古林さん、山脇さん、コメントありがとう。
「生と哲学の原理」を補足します。
実存思想における【信頼】は、社会思想における【主権在民】と同じく、人間関係を考える原理=基本の立場にしないと、人間がよく生きる可能性が広がらないと思います。理念次元において、他者としての人間を信頼できないと考えれば、結局は、仲間、あるいは親戚縁者としか交流できなくなります。齟齬や軋轢を乗り越える可能性は、「いろいろあっても人間は信頼に値するのものだ」、という立場によらなければならない、それを原理とするほかはないのです。
そうでないと、相和も相克も共に、生産的にならない(=人間的なよろこびや得や徳をもたらさない)からです。
先に人間関係をよくしよう(=仲よくしよう)と発想すると、内輪を堂々めぐりし、真に他なるものとエロースを開く可能性がなくなり、逆に、排除の論理へと堕ちていくしかない。結果にすぎないものを目的化するところに帰結する愚、と言えます。
だから、「関係性の哲学」を先立てる発想は、弱い思想であり、ナマナマしい現実の前では、実際的な力を持たず、言語的思考の枠内で「正しい」考えを探るに留まるわけです。それでは厳しい現実の前で、妥協的な(=その時々の情況に埋もれる)発言しかできない心と頭をうむだけです。そんな哲学ならいりません。「手弱い」人間を育成する理屈の集成が哲学!?(笑)。
やはり、何よりも大事なのは、何がほんとうによいこと・美しいことなのかを探る(=善美のイデアへの憧れ)であり、それが人間のよき生(=深い納得・意味充実)を生むのです。そのためには、ぶつかり合いも必要です。それができる人間的余裕・大きさを持たないと、生のエロースは広がりません。
排除の論理=仲間主義の言動をひょうひょうと超える力を持たなければ、よく哲学することはできない=深く豊かな生は開けない、これがわたしの信念です。
武田康弘
(以下は、コメント欄です。)
Unknown (青木里佳)
2009-09-08 22:00:42
人間関係を良くしよう・仲良くしようというのは、奥にある意味を考えると損得
勘定・打算的なものが含まれているような気がします。
気が合うな、一緒にいて楽しいなと思えるならば自然と仲良くなれますよね。
しかし「仲良くしようとする」というのは自分の本当の感情・フィーリングとは
別にして、強制的に自分を他人に合わせようとする行為となるでしょう。その関
係では自分の素が出てない状態ですし、仲良くする目的が伴っていますので、相
手を信頼しているとは言えないと思います。
その状態では生産的にはならないでしょう。
そうはわかっていても他者の評価って気になりますし、気にしてしまいます。
なかなか「信頼」を原理にする覚悟ができないために、他者評価に過敏になって
しまうのです。。。まだまだですね。(苦笑)
本音で語ること
(荒井達夫)
2009-09-10 00:11:02
「人間関係を良くしよう・仲良くしようというのは、奥にある意味を考えると損得勘定・打算的なものが含まれているような気がします。」(青木さん)
人との関係が国家間の関係のようで、いつも戦略や戦術ばかり渦巻いているような顔つきで話をしている人、いますね。
そういう人は、「本音で語る」ってことがありませんから、決して本質的な議論にならないんですね。
いつも話が何となく嘘くさくって、気持ち悪いのです。
おべんちゃらを言い合うか、そうでなければ、勝ち負けだけを気にしたディベートになってしまう。
哲学するとは無縁の代物です。
「本音で語る」ことが哲学の第一歩だと私は思っています。
哲学・民主主義・エリート主義
(山脇直司)
2009-09-10 10:43:06
本気で語ることは、哲学することの最低必要条件であることは、あまりにも自明の理で、私はそれを40年間実践してきたつもりです。ですが、それを許さない国が世界の至るとことに存在しています。その意味で、「表現の自由」が保障されなければ、哲学の営みは困難になると思います。ふりかえれば、ソクラテスはあまりにも真実を語りすぎたために、当時の陪審制度の「多数決」で死刑になりました。それをみで激怒したプラトンは、民主主義を衆愚制と同一視して批判し、哲人王というエリート主義を理想としました。現代のエリート主義者は、このプラトンの考えから示唆を受けていると思われるので、それと闘わなければならないと私は思います。
プラトン
(タケセン=武田康弘)
2009-09-10 14:22:51
山脇さん
プラトンの政治思想を現代政治が実現した近代民主主義の「常識」の後で批判しても哲学的にはほとんど無意味ではないでしょうか?
個々人の自由(欲望)の解放に成功した後の近代市民社会における民主主義思想と、奴隷制に基づく自由市民の都市国家(ポリス)における政治・教育哲学(『国家』)を同一視することはできないでしょう。哲人王、階級別教育などの彼の案を現代政治・教育において取ることは当然できません。
ソクラテスに学んだプラトンの思想の意義(=現代に活かしうる)は、『超越的・絶対的』真理という発想を棄て、深い納得を導くような『普遍性』をポリス国家の現実を引き受けつつ追求した点にあると思います。
キリスト教を経由した西ヨーロッパ哲学は、『絶対性や超越性』という概念を『普遍性』という概念と似たようなものとしますが、これが哲学を神学化してしまう元凶だというのが武田の見方です。プラトンから学ぶものは、普遍性=哲学的思索の強靭さではないかと思います。
なお、ご提案のあった「白樺教育館」における「愛」をテーマにした対話会はOKです。日時等を決めましょう。
では、また。
何の話?
(荒井達夫)
2009-09-10 22:20:27
山脇さん
ここでは、「人間関係をよくしよう(=仲よくしよう)と発想する」ことの問題を議論していたのではないですか。
だから、「そういう人は、本音で語ることがないから、本質的な議論にならず、おべんちゃらを言い合うか、勝ち負けだけを気にしたディベートになってしまう」と私は言ったのですが。
この話と「表現の自由の保障」とどういう関係があるのでしょうか?
さらに、ソクラテス、プラトンの話とは、まったく無関係のように思えるのですが、いかがでしょう?
恋知=哲学対話
(タケセン=武田康弘)
2009-09-11 14:17:22
ディべートを否定したところに哲学(=恋知)は誕生したのですから、もちろん、山脇さんも哲学対話を望んでいると思います。「なにがほんとうか」を目がけての対話です。
12月に「白樺教育館」で、おおいに議論・対話をしましょう。たのしみに〜〜。日時が決まり次第、お知らせします。
哲学塾プラトンの『アカデメイア』の主祭神は、エロースです。
「生と哲学の原理」について
(古林 治)
2009-09-11 15:34:24
「生と哲学の原理」について少しコメントします。
親子関係がひどくこじれてしまって、お互いに『対話(相互理解)不能だ!』と感じたことのある人は多いでしょう。
私もその一人です。ですが、『対話不能だ!』と言ってしまった時点で両者の関係は終わります。
対話の可能性は常にあり続ける。さまざまな対し方で対話をし続けようと努力すること。言うのは簡単ですが、実際に行動するのはひどく大変なことです。でも、それがうまくいったときには、大きな悦びもやってきます。
これは、親子関係に限らず、さまざまな人間関係でも同じです。私はかつて、(9・11よりずっと前)イスラム原理主義の男性と数ヶ月共に暮らしたことがあります。アメリカの保守ガリガリのユダヤ人男性とも一週間ほど共に暮らした経験があります。そのとき、何度も『対話不能だ!』という感覚におそわれたことがありました。関係を終わらせなかったのは、違いに触れないようにしたためではなく、『対話不能』という感覚を押しとどめたからだと思っています。その力の源泉はやはりある種の『信頼』(実存思想における【信頼】)だったのでしょう。
また、相手を受け入れることが出来たのは、幸運にも、『良い人』だったという理由もあります。おそらく、感覚的に相手を嫌っている場合とか、相性が悪い場合にはこれはひどく大変な作業になります。肝心なことは自他の存在を受け止めるだけの度量(実存)を鍛え上げることなのでしょう。
さて、武田さんの日常の言動を見ると、子供や主婦や地元のオジサン、オバサン、障害者、それに官僚や政治家、学者、外国人まで、毎日いろいろな人を相手に当たり前のように、対話可能性を追求し続ける様を目の当たりにします。決して、自ら関係を断ち切ることはしません。相手がどんな人、どのような呆れた行為を行おうとも。実は、その様を見ているので、私には言語レベルではなく、実感として「生と哲学の原理」がスーッと入ってくるのです。
一方、世の中には『関係性』とか『他者性』あるいは『対話』や『正義』を声高にいう人々がいますが、どうもピンときません。弱々しいのです。彼らに決定的に欠けているのは、さまざまな対決を通して対話可能性を実際に開いた実体験だと思います。それが、人間への信頼に対する確信を生み出しているはずです。その実体験がないために、言葉だけが中に浮いている感じがするのです。実際に齟齬をきたすと逃げたり誤魔化したりしてしまう人も多いですし。
そういうわけで、私には「生と哲学の原理」は極めて重要なテーマだと思っています。これからも機会があればコメントしたいと思います。