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110. 『生と哲学の原理』についての対話

 おなじみ、ブログ『タケセンの「思索の日記」』およびmixiブログで、最近とても重要なテーマで議論が行われました。今日は、その対話編をご紹介します。
 テーマは、『生と哲学の原理』。
 皆さんも参加されませんか。

生と哲学の原理

2009-08-20 11:24:11 | 恋知(哲学)

 哲学次元において問題性をはらんでいると、いかに表層のイデオロギーとして「よい」ことを主張しても、必ず困った結果=現実を導きます。

 いま流行りの「人間の関係性をよくし、仲よくするためには」の追求を哲学の中心にしてしまうと、結局は、仲間主義へと陥っていくものです。「そうなればよい」という結果=イデオロギーを先に置き、それを哲学の出発点にするのは、哲学(原理的思考)としては、失格なのです。

 関係性をよくしよう、という目的を先立てると、何がほんとうか?の追求が二の次になります。その結果、周りに気を遣い、他者の評価ばかりを気にする脆弱な精神を生みます。それでは、生き生きと生きることができず、人間の生は輝きません。現代はそんな哲学しかなく、みんな平均人・一般人に陥っています。哲学が、現状を超えるイマジネーションや意味の濃い実存と符合するのではなく、既成社会・既成言語の枠内で上手に生きるだけのアイテムになれば、存在理由・価値は元から消えてしまいます。

 人間が互いに違うのは「事実」であり、ほんらい誰しもが「わたしはわたしの声を出す」(武者小路実篤)以外にないはずです。異なるさまざまな主観につき、それを是認し、それを面白がり、それを貴重なものと見る、それが「よく生きる」ための原理です。

 だから、仲よくする、ではなく、仲よくなる、でなくては困ります。仲よく、は、目的ではなく、結果にすぎません。仲よくしなくてもいいのです。無理に仲よくする必要などありません。

 「人間関係をよくしよう」と考えると、無理をすることになり、却って、大きな齟齬を生み、仲間主義(=いろいろ理窟をつけて他者を排除する)へと堕ちて行きます。思考も生も、内輪を巡るだけになり、「空気を読む」だけの貧相な人生しか与えられません。自他に細かくチェックを入れる小人になれば、生の豊かなエロースは消えます。

 「関係性のよさ」という浅い次元を哲学の原理とするのでは、哲学にはなりません。わたしは、哲学とは【人間性への信頼】を原理とするものと考えています。軋轢、闘争、相剋・・・は大事なのです。余裕をもってケンカできる豊かな精神、強靭な精神が必要ですが、それは、「人間を肯定し信頼する気持ち」が支えます。他者の評価に怯えるのではなく、もっと、自分自身の主観性のよさ・面白さに目覚め、自分として生きることが大事ですが、それを可能にする条件は、「自他の存在の肯定=人間への信頼」です。時には、裏切られることもありますが、自他を信用・信頼し、前向きに現状打開的に強く生きる方が、結局は得なのです。発想を根本的に変え、「関係性の哲学」(仲よく)から、「信頼の哲学」(前向き)へ次元を上げることが必要です。もう少し正確に言えば、「人間性への信頼」という深い次元を踏まえ、そこを足場にしなければ、「関係性の哲学」は成立しないということです。

 この課題を果たすには、子育て・教育が鍵となります。大人の言うことを聞くから愛するのではなく、子どもの存在自体を無条件で愛する=肯定するという生物としての自然性を取り戻すことが必要です。人間は(他の生物もですが)、何かのために生きるのではなく、※よく生きること自体が価値なのですから。こどもが、自分を肯定し、愛することができるような子育て・教育は、究極かつ絶対の原理です。【人間性への信頼】や【素直な自己肯定】は、よく愛されることで生じるのです。何よりも大切なのは、心身全体による愛です。

※「よく生きる」の「よい」とは?
  ブログを開始した2004年11月19日に『よい』(最大のイデア)について、書きましたので、以下にコピーします。 (元の文章は、『1998年の私のエクリチュール』所載)

『よい』(最大のイデア)とは?

 『よい』とは、「かたまじめな善」のことではありません。

 生き生きとしていること、輝いていること、しなやかなこと、みずみずしいこと、溌剌(はつらつ)としていること、高揚感(こうようかん)のあること、自由なこと、愉快なこと、・・・

を指します。


 こうした『よい』は、「エロース」にもと基(もと)づくものであり、「アガペー」からは出てきません。

 神への愛という飛躍(ひやく)=「反自然」ではなく、具体的経験=生活世界の只中(ただなか)に「真善美」を見ようとする繊細にして強靭(きょうじん)な心=健康で人間性豊かな心がつくりだすものです。

武田康弘


以下は、コメント欄です。

もっと対話が進めば・・・

(古林 治) 2009-08-24 22:34:45

 『哲学とは【人間性への信頼】を原理とするもの』
 『余裕をもってケンカできる豊かな精神、強靭な精神が必要ですが、それは、「人間を肯定し信頼する気持ち」が支えます。』

 う〜む、身近に日常の武田さんの言動 ‐小さな子供からエライ学者さんまで誰が相手でも変わらず、決して自ら関係を絶つことなく対話し続けようとする姿勢、行為‐ を見聞きしているから私にはスッと入り込んできます。

 が、それを知らない人には一度この文章を読んだだけでは中々入ってこないかもしれません。

 ひとつには、【人間性への信頼】も【素直な自己肯定】も過去のビッグネームの哲学者の本には出てこないからでしょう(笑)。思想、哲学の輸入だけではこうした発想は出ませんよね。自分の頭と体で考えなくっちゃ。

 それはともかく、いろんな人との議論、対話があるともっとわかりやすくなるでしょう。
 山脇さんあたりから突込みがあったりすると、グッと議論が深まって面白くなるにちがいありません。
 そこに関係性のエロスを基盤とする竹田青嗣さんが議論に加わったりすると、【人間性への信頼】も【素直な自己肯定】も立体的に浮き上がってきて面白くなると思うんですけどねえ。参加してくれないかなあ。


(以下は、mixiブログ内のコメントです。)

フリーデン(山脇直司) 2009年08月25日 15:13

 フリーデンです。
 今、私用に追われる毎日です。
 とりあえず、お応えしておきます。
 思想史研究の場合に、過去のビッグネームを使うときは、どこまでも「人類の知的遺産」を正確に伝えるというモチーフで持ち出すことが多いです。それに対して、市民が「哲学する」という場合に、もしビッグネームを持ち出すとしたら、どこまでも「補助的な刺激剤」として、その人の見解に(何%?)同意するのか、反対するのか、それとも不可解として退けるのか、などを問う形で持ち出すのが適切と考えています。ビッグネームとして現在残っている以上、それが我々の生活に何らかの関係(もちろん反面教師も含めて)があるでしょうからーー。


タケセン 2009年08月27日 10:05

 フリーデンさん

 古林さんのコメントは、
 武田の積極的主張である『哲学とは【人間性への信頼】を原理とするもの』 (ブログ記事『生と哲学の原理』)への突っ込みがあるといいですね、というものですが、
フリーデンさんの「お応え」は、それとは無関係なものになっているために、議論ができません。
 お時間のあるときに、再コメントをお願いします。


フリーデン(山脇直司) 2009年08月27日 11:30

 どうも失礼しました。
 古林さんの後半にあるビッグネームをどう理解・利用したらよいかに話がずれてしまいました。
 哲学が「人間性への信頼」を原理とすること自体に、反対はしません。これは「他者」をどう理解するかということと、「存在の絶対的肯定の根拠」をどこに置くかという根源的問題と密接に関連すると私は思っています。


タケセン 2009年08月27日 21:09

 フリーデンさん

 「存在の絶対的肯定の根拠」は、すでに『生と哲学の原理』の最後に書きましたように、
 「無条件に愛されている」という実感です。心身全体で子ども愛する子育てが、人間存在にゆるぎない肯定感と安定を与えます。
 日々、充分に触れ合いながら、身振り言語を交えた対話を交わすことが核心です。

 それが、

 観念的・言語的に留まらない、全身的な他者理解=了解を生みます。他者を知的に理解しようとするのは愚かな行為であり、さまざまなレベルの交流で「他者存在を会得」するのがホントウです。それを可能にするのが前記の「愛」です。


「生と哲学の原理」ーコメントへのお応え

2009-09-08 15:31:46 | 恋知(哲学)

 古林さん、山脇さん、コメントありがとう。

 「生と哲学の原理」を補足します。

 実存思想における【信頼】は、社会思想における【主権在民】と同じく、人間関係を考える原理=基本の立場にしないと、人間がよく生きる可能性が広がらないと思います。理念次元において、他者としての人間を信頼できないと考えれば、結局は、仲間、あるいは親戚縁者としか交流できなくなります。齟齬や軋轢を乗り越える可能性は、「いろいろあっても人間は信頼に値するのものだ」、という立場によらなければならない、それを原理とするほかはないのです。

 そうでないと、相和も相克も共に、生産的にならない(=人間的なよろこびや得や徳をもたらさない)からです。
先に人間関係をよくしよう(=仲よくしよう)と発想すると、内輪を堂々めぐりし、真に他なるものとエロースを開く可能性がなくなり、逆に、排除の論理へと堕ちていくしかない。結果にすぎないものを目的化するところに帰結する愚、と言えます。

 だから、「関係性の哲学」を先立てる発想は、弱い思想であり、ナマナマしい現実の前では、実際的な力を持たず、言語的思考の枠内で「正しい」考えを探るに留まるわけです。それでは厳しい現実の前で、妥協的な(=その時々の情況に埋もれる)発言しかできない心と頭をうむだけです。そんな哲学ならいりません。「手弱い」人間を育成する理屈の集成が哲学!?(笑)。

 やはり、何よりも大事なのは、何がほんとうによいこと・美しいことなのかを探る(=善美のイデアへの憧れ)であり、それが人間のよき生(=深い納得・意味充実)を生むのです。そのためには、ぶつかり合いも必要です。それができる人間的余裕・大きさを持たないと、生のエロースは広がりません。
排除の論理=仲間主義の言動をひょうひょうと超える力を持たなければ、よく哲学することはできない=深く豊かな生は開けない、これがわたしの信念です。

武田康弘


(以下は、コメント欄です。)

Unknown (青木里佳)
2009-09-08 22:00:42

 人間関係を良くしよう・仲良くしようというのは、奥にある意味を考えると損得 勘定・打算的なものが含まれているような気がします。
 気が合うな、一緒にいて楽しいなと思えるならば自然と仲良くなれますよね。
しかし「仲良くしようとする」というのは自分の本当の感情・フィーリングとは 別にして、強制的に自分を他人に合わせようとする行為となるでしょう。その関 係では自分の素が出てない状態ですし、仲良くする目的が伴っていますので、相 手を信頼しているとは言えないと思います。
その状態では生産的にはならないでしょう。

 そうはわかっていても他者の評価って気になりますし、気にしてしまいます。
なかなか「信頼」を原理にする覚悟ができないために、他者評価に過敏になって しまうのです。。。まだまだですね。(苦笑)


本音で語ること

(荒井達夫)
2009-09-10 00:11:02

 「人間関係を良くしよう・仲良くしようというのは、奥にある意味を考えると損得勘定・打算的なものが含まれているような気がします。」(青木さん)

 人との関係が国家間の関係のようで、いつも戦略や戦術ばかり渦巻いているような顔つきで話をしている人、いますね。
そういう人は、「本音で語る」ってことがありませんから、決して本質的な議論にならないんですね。
いつも話が何となく嘘くさくって、気持ち悪いのです。
おべんちゃらを言い合うか、そうでなければ、勝ち負けだけを気にしたディベートになってしまう。
哲学するとは無縁の代物です。
「本音で語る」ことが哲学の第一歩だと私は思っています。


哲学・民主主義・エリート主義

(山脇直司)
2009-09-10 10:43:06

 本気で語ることは、哲学することの最低必要条件であることは、あまりにも自明の理で、私はそれを40年間実践してきたつもりです。ですが、それを許さない国が世界の至るとことに存在しています。その意味で、「表現の自由」が保障されなければ、哲学の営みは困難になると思います。ふりかえれば、ソクラテスはあまりにも真実を語りすぎたために、当時の陪審制度の「多数決」で死刑になりました。それをみで激怒したプラトンは、民主主義を衆愚制と同一視して批判し、哲人王というエリート主義を理想としました。現代のエリート主義者は、このプラトンの考えから示唆を受けていると思われるので、それと闘わなければならないと私は思います。


プラトン

(タケセン=武田康弘)
2009-09-10 14:22:51

 山脇さん

 プラトンの政治思想を現代政治が実現した近代民主主義の「常識」の後で批判しても哲学的にはほとんど無意味ではないでしょうか?

 個々人の自由(欲望)の解放に成功した後の近代市民社会における民主主義思想と、奴隷制に基づく自由市民の都市国家(ポリス)における政治・教育哲学(『国家』)を同一視することはできないでしょう。哲人王、階級別教育などの彼の案を現代政治・教育において取ることは当然できません。

 ソクラテスに学んだプラトンの思想の意義(=現代に活かしうる)は、『超越的・絶対的』真理という発想を棄て、深い納得を導くような『普遍性』をポリス国家の現実を引き受けつつ追求した点にあると思います。

 キリスト教を経由した西ヨーロッパ哲学は、『絶対性や超越性』という概念を『普遍性』という概念と似たようなものとしますが、これが哲学を神学化してしまう元凶だというのが武田の見方です。プラトンから学ぶものは、普遍性=哲学的思索の強靭さではないかと思います。

 なお、ご提案のあった「白樺教育館」における「愛」をテーマにした対話会はOKです。日時等を決めましょう。

 では、また。


何の話?

(荒井達夫)
2009-09-10 22:20:27

 山脇さん

 ここでは、「人間関係をよくしよう(=仲よくしよう)と発想する」ことの問題を議論していたのではないですか。

 だから、「そういう人は、本音で語ることがないから、本質的な議論にならず、おべんちゃらを言い合うか、勝ち負けだけを気にしたディベートになってしまう」と私は言ったのですが。

 この話と「表現の自由の保障」とどういう関係があるのでしょうか?
さらに、ソクラテス、プラトンの話とは、まったく無関係のように思えるのですが、いかがでしょう?


恋知=哲学対話

(タケセン=武田康弘)
2009-09-11 14:17:22

 ディべートを否定したところに哲学(=恋知)は誕生したのですから、もちろん、山脇さんも哲学対話を望んでいると思います。「なにがほんとうか」を目がけての対話です。

 12月に「白樺教育館」で、おおいに議論・対話をしましょう。たのしみに〜〜。日時が決まり次第、お知らせします。

 哲学塾プラトンの『アカデメイア』の主祭神は、エロースです。


「生と哲学の原理」について

(古林 治)
2009-09-11 15:34:24

 「生と哲学の原理」について少しコメントします。

 親子関係がひどくこじれてしまって、お互いに『対話(相互理解)不能だ!』と感じたことのある人は多いでしょう。
 私もその一人です。ですが、『対話不能だ!』と言ってしまった時点で両者の関係は終わります。

 対話の可能性は常にあり続ける。さまざまな対し方で対話をし続けようと努力すること。言うのは簡単ですが、実際に行動するのはひどく大変なことです。でも、それがうまくいったときには、大きな悦びもやってきます。

 これは、親子関係に限らず、さまざまな人間関係でも同じです。私はかつて、(9・11よりずっと前)イスラム原理主義の男性と数ヶ月共に暮らしたことがあります。アメリカの保守ガリガリのユダヤ人男性とも一週間ほど共に暮らした経験があります。そのとき、何度も『対話不能だ!』という感覚におそわれたことがありました。関係を終わらせなかったのは、違いに触れないようにしたためではなく、『対話不能』という感覚を押しとどめたからだと思っています。その力の源泉はやはりある種の『信頼』(実存思想における【信頼】)だったのでしょう。
 また、相手を受け入れることが出来たのは、幸運にも、『良い人』だったという理由もあります。おそらく、感覚的に相手を嫌っている場合とか、相性が悪い場合にはこれはひどく大変な作業になります。肝心なことは自他の存在を受け止めるだけの度量(実存)を鍛え上げることなのでしょう。

 さて、武田さんの日常の言動を見ると、子供や主婦や地元のオジサン、オバサン、障害者、それに官僚や政治家、学者、外国人まで、毎日いろいろな人を相手に当たり前のように、対話可能性を追求し続ける様を目の当たりにします。決して、自ら関係を断ち切ることはしません。相手がどんな人、どのような呆れた行為を行おうとも。実は、その様を見ているので、私には言語レベルではなく、実感として「生と哲学の原理」がスーッと入ってくるのです。

 一方、世の中には『関係性』とか『他者性』あるいは『対話』や『正義』を声高にいう人々がいますが、どうもピンときません。弱々しいのです。彼らに決定的に欠けているのは、さまざまな対決を通して対話可能性を実際に開いた実体験だと思います。それが、人間への信頼に対する確信を生み出しているはずです。その実体験がないために、言葉だけが中に浮いている感じがするのです。実際に齟齬をきたすと逃げたり誤魔化したりしてしまう人も多いですし。

 そういうわけで、私には「生と哲学の原理」は極めて重要なテーマだと思っています。これからも機会があればコメントしたいと思います。




2009年9月21日
古林 治

 
 
 
 

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