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  • 194.体罰と丸刈り強制の我孫子市の教育=1986年に始めた改革運動の意味と価値ーー33年前のエピソードは、いまの停滞を破るキーです。

  • 194.体罰と丸刈り強制の我孫子市の教育=1986年に始めた改革運動の意味と価値ーー33年前のエピソードは、いまの停滞を破るキーです。
    新しい時代になったのは1986年の【ワープロの出現】です。 それが我孫子市の体罰と丸刈り強制の撤廃も可能にしました。

     

     いま思うと、ほぼ全ての漢字が使えるワープロの出現は、活字の権威=印刷物の権威を相対化させた文化の変革でした。それが日本に新しい時代を到来させたのです。
     
     1985年までは、活字は印刷物が独占し、そこに活字という文字言語の権威が巌としてありました。しかし、1986年に出現したJIS第2水準と呼ぶ漢字が使えるワープロの出現で、活字は、ふつうの市民が使えるアイテムになり、印刷物=活字の権威は相対化してしまい、新しい時代=市民文化の時代が生まれたのです。それを更に飛躍させたのは、もちろんインターネットの普及ですが、そこでは形式や権威ではなく、内容が問われることになりました。
     
     以下は、岩波書店からの依頼で書いた「我孫子丸刈り狂想曲」(月刊「世界」1992年8月号)の前文となるようなエピソードで、わたしが運動を起こしたキッカケですが、それを可能にしたのはワープロの出現だったのです。

     33年前のことで現代史の1ページになっていますが、我孫子での教育改革の市民運動の成功は千葉県全体に及び、他市でも強制は次々と撤廃されることになりました。その後の我孫子市全体の変革もこの新しい運動が基盤となったのですが、今また逆戻りなのは、改革の思想と実践がリスクを恐れて、創造的なフィロソフィーの次元にまで進まず、「革新運動を革新する」ことができなかったからです。結局は、失敗を恐れる古いタイプの人に特徴的な創造性の欠如により、パワフルなエネルギーを生みだせずに旧態に戻ってしまったのです。

     したがって、従来の革新思想とは異なるオリジナリティーあふれる運動とその成功を振り返ることには、現代的→未来的な意味があるはずです。


     

    エピソード   NECのミニ7E発売が新しい時代を開いた!?

     すべての漢字(JIS第2水準)が使えるワープロ=文豪ミニ7E (1FDD、9インチCRT搭載)新発売! という大きな広告が新聞に出ました。時は、1986年5月です。
     わたしは、それまでワープロというものを直に見たことはなく、広告の写真で知っていただけでしたが、「漢字が全部使えるなら、哲学的な用語も含めた文章がつくれる、すごいな!」と思いました。活字で文章がつくれることに感動したのです。

     次の日曜日、早速、秋葉原に行き、現物を見ました。何件か周り一番安い店で、ローンを組みました(12万円以上もしましたので現金ではとても買えない)、ついでに6歳になったばかりの息子のために、スーパーマリオというゲーム器も買い、両方を担いで電車に乗り持ち帰りました。

     実は、使い方も分からずに買ったこのワープロのおかげで「丸刈り」に象徴される管理教育是正の運動が始まることになったのですが、もちろん、購入時にはそんなことは思いもしませんでした。
     説明書を読みながら、使い方をマスターするために、私の教育思想を書いた文章をキーボードで打ち込む練習をしましたが、だんだん出来るようになった時、突然、ひらめきました。

     実は、その1年ほど前(1985年)に、幼稚園児だった息子の弘人が、我孫子駅で丸刈りの中学生たちを見て、「なんで毛がないの?」と聞くので、「中学生になると丸刈りにしないといけないんだよ」と話すと、驚き、引きつったような表情で「ぼくは、イヤだ!」と強く言ったのです。
     更にその2年前の1983年3月からは、教え子の綿貫君が管理教育是正を訴えた作文を書き、白山中学の先生と話し合いをしましたが(中学卒業時から計6回も)、全く聞く耳をもってもらえませんでした。

     そこで1985年の秋に、白山中学校に行き、受付で、「わたしは、市内の寿で私塾を開いている者ですが、丸刈り強制などの校則について校長先生とお話しがしたいのです」と言いましたが、「校長は忙しいので無理です」と言われ、「いつでも構いません、お時間の取れる時にお願いしたのですが」と言いましたが、「いつになるか分かりません」と相手にしてもらえませんでした。そうか、名前(肩書)のある人でないと校長と会うことはできないのだな、とその時に悟り、なんとも嫌な気持ちで引き返したのでした。

     ここで、ワープロです。そうだ!名簿をつくろう。『我孫子児童教育研究会』の名称で名簿をつくり、そこに名前(肩書)のある人を載せればいいのだ!と、ひらめいたのです。印刷物のように活字で立派な名簿ができる!

     学校が「権威」と思う人(地元の元教師の長老や医師や弁護士ら)を並べた名簿をつくり、それをもって行けば、話し合いに応じるはず、と思ったのです。そこでわたしは、友人で肩書をもった6名をワープロで書きだし、それぞれの家に行って事情を説明したところ、みなの承諾が得られたので、『我孫子児童教育研究会・代表会員』という名簿をつくることができたのです。1986年6月、わたしが34才の時でした。

     この名簿を持って再び白山中学校を訪ねると、前年とはうって変わり、すぐ校長と話すことができました。ここからは、後に岩波書店から依頼されて書いた「我孫子丸刈り狂想曲」(『世界』1992年8月号)にある通りです。ぜひ、お読みください。 

     以下の写真は、1986年7月4日、拙宅での最初の集まりです。

    武田康弘

     
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