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  • 221. 800年前の日本史最大の変革.
       北条政子らの前に後鳥羽上皇らが無条件降伏.
       法然・親鸞の念仏宗と深く関係.

  • 221. 800年前の日本史最大の変革.
       北条政子らの前に後鳥羽上皇らが無条件降伏.
       法然・親鸞の念仏宗と深く関係.

     


    後鳥羽上皇

     1221年の5月19日、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府=北条政権を倒し、東国の実権も握ろうとして、「北条義時を討て」と全国の武士団に院宣を下しました。

     それに対して、鎌倉幕府=北条政権側の武士たちは、上皇軍が攻めてくるのを迎え打つとの意見でしたが、京都出身で幕府のご意見番の大江広元は、「運を天に任せて兵を京都に派遣すべき」と発言しましたので、執権の北条義時は、第4代鎌倉幕府将軍=姉の北条政子に判断を仰ぎました。

     政子は「上洛しなければ、絶対に官軍を破ることはできないでしょう・・・・すみやかに京に参るべきです」と言い、動揺する武士たちを感動で涙させた大演説で一つにまとめあげ、後鳥羽上皇との全面対決が決まりました。


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      政子は、夫の頼朝が、平氏をやぶり東国初の政権を打ち立てた後も、朝廷の慇懃無礼な態度と無理な要求に呆れ返っていましたが、京都出身の頼朝は、それでも朝廷を重んじて、いつも耐え忍んでいるのを見て気の毒に思っていました。
     頼朝の死後、二人の息子は第2代、第3代将軍となりましたが、不遇と悲劇で二人とも早世し、第4代将軍となった政子と、優秀な弟の執権・義時は、上皇らの毎度の嫌がらせに辟易していました。彼女は上皇ら京都の狡知なやり口を熟知していましたので、「直ちに上洛すべき」と判断したのでした。

     3日後の5月22日に、北条義時の長男で、伯母の政子を心から尊敬する北条泰時(22才)は、わずか18騎で京に向けて出陣しましたが、その後直ちに、東国各地からの軍が泰時に合流し、宇治川についた時には、19万の大軍に膨れ上がっていました。敗戦は間違いないと悟った後鳥羽上皇は、使者を介して「この度の戦は、朕の本意ではなく謀臣らの企んだことである。今後は、北条義時が申請するとおり万事院宣を下すので、洛中での狼藉は禁ずる旨を東国武士たちに命じてほしい」との無条件降伏の書状を、戦の総大将泰時に届けたのです。

     6月15日、京都は東国武士たちにより焼き払われ、鎌倉幕府の御家人でありながら朝廷側についた者たちは処分されました。日本史を大変革する戦は、わずか1か月余りで終わり、直ちに天皇家(当時はすでに天皇という呼称は存在せずただ王と呼ばれていたが)の処分が検討され、後鳥羽上皇は隠岐へ順徳は佐渡に流刑(再び謀反を起こさぬように結局は「終身刑」となりますが、日本史上、終身刑となったのは初めてのことでした)。また、この戦に反対した土御門(つちみかど)の処分は見送られましたが、自ら進んで流刑を望み、土佐へ。六条宮は但馬へ、冷泉宮は備前へ流刑。後鳥羽上皇の息子の残り数名は、出家を命じられ、仏門に入りました。

     また、朝廷の財産は、全国の荘園すべて没収され、御家人たちに分け与えられました。京都および京都以西の朝廷が支配してた土地もすべて北条政権により管理され、御家人たちに与えられたのです。

     この800年前の「承久の乱」により、日本史は、東西が完全に逆転し、以後、江戸幕府末まで800年以上にわたり武士政権が続くことになったのです。北条政権の厖大で詳細な日記『吾妻鏡』(あずまかがみ)は、後の徳川家康の愛読書ともなりました。

      ついでに言えば、江戸の幕末には、開国し、朝廷と幕府が合体して(公武合体)新たな日本をつくることが合意されていましたが、天皇を神とするというカルト宗教の思想をもつ長州藩の下級武士たちの過激な暴力により、明治維新という逆転が起きたのです。アジアで最初の市民社会への成長(欧米の一神教=キリスト教に基づくのではなく、仏教=ブッダの実存思想(注)に基づく民主主義)は、天皇中心の国へと捻じれて後戻りしてしまいました。これについては、「明治政府がつくった天皇という記号(ネットで読めます)をぜひお読みください。


     話を戻します。

     この1221年に起きた承久の乱により、後鳥羽上皇の息子たちが出家させられて仏門に入ったことは、その14年前・1207年に起きた法然門下の「建永の法難」と結びつくのです。


    石岡市八郷の板敷山大覚寺 2020.8.19 photo 武田康弘

    板敷山大覚寺で住職から親鸞と弁念の話を聞くソクラテス教室の面々 2020.10.4 photo 武田康弘

     親鸞が佐渡での流刑を終え、茨城(稲田や八郷など)を中心に念仏宗を広めて、師である法然の「浄土宗」のほんとうの教えという意味で、「浄土真宗」を布教していた時期に、出家させられた後鳥羽上皇の息子の一人が縁あって親鸞を訪ね、師と仰いだのです。周観(後に善性)は、父である上皇が流刑とした親鸞の弟子になり、現常総市大房に東弘寺、八郷(現 石岡市)に板敷山大覚寺、現 古河市磯部に勝願寺を開基するという大逆転が起きたのです。もし承久の乱がなければ、あり得なかったことなのです。念仏宗は、傷心の善性を救ったのでした。


    板敷山大覚寺にある800年前の親鸞像   2020.10.4  photo 武田康弘
    (普段は公開していないのですが、住職の御厚意で、この日特別に見せていただきました.)

    常総市の東弘寺にある善性像  推定で650年前.
    2020.10.28  photo  武田康弘
    (こちらも非公開で、特に痛みがひどいので暗所で大事にされていたものを特別に見せていただきました.)

    東弘寺全景  2020.10.28 photo 武田康弘

     1207年の「建永の法難」とは、後鳥羽上皇が28歳、熊野詣に出かけていた時に、二人の女官が法然の念仏宗に帰依して出家してしまったことへの私怨により、法然の弟子、親鸞の兄弟子にあたる4名を死刑にした驚くべき事件で、実際に死刑が執行されたのは、日本史上これが初めてでした。高齢の法然を含み親鸞など8名は流刑となりましたが、この事件は、従来言われていたような旧仏教側の仕掛けたことではなく、後鳥羽上皇の私怨であることが今日では明白となっています(詳しくは、上横手雅敬・うわよこてまさたか・京都大学名誉教授が2008年に出版した『建永の法難』をお読みください)。調べも行われず、罪状も告げられずにいきなり死刑が執行されたことにたいして、親鸞は、主著『教行信証』の末尾で、「(上皇らは)法に背き義に違し、怒りをなし怨を結ぶ」と書き、厳しく批判しています。

     鎌倉幕府最後の将軍で、北条政権の中心者であった北条政子は、夫の頼朝の死後に直ちに仏門に入り尼となりますが、政子は法然門下ですので、親鸞の兄弟子にあたります。親鸞より16歳年上。その政子の供養に親鸞は尽力しています。 
     当時は、追善供養のためには、一切経を書写して関係する寺に寄進することが最も大切とされていましたが、そのために一切経の校合(今でいう校正)という大変な作業を、親鸞は、北条泰時(承久の乱の総大将で、父の義時をつぎ、執権、名君として知られる)に頼まれて引き受けます。その作業の最中に、泰時は幾度も親しく親鸞をもてなしました。
     また、泰時の息子の泰次は、親鸞が京都へ帰る直前に親鸞に帰依し、成仏という法名になりました。
     詳しくは、今井雅晴(元 茨城大学と筑波大学教授)著の『67歳の親鸞』『70歳の親鸞』をご覧下さい。

     

    1207年の建永の法難(28才の後鳥羽上皇の私怨による僧の死刑と流刑)
    1221年の承久の乱(42才の後鳥羽上皇の権力欲による戦争)

     この二つは、深く結びついています。
     親鸞は、60歳で茨城の稲田から京都に帰りますが、これも後鳥羽上皇が隠岐の島に流刑・終身刑となったことで可能になりました(自由に活動ができる)。

     話を承久の乱に戻します。

     北条家は、平家で、伊豆の片田舎の一豪族でしかありませんでしたから、京都の朝廷と争うとか、大きな権力を得ようとは夢にも考えていませんでしたが、なぜ、北条政権が誕生し、全国を統一することになってしまったのでしょうか。

     それは、20歳の政子が伊豆に流刑とされていた源頼朝に燃えるような激しい恋をしたことによります。政子は、「恋とはただの好色とはちがう。女の恋には命がかかっている。女の恋は、命がけのことじゃ」と弟の義時に言ったと言われます。
     平氏の北条時政の娘、政子は、源氏の頼朝に恋し、親の監視の隙をついて大雨の日に20km離れた頼朝の家に転がり込んだです。頼朝も「政子は野趣の大胆さと女の濃やかさを兼ね備えている。さまざまな知識にも通じていて、話していて飽きることがない。これほど面白い女はいない」(「龍になった女」高瀬千図著 参照)との思いであったのでしょう。
     平氏と源氏、まるでシェークスピアの「ロメオとジュリエット」ですが、この二人の激しい恋愛こそが日本最大の変革を生み出したのです。エロース(キューピット)の神こそがこの世の始原だというギリシャ神話を想起させる実話です。

     政子が幼いころから最も信頼し何でも話せる弟の義時と、義時の長男で、政子を深く敬愛していた泰時、この三人は、みな、天下を取るとか日本を統一するというような野心など持っていませんでしたが、政子と頼朝が親の反対に従わずに結婚したことで、北条家が中心となる東国初の政権=鎌倉幕府が生まれたのです。無心が大事を為したのですが、この後の元寇を打ち破ったのも、最強の武士団の北条政権が西国まですべて統治していたがゆえだったと言えましょう。

     ともあれ、今年は、この日本史の大変革から800周年でしたが、学校の授業でもテレビでも話題にならないのは、まことに不思議な話です。いまだに明治維新がつくった天皇教の中にいるのでしょうか。北条政子という日本史最大の女性についてもその実像を知らせないのは、あまりに愚かです。ああもったいない! いつまで明治維新の過激派が水戸学に基づいてつくった「天皇という神話」に呪縛され続けるのか、情けない話です。


    (注)ブッダ思想の核心は、以下の3点にまとめられます。

        「天井天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)とは、人は誰もみな、われ一人尊い存在として生まれてきた、比較できないそれぞれの存在で、上下はないという意味です。
     「縁起の法(えんぎのほう)とは、固定した実体は存在しない、我(われ)というのは意識であり、自我ではなく、さまざまな縁によってつくられるという意味です。
     ※自帰依・法帰依(じきえ・ほうきえ)とは、遺言としての教え=遺教ですが、自分自身と法則に従え、という意味です。
     ブッダには「神」という思想はなく、人間の自由と責任を拠り所とする現代思想に直結しています。同時代、紀元前400年ころに活動したソクラテスとも重なるところが多く、紀元前3世紀には、多くのギリシャ王(各ポリスの王)が仏教に帰依しました。詳しくは、『古代インド』(中村元著)をお読みください。

    ※法帰依の「法」の意味について。

     法帰依の「」という言葉は、適切な解説がなく、分かり難いので、よく質問を受けます。「法」(だるま)という言葉は、漢字ではうまく伝わりません。法則とも言えますし、自然とも言えます。
     人が、興味や関心また必要により、何かを知ろうとし、何かに取り組もうとしているのを、特定の価値観・思想・宗教により抑えつけるのは、自然でないですし、逆に、他者に勝とう、上に立とうとして、何かを知る、何かに取り組むというのも自然ではありません。
     そこには無理があり歪みがあります。勝ち負けや上下意識をもって生きるのは、人間の生の法則とは異なり、自然性を持ちません。

     静かに心の声に耳を傾け、自分の生が内的に充実し輝く生き方は、法則にかない自然だというのが「法」という意味です。
     ですから、「自帰依ー法帰依」とひとまとめの言葉となります。自分に帰依するのと法に帰依するのは同じことだからです。「神への帰依」とは対極で、ブッダは、そのような形而上学的思考を否定します。原理上、答えられない問いは、人間の生にとり意味のない問いなのです。恐ろしく明晰なブッダの精神には感服するほかありません。

    白樺教育館館長
    武田康弘

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