11. ロダンと白樺派

 ロダンと白樺派の逸話(いつわ)はとても有名ですが、今日はちょいとその辺のお話をしようと思います。

 1905年暮れのこと、志賀直哉はアメリカからある美術雑誌を手に入れ、ロダンの作品をはじめて目にしました。白樺派の面々もその作品に吸い寄せられ、いつか「雑誌 白樺」で取り上げようと話していたということです。
 時も煮詰まり、1910年オーギュスト・ロダンの70歳の誕生日にあわせて「ロダン特集号」を組むことになったわけです。

ロダン号
雑誌 白樺 第壱巻 第八号の表紙
1910(明治43)年11月14日
表紙絵は南 薫造です。この表紙絵は結構有名のようです。

 実はこのとき、『いずれ浮世絵を送る』という主旨の手紙を「ロダン特集」を添えてロダンに送付したのでした。
 このあと半年ばかり返事もなく、不安に駆られる中、そのときの気持ちを無車(武者小路のこと)は次のように伝えています。
 『・・・ 中略 ・・・
 自分たちはロダンから返事があったら浮世絵を送ろうと何気なく思っていたのだ。そのうちに返事の来る望みがなくなってしまった。しかし一度送るといったのをそのままにしておくのは悪い、相手がロダンだけになおすまない気がした。それでロダンが見てくれればそれでいい、葉書一つくれないでもいい。もしかするとロダンが浮世絵の来るのを心待ちしているかもしれないから送らなければいけない。そう思って自分たちは金を集めて、ロダンに見せて恥ずかしくない浮世絵をさがすことにした。もとよりそう金があるわけではないからそうめずらしい飛び切りなものは一つも買えなかったが、これならいいと思うのを二十何枚買った、それに同人の愛蔵しているものを少し加えて三十枚にしてロダンに送った。それは8月頃のことだったろう。
 自分たちはロダンが見てどんなに思うだろう、喜んでくれるかしらん。つまらぬものを送ってきたと思いはしないか、などと思った。なお密
(ひそ)かに素画を一枚ぐらいくれればいいと思っていた。しかしそれは難しいことと思っていた。・・・』

(「白樺」第三巻第二号 1912年3月26日 より抜粋)

 が、しかしロダンからの突然の手紙に白樺同人は狂喜したのでした。浮世絵の返礼に、まさか本物のロダンの彫刻が3点も送られてくるなど、想像もしていなかったのでした。子供のようにはしゃぐ白樺派の面々が想像できますでしょうか。近代彫刻の祖といわれるロダンの作品が日本ではじめて手にすることができるのです。

 1911年12月22日にロダンの彫刻がついに手に入ります。その様子は柳宗悦が興奮気味に書いています。

12月20日
・・・中略
ロダンの彫刻が日本に来る−この夢のような想像がただただ現実となってきたのです。なんだかこの世の中がどうかしているような気がしました。それ以来いつ荷上げになるかとそればかり気にかかりました。

12月22日
・・・中略(汽車で横浜に向かう途中。)
待ち遠になったので自分は一人で朝八時半の汽車で横浜に出かけました。自分の隣に文部省美術展覧会の役人たる福原文部次官が乗っていました。ロダンの名すら一生知りっこない様な顔をして、ポカポカ煙草
(たばこ)ばかり吸っていました。

・・・中略(彫刻の包を取り出した瞬間。)
細く長く刻んだオガクズにつつまれて非常に丁寧に蔽(おお)われてる中から、三つの包みが出たとき自分は思わず抱いてしまいました。

・・・中略(帰途。)
すいた客車の中に三つの包みを傍(かたわ)らにおいて席を占めた時、自分の後ろに又馬鹿顔している軍人が座(すわ)りました。世の中がちがうと思いました。汽車の走り方もまたハガユく思いましたが、それよりもこん度は、その彫刻が早く見たいという誘惑が起こりました。しかし一人先に見るのは皆(み)んなに気の毒だという気がしてます。しかしアダム、イブが禁断の果をおかしたときの様に、自分は我慢しきれなくなって一番小さな包をとうとう汽車の中で開けて了(しま)いました。
・・・中略

彫刻という概念をおぼろに画(えが)いてた自分の頭は、ロダンのこの『ごろつきの首』によって全く破壊せられたような気がしました。深く掘り込んだチゼルのあとは自分の心をえぐる様な気がしました。自分がそれを見てるときのシーンを第三者が見てたら奇妙だったろうとあとで気がつきました。そのときの想いは全く筆には書けませんから止めます。

・・・中略
 ロダンの彫刻をかかえて町を歩く人はこの世に多くはありますまい。自分は一種恐ろしいような気がしました。すぐ車に乗って元関町の無者の處(ところ)にいそがした時、荷が重いので『マダム、ロダンの肖像』を包んだものだけ、股の間に入れました。實(じつ)にモッタイないと思いましたが仕方がありません。無者の家迄(いえまで)車に悠々(ゆうゆう)乗っていられなくなったので、半町ばかり手前で降りてそして三つの包をかかえて走り出したのです。無者の家の窓の下からドナった時、中から非情な声がきこえました。門に入るや否や志賀が外に飛んできて、いきなり一つの包をだいて了(しま)いました。自分も無者と、平澤と萱野(かやの)との手を思わず握って了ったのです。

 其夜(そのよ)五人で其の包をあけた時の思いを、どうか察して被下(くださ)い。

 三つの銅像を食卓の上において五人で晩の食事を共にした時の事を想像して被下(くださ)い。

 兒島(こじま)と、田中がすぐ飛んできて、穴のあくのを心配した程兒島が見つめたと云(い)うのも其時です。

 有島と里見とは其晩帝劇に行ってたので、すぐ劇場へ電話をかけて「ロ(ろ)(きた)る」と云う張り紙を出してもらったのも其時です。

 翌日無者の室(いえ)には同人をはじめ14人も集まって、皆悦(よろこ)びあっては、飽くことを知らずに三つの彫刻を見つめました。今は同人の家を歴訪して、多分園池の室を飾(かざ)っているときと思います。(柳)

(「白樺」第三巻第二号 1912年3月26日 より抜粋)

白樺 2号
雑誌 白樺 第三巻 第二号の表紙
1912(明治45)年3月26日

 「ロダン特集」が組まれた1910年は「白樺」創刊の年です。そして韓国が併合され、大逆事件が起きた閉塞した時代状況でもありました。役人や軍人、当時の世相に批判的な態度が見られるのはこうした事情にもよります。

 また、このとき、柳 21才、武者小路 25才、志賀 27才。
文章に若さが溢(あふ)れるのは彼らの精神が健全であったばかりでなく、実際に今考えると信じられないほど若かったせいもあります。

白樺 2号

青銅時代 
フランス国立ロダン美術館
『ロダン展』1976より
 ロダンの作品は、あまりにも活き活きとしているため、この後、「青銅時代」という作品では、モデルの型を取って作ったんじゃないかとさえ言われ、中傷されたこともありました。
 ちなみに、1912年に白樺派が手にした三つの作品は、
『ロダン夫人』 25.3cm
『巴里ゴロツキの首』 8.8cm
『或る小さき影』 31.5cm
です。現在大原美術館にあります。
興味のある方はお出かけください。
ロダン夫人 フランス国立ロダン美術館
『ロダン展』1976より


 さて、若かりし彼らが目指したのは何だったんでしょうか。ロダンに何を見出したんでしょうか。
 無車は「ロダン号」で次のように簡潔に言っています。

『自分はここでかう断言する。彼は最も深く生を味わった人だ。さうしてそれを真に顕(あらわ)すことの出来る人だと。
 自分は真に深く生を味わった人は宗教的色彩を帯びてくるやうに思う。真に生を味わった人は生の奥にある何物かに触れるように思う。』

 白樺派の様々な活動に共通する基本的な考え方がここにも見られます。それはこんな感じでしょうか。
 裸の個人から出発する。
 全ての生をまるごと受け容れる。

 これは美術に対する姿勢ばかりではありません。以前に何度か触れていますが、柳の民芸、ウィリアム・ブレイクに対する視線、柳兼子の唄、志賀直哉、武者小路の小説、リーチや河井寛次郎、濱田庄司の陶芸、そして朝鮮独立を訴え、沖縄での標準語強制に対して批判した柳の政治姿勢といった全ての活動に共通しているような気がします。そのことを抜きにして、民芸のみを取り上げたり、美術や文学について語り資料を集めたところで、白樺派の封印を解くことにはならないですよね。

 ということで、もう一度、文学館の理念から一節を引用しておくことにします。

『彼ら我孫子「白樺村」の面々は、精神的に自立した裸の〈個人〉でした。親から疎(うと)まれ、世間から白眼視(はくがんし)されても少しもひるむことなく、大胆(だいたん)に自己を肯定して生き、日本の《人間開眼》とでも呼ぶべき新たな時代を切り開いたのです。

 さあ、彼らの息吹を吸おうではありませんか。
ここは、創造の地なのです。』(白樺文学館の理念より)

 

 白樺派について調べていると、いつもこんな風に感じます。
『柔らかさと強さを兼ね備えたしなやかさがここにはある。』
こんな生き方を楽しんでみたいと思いませんか。

*雑誌『白樺』からの引用文中の旧字は新字に変更しています。

*『被下(くださ)い』:
 多分、くださいと読ませる当て字と思われます。柳はよく当て字を使って表現
 するので面白いのですが、ときどき困ってしまいます。なんて読むのかしらん?と。


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 2001年10月15日 古林 治
2002年1月5日 修正