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  • 207. トルコ・ギリシャ、エーゲ海文明の旅 2/3

  • 207. トルコ・ギリシャ、エーゲ海文明の旅 2/3  ↑top

    今回の旅行で訪れた主要な都市と遺跡.

    目 次
    1. イスタンブール

    2. バンドルマからトロイ遺跡まで

    3. トロヤ遺跡

    4. アソス遺跡

    5. ベルガモン遺跡

    6. イズミール

    7. イズミールからエフェソス

    8. プリエネ遺跡

    9. 自然哲学発祥の地ミレトス

    10. ディディム

    11. 一時内陸へ ラオディケア、パムッカレ、アフロディシアス

    12. トルコからギリシャ サモス島へ

    13. デロス島

    14. クレタ島

    15. ギリシャ本土へ、スパルタ遺跡

    16. メッセネ遺跡

    17. オリンピア

    18. デルフォイ

    19. コリントス

    20. マラトンからアテネへ

    21. アテネ

    22. アクロポリス

    23. アゴラ

    24. アテネ考古学博物館

    25. アカデメイア

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    11.一時内陸へ ラオディケア、パムッカレ、アフロディシアス

     このディディムまででトルコのエーゲ海沿岸部南下の旅は終わりましたが、折角なので、温泉で旅の疲れを癒すため、鉄道を使い少し内陸のパムッカレへと向かいました。そのついでで、近郊のラオディケアとアフロディシアスも訪れました。


    パムッカレ村の最寄り駅(と言ってもパムッカレまで歩いて2時間ほどですが)の近くにあるラオディケア(Laodicea)遺跡の大通り。パムッカレもそうですが、内陸にあるこれらの遺跡はヘレニズム期以降に栄えている。

    この遺跡はかなり熱心に発掘、復元が行われていた。近くにトルコでも有数の観光名所(パムッカレ)があるので、整備して人を呼ぼうとしているのかもしれない。

    ラオディケア近くの村の子ども達。内陸に入るとより素朴。

     トルコの有数の観光地パムッカレは、石灰が棚田のようになっている景色で有名ですが、古代遺跡(ヒエラポリス)も残っています。温泉地でもあり、昔から湯治場として親しまれていますが、観光客も多いので、のんびり温泉に浸かりたい場合はパムッカレ村の北にあるカラハイット村がおススメ。


    パムッカレの石灰棚。暖かい温泉が流れているので、水着で入る人も多い。

    ヒエラポリスの劇場。

    パムッカレの石灰棚。暖かい温泉が流れているので、水着で入る人も多い。

     山間にある、のどかなカラハイット村。殆どの宿は部屋に浴槽があり、蛇口を捻ると温泉が出てくるので、部屋でゆっくり入ることも出来ます。写真は屋外の誰でも入れる場所

     そして、ついでのついでで、エーゲ海へ戻る前に、パムッカレから40㎞程南西に進んだ所にある「アフロディシアス」という遺跡にも立ち寄りました。名前の通り、美の女神アフロディテが都市の守護神とされ、彫刻などの芸術が非常に盛んな都市でした。


    アフロディシアスへと向かう標高1400mの峠の途中、ババダという小さな町で。

    偶然、卒業セレモニーが行われていたので参加。もちろん私は全く関係ない部外者でしたが、さすがトルコで物凄い歓迎(笑

    アフロディシアス遺跡。アフロディテ神殿へと続くメインロードのゲート。

    競技場。3万人収容で殆ど完璧な状態で残っている。

    劇場からの眺め。

    競技場。3万人収容で殆ど完璧な状態で残っている。

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    12.トルコからギリシャ サモス島へ

     アフロディシアスを見終えた後は、再びエーゲ海に戻り、ギリシャへと渡りました。約2ヵ月の滞在だったトルコ。本当は1ヵ月くらいでサラリとギリシャへ行く予定でしたが、長引いてしまったのは、歩ける距離の見立てが甘かったのもありますが、思った以上にトルコ側の遺跡に見応えがあったことと、自然や人間含めたトルコの居心地の良さが大きな要因でした。

     美しいエーゲ海と、広々としたアナトリアの大地。積極的で親切なトルコの人々。ギリシャに入ってから名残惜しく思いましたが、そのトルコとギリシャのギャップの大きいこと。ギリシャに入り、ギリシャ人と接して一番最初に感じたのは、個人主義!でした(笑)
    もちろんトルコとて皆パワフルな個人で、個性的ですが、トルコはより共同体意識(村意識)が強く、ギリシャほどの個人と個人の境界線を明瞭にはしていないと感じました。ギリシャの個人主義は筋金入りといった感じ(笑)


    サモス島、ピタゴリオの町。違う国になりましたが、トルコのクシャダシと比べても、街並み自体は全く違うと感じるほどの差はありません。ちょっと整理されて綺麗になったかな?という印象。

    三平方の定理や、音階の発見で知られるピタゴラス。

    ピタゴリオから6㎞ほど西にあるヘラ神殿。サモス島は女神ヘラの生まれた場所とされている。

    サモス島の子供たち。やはり西ヨーロッパとは全然雰囲気が違う。島の子だからというのもあると思いますが、野性的。

    ちなみに、後ろ姿ですがドイツの子ども達。

    サモス島の次の目的地ミコノス島へ向かう船。ギリシャ本土に上陸するまでは、しばらく船旅が続きます。

     

     

     ミコノスのお隣シロス島。立ち寄るつもりはありませんでしたが、居眠りして乗り過ごしたので降りることに。翌々日ミコノスへと引き返しました。ちなみに、この島はギリシャにしては珍しく、ギリシャ正教ではなくカトリックが半数以上を占めている。


    ミコノスのお隣シロス島。立ち寄るつもりはありませんでしたが、居眠りして乗り過ごしたので降りることに。翌々日ミコノスへと引き返しました。ちなみに、この島はギリシャにしては珍しく、ギリシャ正教ではなくカトリックが半数以上を占めている。

    ミコノス島。白い家が特徴的な観光の島ですが、デロス島へ行く場合、この島から行くことになります。

     

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    13.デロス島

    染谷 裕太 5月24日
    現在地ミコノス島。今日、デロス島に行ってきました。最初は野宿でもしてゆっくり見ようと思ってましたが、デロス島は島全体が遺跡として保存されているため、泊まりは不可で日帰りでの見学でした。今から2千5百年前、この数々の遺跡が現役で、古代ギリシャ人達がエーゲ海を行きかっていたというのは、なんだか夢のような話。


    デロス島の船着き場。

    通りに並んでいるのは獅子像は紀元前7世紀のもの。本物はデロス島内にある博物館に展示されています。

     


    大体が土台になっていますが、この一帯にアゴラやストア、アポロンの神域など公共施設が集まっていた。

     

     

     

     

     

    Osamu Furubayashi
    ここがあのデロス?! なんだかリアル過ぎてお伽話のよう。

    染谷 裕太
    ここがあのデロスです(笑) ここにアテナイを中心とした各ポリスの代表が集まった。まるで伝説のような話ですね。

    武田 康弘
    アテネを中心にした古代の国際連盟(デロス同盟)が、王権の大国ペルシャを撃破したのだ。 そこから世界史は、民主政=自治政治へと進んだが、古代ローマの中期以降は、キリスト教に支配され、「アカデメイア」も閉鎖された(「以後、何人も恋知を教えてはならぬ」と自分の頭で考えることは禁止、『聖書』を信じで暗記)。 ああ、愚かなる人類は、いまだに一神教に呪縛されている。

    染谷 裕太
    もしも皆がソクラテスのように振る舞っていたなら負けていなかった、といわれた程の豪傑ソクラテス(戦争での話)ですが、もしも皆がソクラテスのようであったなら、民主政もフィロソフィーも続いていましたよね。

    武田 康弘
    よ~~し、みんなソクラテスになろう!(笑) 気持ちだけはなれるよね。

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    14.クレタ島

     エーゲ海の中で最も早い紀元前2000年頃に興ったのがクレタ島のクレタ文明でした。 クレタ島はギリシャ最大の島で、東西に260㎞。南北は広い所でも60㎞ほどの細長い島ですが、中央部は標高2000mを超える山岳地帯になっています。南北移動が大変なため、今回は東から西、イラクリオから西端の港街キサモスまでの移動でした。ここまでは歩きで旅をしてきましたが、厳しくなってきた暑さと、クレタ島の大きさに恐れをなし(笑)、イラクリオで自転車を購入。ここから自転車旅になりました。


    これはクレタの前に立ち寄ったサントリーニ島。元々はもっと大きな島でしたが、火山の噴火で島の中央が吹き飛んで、断崖絶壁で三日月状の現在の形になった。白い家並が有名ですが、特に伝統だったわけではなく、観光客向けにこしらえたもの。

    クレタ島北部の海岸。すぐ背後には山が迫っている。

     


    イラクリオ近郊にあるクノッソス宮殿(前17-15世紀)。いわゆる「古代ギリシャ」時代のずっと以前に栄えた。ギリシャ神話のミノタウロス退治やイカロスの話は、クレタ島が舞台となっているお話。

    古代ギリシャの建築も当時は着色されていた(パルテノン神殿も)そうですが、クノッソス宮殿の遺跡は塗料がよく残っている(本物は博物館ですが)。

     


    壁画は全て複製。現物は博物館で見ることができます。

     


    イラクリオの考古学博物館。クノッソス宮殿の模型。

     

     


    キサモスまで移動したら、そのままクレタ島を脱出する予定でしたが、船がまさかの週一便。チケットをとりに行ったその日の朝がちょうど出航日というタイミングで、暇を持て余したので、クレタ西部を少し自転車で周ることに。

     


    スフィナリという小さな村のビーチ。ロシア人の子どもが夏休みで来ていました。クレタ島以外でもロシア人はよく見かけます。同じ正教会であることと、海と太陽を求めてギリシャに来るそうです。サンクトペテルブルク在住なので都会の子でしたが、そんな感じは全然なく素朴な印象でした。クレタ島以外でも何人かロシア人に会いましたが、みな思った以上に素朴で、西欧とは異なる雰囲気がありました。

     

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    15.ギリシャ本土へ、スパルタ遺跡

     6月13日イスタンブールから約3ヶ月。ついにギリシャ本土入り。ここからは誰もが知るような遺跡ばかりですが、まず目指したのは古代ギリシャの軍事大国「スパルタ」の遺跡。

     


    ペロポネソス半島、ギシオ(Gyhio)港。

    染谷 裕太  6月18日
    スパルタ! こじんまりした遺跡からは、アテネと共にペルシャを撃退した主力であり、アテネと覇権を争ったとは思えない、と後の時代の人間は思うだろうと古代ギリシャ人も言っていましたが、まさしくその通りだった。

    スパルタは山間の平野にあり、土地はあるので、物理的に街が大きくできないわけではないですが、アゴラ(市場)、ストア、神殿など、古代ギリシャの特徴である公共施設はこじんまりとして小規模。本当に軍事しかなかったのだなと感じる遺跡ですが、逆にそこまで徹底できたのも凄い(笑)

    ペルシャとの戦争などでスパルタが古代ギリシャで果たした役割は大きかったものの、遺跡としては見るものが少ないので、観光客は少なく、ポツリ、ポツリとまばらに散策する人がいるだけだった。

    しかし、エーゲ海こそ見えないものの自然は豊富で、街のすぐ向こうに見えるタイゲトス山脈は険しく、美しく、平野にはオリーブの樹海と農地が広がり、オリーブに囲まれるように古代スパルタの遺跡とその南に現在のスパルタの街がある。街から5kmほど離れた山の斜面にある中世ビザンツ時代の城塞ミストラス(スパルタに観光へ来る人は普通こちらに行く)へ向かって少し上れば、スパルタの大地を一望。

    スパルタと聞いても軍事大国のイメージばかりでしたが、こんなにも豊かな自然に囲まれた場所に都市があったのかと率直に驚きだった。スパルタに限らずですが、実際に訪れると、今まで自分が持っていた古代ギリシャ文化に対するイメージは随分狭いものだったのだなと思わされる。

     


    現在のスパルタの街。ツーリストは少なく、ごく普通の街。

    広場にあるスパルタ兵の像。

     


    スパルタ遺跡に隣接する大きな運動場。わざわざこの立地で運動場を造っているのは、絶えず軍事訓練をしていた古代スパルタを意識してのことではないかと思います。

    スパルタの大地(ミストラス遺跡から撮影したもの)。

     


    スパルタ遺跡はオリーブ林の中にある。

    手前から順に劇場、オリーブの森、現スパルタの街、タイゲトス山脈。

     


    アゴラ跡。

    敷地内にはオリーブの古木が沢山ある。

     


    スパルタの考古学博物館。

    スパルタの英雄レオニダスの像。

     

     

    武田 康弘
    スパルタは、他のポリスとは「鎖国」状態だったようだ。それにより、貧富の差をなくし「平等」(それが国是)を保ったのだ。よく肥えた土地という自然の好条件が交易に頼らない選択を可能にしたわけだね。
    少年たちは30歳まで団体生活で、ギリシャ第一の軍事大国を担ったと伝えられるよ。

    染谷 裕太
    どうしてもアテネと比べて低く見がちでしたが、スパルタというポリスも、あの時代のギリシャ人達の試行錯誤の一つなんですよね。スパルタが鎖国政策に、厳しい軍事訓練と共同生活によって秩序をつくったとすれば、アテネの場合は、フィロソフィーによってそれを、ということでしょうから、ソクラテスも出てきたのか。結局死刑にされたのは、フィロソフィーの放棄でもあったわけですね。

    武田 康弘
    団体や組織、規律や宗教とはまことに強烈なもの。天皇万歳の「日本会議」(右翼団体)が強いのもそれゆえ。
    理性(総合的判断能力)はたえず負けるのかな。
    人類は、ソクラテスやヒュパティアのような自由と責任、理性と愛情を持てないのかもしれませんね。
    仲間主義の感情で対立し、勝負にこそ燃えるのかもしれません。
    そこから脱出して市民的公共性(それを支えるのは「恋知」の精神しかないでしょう)を中心にした社会をつくれるのか、
    ダメかもしれませんが、挑戦することとその過程を生きる(善美への憧れと真実を求めて)のが最高の生であることは確かです。
    いままたソクラテスの挑戦が始まる~~~(笑)みなでね。

    Osamu Furubayashi
    スパルタ、きれいな街ですね~。
    意外!
    こんな恵まれた環境だったのですか。

    武田 康弘
    恵まれていたから「鎖国」で、軍事訓練を通しての秩序の形成。
    閉じた、と、開かれた、の差だが、
    開かれたアテネは、偉大な普遍性を持ったが、スパルタやその周囲のポリスに押され気味。
    やはり、恵まれている(裕福)ならば、「閉じて」その中で利益を得た方がよいな~~~(笑)。善美のイデアなどクダラナイ。戯言じゃ。現実のお金と権力の安定がなにより一番。
    みなその秩序の下で暮らせ!そういう人生を送れ!
    よく、聞け、フィロソフィーなどというつまらぬ戯言にだまされるなよ~~~~!!
    肥えた土地で、毎日鍛錬鍛錬じゃ。
    なに?生きる意味?だと。そんなものは、国が与えてやる。集団の美の追求じゃ。みんなでやればなんでも怖くない。死ぬのも平気。釈迦など出る番はないんだよ。国だ!国家だ!君は国家の一員なのだからな。

    おい、おれの説に反論してみろ!個人なんてちっぽけなもの。家族を大事にせよ!国を愛せよ!それ以外に生きる道があるのか?
    どうだどうだ、とどこから声がするのですが~~(笑)
    いかがでしょう。

    武田 康弘
    わたしの意識は生まれた後でつくられるわけで、親がいなけりゃ子はないのですよね。
    けれども、わたしの意識は、親とも兄弟とも他のだれとも異なる「わたしの意識」です。人間はそれぞれ「わたし」であることが先行し、わたしのあらゆる言動は「わたし個人の自由と責任」が負う他なく、その原事実に基づいて、現代の法律もつくられています。
    誰であれ、あらゆる営みは「個人」意識とその個人の自由と責任によるということ、そこから逃れることはできません。
    家族やさらには国家と自分の一体化を幻想することは出来ますが、それはどこまでも「物語」と同じ幻想領域としてのみ可能です。
    あなたはあなた、わたしはわたし、この厳しさと自由を生きるほかはない。それが人間存在の宿命です。公共はここからしか生まれまん。すでに2500年前にペリクレスが演説した通りです。

    はい、学生さん向けの解説でした。分かりますか(笑)

    染谷 裕太
    わたしの関心、わたしの欲望、わたしのという意識が希薄であると、わたしがいま生きているこの世界の意味も価値も薄れていき、ここに国家主義は容易に侵入してくる。個人意識を完全に消すのは不可能であったとしても、極限まで薄めることで、国家主義、全体主義による支配はむしろ国民に望まれる政治になり、支配する側と、される国民の側とで相互補完的に強化され、最後、国家が崩壊するまで突き進む。
    うん、改めて拒否!(笑) ノーアベシンゾー。

    釈迦の言葉「自己を拠り所とし、自己を灯としなさい」に、厳しくとも釈迦の(直接的には)弟子達に対する愛情と希望を感じます。

    武田 康弘
    精神の自立のある人ほど人にも優しく、人の気持ちも分かる人になります。日本人は権力をもっていたり、学歴が高かったり、お金をもっている人ほど、底意地が悪く、自分の利害損得で生きる人になり、その奥深いエゴイズムを外づらのよさや、言葉=理屈でカバーする人になりますね~~~
    気持ち悪いな~~~【世界一の自我主義者】(主張しないから全然固いエゴが解けず開けず)の集まりの国を変えたいね。あれっ、話がズレた!

    でも古代フィロソフィーの旅だからピタリか(笑)

     

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    16.メッセネ遺跡

     メッセネは、あまり知られてない遺跡かと思いますが、今回の旅行で持ち歩いていた「指さし会話帳」に載っており、ルート的にスパルタからオリンピアまでの通り道にあったため立ち寄ってみました。メッセニアと呼ばれるこの地方は、紀元前8世紀からのスパルタ人の侵入以後、スパルタに支配されていましたが、紀元前371年のテーベとスパルタの戦争によってメッセニア地方が解放された後、テーベの指導者によって、メッセネというポリスが建設されました。

     

     

     

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    17.オリンピア

    染谷 裕太 6月24日
    古代オリンピックの地、オリンピア遺跡。紀元前八世紀から始まって、紀元後4世紀にキリスト教化したローマによって異教の祭事が禁止されるまで軽く一千年以上!続いたオリンピック。四年に一度の大祭に胸を高鳴らせながら、全ギリシャから参加者、観戦者がここに集まってきた。 海は見えませんが、程よい高さの山に囲まれて、緑に溢れ、清流が流れ、大木が強い陽射しを和らげて、何とも気持ちのよい場所だった。ゼウスの聖地とされていたのも頷けると思えるような土地。たとえ戦争中でも、停戦してまでオリンピアでの大祭を楽しんだ古代ギリシャ人。現代よりもずっと進んでいる。


    オリンピア遺跡へと向かう道のり。

    オリンピア遺跡。敷地内は巨木が沢山ある。

     


    ヘラ神殿。

     


    スタディオン。4万人以上の観衆が収容できた。

    ゼウス神殿。大きな神殿ですが、柱が一本修復されたのみで、あとは崩れたままになっている。

     


    真ん中の男性がもっているのは聖火。

     


    ニケ(勝利の女神)

     

    武田 康弘
    全裸で行われ、栄誉は個人にのみ与えられ、と今とはずいぶん違う。 国旗も国歌も関係なく個人であったのは、今よりずっと新しい(笑)

    染谷 裕太
    競技も個人競技だけでしたしね。 ロシアが前のオリンピックで、ドーピングの罰則で「ロシア」としての参加が認められず、選手は検査を受けた上で、「個人」として参加するということがありましたけど、むしろ個人参加が本来(笑)

    武田 康弘
    うん、ほんとにそうだよね。サッカーも国対抗で異様な感じ、あんまりニッポンニッポンって大騒ぎしているから、アフリカのチームを応援しようと思う~~
    https://www.soccer-king.jp/news/world/wc/20180624/783037.html

     

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    染谷 裕太 2019年9月7日


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