伺って居ると小我と大我の別がわかってきますね。 真善美 どれがほんとのことか考えて、どれが善い事かをおもい、美しい事美しくあることを愛する事を感じ取ることは 、生きていてだんだん深くなってきているような気がします。そうなると、そうでないことを許すことも出来るかと思います。80過ぎのわたしが言うことなの で、間違っていたらごめんなさい。
清水光子
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誰でも、幼い頃から、自分の都合や損得で行為しますが、同時に、なにがほんとうか?なにがよいことなのか?も考えます。
前者は小我、後者を大我と呼べますが、それは、誰でも両方あります。
真善美を想う心(=大我)は、それを広げる生き方がいいよな、という自覚があれば、その方向に行くでしょうし、その自覚が弱ければ、小我という狭い世界が中心になるでしょう。
小我ばかりでは、「私」の人生が広がらず、つまらない。だから、大我の世界を目がける、そんな感じです。よいや美しいもの・ことに憧れ求める心が小さいと、自分が惨めになると思います。
以上は、わたしの用語法ですが、「憧れ心をもって生きる自我」を大我と呼びます。
以前に書きましたAの次元(理念・ロマン)とBの次元(現実)という階層の相違と重なる話です。
武田康弘
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2011-04-05 | 恋知(哲学)
官僚が市民の上にたつ官治主義、
守旧的な官僚制度を支える特捜検察、
検察からのリークを流し、市民を欺くマスコミ、
官との癒着で公共性をもたない独占資本・・・
国民を「管理主義」(≒意味を問わない遵法主義)で統制することが善だと信じる愚かなイデオロギーは、人間の息をつまらせ、自由と悦びを奪っています。
こ ういう「市民の公共」(ほんらい「市民の公共」以外の「公共」はありません)に反する思想とシステムは変えなければなりませんが、そのためには、権威主義 (官僚主義・東大主義)をうむ生き方を改める必要があります。多面的・多層的な情報と開かれた精神の下に、「自分で考え・対話し・決める」という基本を確 固としたものにすることが、何よりも大切です。
誰かさんが生きるのではなく、わたしが生きるのです。わたしの思考、わたしの判断、わたしの行為、問題なのは、わたしです。
歪 んだ現代思想は、「わたし」の前に「他者」をたてますが、豊かな人間関係をうむための基本は「わたし」にあるという原事実を曖昧にしたのでは、すべては砂 上の楼閣に過ぎません。キーは、「わたし」の捉え方にあります。単なるエゴという「小我」ではなく、「大我」としての「わたし」に付くことです。
わたしに付く「民知」の考え方・生き方が、巨大な管理主義を底から破るのです。権威を支え、惰性態を生む「官僚・マスコミ・独占資本」は、「わたし」の前には無力です。
武田康弘
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マイケル・サンデルがきっかけと思われる最近の哲学ブームに乗って、本屋さんには多くの哲学書が並んでいますが、ほとんどは、「わたし」の前に「他者」をたてる奇妙な思想に見えます。
でも、現実にはほとんど何の役にも立ちません。その思想自体を絶対化して高所から傍観者的に人々を見下ろすだけですから。
知に対する姿勢が根本的におかしいのです。せいぜい特権意識を高揚させるだけでしょう。
とてもじゃないですが、【権威を支え、惰性態を生む「官僚・マスコミ・独占資本」】(武田)には太刀打ちできません。むしろ取り込まれるだけでしょう。
官・学・財・報・政の馴れ合いによる支配構造をぶち破るのは、やはり私たち一人一人の自立と鍛錬のほかに道はないと私も思います。
大我としての「わたし」たちが生み出す民知にこそ希望あり!
古林治
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2011-04-06 | 社会批評
ここまで執拗に繰り返されると、もやは「言葉と映像による暴力」とさえ感じられ、とても不愉快な「AC」というCM。
集団同調を強制するかのような「道徳」の押し売りは、許し難いもの。
その中で、金子みずずの詩だけは、何度繰り返されても、不愉快どころか、気持よい。よい音楽のよう。
彼女の詩がいかに優れているか。文学=詩的言語の理想に到達していることを知った。
外なる価値意識に少しも汚されずに紡がれる声の偉大さを。
武田康弘
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学校の道徳はもちろん、会社でもテレビでも新聞でも、
人に親切にするとか、人に迷惑をかけないとか、
他者をたてることは教えられても、
自分がどのように思い、考えるかということの重大さを教えられたことは
たしかなかったと思います。
あったとしてもそれは弱く、「自分の意見を持とうね」とか
「周りに流されないように」とかその程度のもので
「わたし」が生きているのだ、ということをハッキリと
自覚させられるものはありませんでした。
「わたし」が生きているのだ、ということをハッキリと意識させられたのは
タケセンの塾(白樺教育館のソクラテス教室)のみです。
誰かに親切にしたり、気遣ったりするのは良いことだけど
そうやって他者を思っているのは一体誰なのか?・・・。
出発点となっている「わたし」を自覚せずに、他者を先立てたら
一体「わたし」はどこにいってしまうのか。
そうやって自己欺瞞をし、それが当然のようになると
口先では他者のためといいつつ、
心の奥底では自分ためという、乖離がおこり、
他者のためどころか、その逆になるのではないか。
宗教の勧誘なんかが典型だと思います。
消せないはずの「わたし」を消した上で言う
「あなたのため」という言葉の気持ち悪さ。
2011年6月3日
古林 治