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  • 192. 私と共和制 楽しい公共社会を生むために

  • 192. 私と共和制  楽しい公共社会を生むために
       +人類思想の三分類と恋知

     世界的に民主政の危機が指摘されてすでに長い時がたちます。この国の場合だと戦前回帰(=明治が生んだ国体思想)が色濃くなる中、ではどうしたらそれを乗り越えられるのか、根本的な原理(考え方)を提示する人がいません。
     今回お届けする館長・武田康弘の論文はその大胆な試みです。民主政の原理を徹底して追求すればどうなるか、それは【共和制】に行きつきます。その共和制とは?

     以下、とても重要な論考です。
    ぜひ、お読みください。
    いつものように、異論反論は大歓迎です。

     印刷用にPDFファイルも用意しました。PDFファイルの方には付録で人類思想の三分類 「儒教・儒学」、「ソクラテス・ブッダ・老子の実存思想」、 「キリスト教・イスラム教などの一神教」 と 「恋知」も添付してあります.
    =>クリックでPDFダウンロード.

     なお、この論文は出版を前提にした原稿依頼によるものですが、元号切り替えの時期になっても出版される目途が立っていません。大事な時期を逃したくないのでここに公開しようということになりました。
    =============

    追記:
    以前にも載せた【人類思想の三分類と恋知】をここにも再掲載しました。共和制の土台となる実存思想について語っていますので、【私と共和制】とセットでお読みください。


     


    目次

    第1章 戦前と戦後の曖昧性

    第2章 国体思想=靖国思想

    第3章 「天皇」システムの維持は困難・共和制へのスムースな移行が必要

    第4章 未来を開くのは、温故知新の実存思想

    人類思想の三分類と恋知

     


    第1章  戦前と戦後の曖昧性

     わたしは、小学生のときに明治維新の「天皇教」を知り、言葉にならぬ気持ち悪さを覚え、「天皇は生きている神」という思想の幼稚さと愚かさに呆れました。

     いつも対話相手だった父に「なぜ明治政府の人はそんなバカげたことを考えたの?」と聞きましたが、幾度話を聞いて考えても、分かるどころか、戦前の天皇教のおぞましさにゾッとするばかりでした。
    中学生の時に哲学に興味をもち、「自分で考える」ことを何よりの楽しみとした理由は、この天皇教の気持ち悪さが原因でしたし、さらにより深くは、幼児の時からの内臓疾患の苦しみでした。いわゆる病と死への面接から生きる意味を考えることがわたしの知的活動の中心となりました。

     その双方を貫くのがソクラテスによるフィロソフィー(直訳語は「恋知」れんち)という実存思想で、それは、紀元前5世紀にソクラテスと同時にインド(生誕地はネパール)に現れたブッダの思想と重なり、少し遅れて中国に現れた老子の思想とも重なります。さらに言えば、中世の日本に現れた親鸞の思想、また20世紀フランスのサルトルとも重なります。みな広義の実存思想で、超越者・絶対者・神ではなく、最終的に自分自身の存在、「感じ・想い・考えるわたし」を拠り所とします。

     わたしは子育て=教育に関わり生きてきましたが、こどもたちに教えることができるのは、「自分自身で考える力」をつけることで、特定の主義や宗教を教えてそこに誘導するのは禁じ手です。その時々の政治権力者に従ったり、特定の宗教や主義に従うのでは、よく生きることにはなりません。異なる個性をもって生まれてくるのが人間ですので、それぞれがもつ人間としての尊厳を育てるのがほんとうの教育であることは疑いのない原理でしょう。

     共和制は、それぞれの個性をもつ異なる人間が、対等で自由な存在として生きることを国の制度としても前提とする思想で、どの地域でも国でも、歴史の進み行きは、必然として共和制に行き着くはずです。古代の王制や君主制は、「一人ひとりの人間の存在が等しく尊重されるとする普遍的な思想」の拡張に伴い長い年月の末に民主制に基づく政治へと変わってきました。21世紀の現代では王室をもつ国は極めて少数です。生れながらにして他とは違う一族がいるというのは、人間存在の対等性という原理とは背反するために、戦争や革命を期にだんだんと姿を消してきたわけです。

     日本でも敗戦により天皇制は連合国の意思により消える運命にありましたが、アメリカ軍のマッカーサー司令官の判断で、日本の統治をスムースに行い、日本を社会主義陣営との戦いの前線にする必要から、裕仁との握手で天皇制を存続させることが決まりました。米軍が日本全土を使い続ける権利とのバーターで、天皇家と米軍は利害が一致したのです。裕仁は、「沖縄は米軍が使用してほしい」と自から申し出てもいます。
     日本の戦争犯罪を裁く東京裁判では、戦争責任は東条英機にあり、裕仁にはないというシナリオ(もちろん全くの嘘ですが)をつくり、東条はそれを受け入れて、天皇と天皇制を守りました。東条の処刑の七日後には、勝子夫人の元に皇居から勅使が来て「東条は本物だった」という裕仁の言葉が届けられました(1964年の暮に勝子夫人が長年にわたり宮内庁記者を勤めた板垣恭介さんに「居住まいを正して」話したこと)。

     ここで大切なのは、「ポツダム宣言」(42~44ページ参照)を受諾して敗戦した日本は、連合国との約束により民主化を進めることになり、新憲法の作成に取り掛かりますが、政府案も当時の二大政党(立憲政友会と立憲民政党)案もみな「大日本帝国憲法」の柱である主権は天皇にあるは変えられないと主張したことです。もちろん民主政治の原理は人民主権≒国民主権ですから、連合国は到底認められないとして拒否しました。そこに現れたのが民間人七人による「主権は国民にあり、天皇は儀礼を司るのみ」とした憲法草案でした。戦前から 「大原社会問題研究所」※(P.18参照)で活躍していた高野岩三郎(研究所の所長で、日本統計学のパイオニア且つ労働運動の理論的支柱、徹底した民主制を志向する共和主義者の東大教授で戦後改組されたNHKの初代会長)の呼びかけで敗戦と同時に集まった民間人の草案でした。仕上げたのは憲法学者の鈴木安蔵(戦前の治安維持法違反で逮捕され投獄された最初の人)です。1945年の12月に発表され、それを連合国が注目し、直ちに英訳し参考にして英文で現「日本国憲法」草案をつくったのでした。
     何より重要なことは、新憲法を作成するにあたり、最大の難所は、主権を天皇から国民に変える点にあったという事実です。伊藤博文は、天皇から臣民へ与える「大日本帝国憲法」について全国の府県会議長たちに「将来、いかなる事変に遭遇するも天皇は、上元首の位を保ち、決して主権は民衆に移らない」と教説しましたが、その思想=天皇教の根深さがよく分かります。

     ともあれ、敗戦後、主権者が天皇から国民へとコペルニクス的転回をしたわけですが、これを曖昧にし、近代日本の歴史の意味をカオス化させたのが、昭和天皇裕仁の【退位さえもしない】という驚くべき行為でした。
     憲法の全面改定により「人権思想に基づく民主制の国」へと変わったにも関わらず、裕仁がそのまま天皇という地位に留まった為に、日本の近現代史は混沌として意味の分からぬものとなりました。現人神!であった戦前も「人間宣言」をして人間!になった戦後も同じ「昭和時代」と呼ばれることになったのです。


    サイパン島(子女も全員死を選び褒め称えられた)
    藤田嗣治 画

     これは、日本人全体の歴史認識を大きく狂わせてしまい、戦前の反省、その思想と行為の検討や批判を困難にしてしまいました。戦前は、学校で、天皇は生きている神と教えられていたため、神国日本は絶対に負けないと信じ込み、どのような悲惨な戦いでも白旗を上げないで全員戦死を選ぶことをよしとし、いつまでも戦争を続けましたが、その結果、最後は2度の原爆投下(米軍は13発を用意して日本全土を壊滅させる作戦でした)でようやく「ポツダム宣言」を受諾して敗戦したのでした。それによる戦後の根本的な改革=出直しだったのですが、裕仁は、退位を勧める人たちの声を無視して天皇の地位に留まったために、戦前の明治天皇制と戦後の象徴天皇制との相違が曖昧となり、日本人みなの歴史意識と社会と政治への考え方を歪めてしまったのです。
     これは大きな負の遺産で、いまの安倍自民党政府に見られるように「戦前思想」への回帰-明治礼賛の政治を復活させてしまう原因ともなっています。明治維新以降敗戦までの「天皇現人神」と、敗戦後の象徴天皇制との次元の相違がボカされて混沌とさせられていますが、いまの天皇の明仁さんや皇后の美智子さんは、それへの大きな違和をもち出来る限りの抵抗をしてきました。その最大の行為が「生前退位」です。岩倉具視や伊藤博文らがつくった天皇教(=靖国思想=国体思想)では、天皇は神であり、その死によってのみ時代は変わる=新元号となるので、退位は認められないとするのが明治から続く思想と制度でしたが、それを壊したのが、今回の明仁さんの決断でした。

     なお、ここで敗戦時に昭和天皇の裕仁について兵士はどう思っていたかのエピソードをご紹介します。日本人の多くは敗戦後も「天皇現人神」という深い洗脳が解き切れなかった為に、なかなか表には出せなかった赤裸々な心の声です。わたしのblog「思索の日記」2018年8月16日から。

    「天皇はのうのうと生き延びた!」 元兵士の憤りの声ーある証言

     わたしの義父の関根竹治さんは、1923年12月に埼玉県蓮田市に生まれた関根家の長男でしたが、2010年8月に亡くなりました。

     農家の総本家の長男で、頭はしっかりし心も強かったですが、先祖代々の農家の後継ぎでしたから政治思想などは特になく、ふつうに保守的な人でした。政治の話、まして天皇の話などをしたことはありませんでしたが、亡くなる数年前のお盆の時、親戚一同の前で驚くべき発言をしました。
     みなで、テレビで、終戦記念の番組を見ていたとき、わたしは、「東京裁判で東条英機が罪をかぶり絞首刑になったが、ほんとうは、昭和天皇に大きな責任があるはず」と発言しました。親戚一同は何も言わずに黙っていましたが、 その時、竹治さんは、大きな声で断固とした調子で「そうなんだ!」「わしら兵隊はみな、天皇は、自害するものと思っていた。」「だが、天皇は、のうのうと生き延びた!!」と言い、赤紙一枚で、無意味な戦争に行かされ、農民は、どれだけ大変な思いをしたか、を話しました。
     誰もが口を聞けませんでした。心からの明晰な声、揺るぎない言葉にみな黙るほかありませんでした。始めて聞く竹治さんが話す兵隊たちの思いに唖然となりました。
     自害どころか退位さえしないで、最高責任者がそのまま天皇の名で、「のうのうと生き延びた!」ことに、強い憤りをもつ竹治さんの声は、誰の耳にも心の真実を伝えたのでした。

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    第2章 国体思想=靖国思想

     いまなお「天皇教」に嵌(はま)る人たち 「日本会議」の愚かさ

     民主制とその内実である人権思想に馴染んでいる人から見れば、いま大手を振るうウヨク団体「日本会議」の主張は、荒唐無稽であり危険思想と思えるでしょうが、そういう主張の団体に大多数の閣僚(公明党以外)と自民党国会議員が名を連ねているのを見ると、情けなく思います。

      日本会議が出しているブックレット『皇位継承の伝統を守ろう!』(明成社刊)では、彼らの中心者の一人である藤原正彦(数学者・お茶の水女子大学名誉教授・『国家の品格』の著者)が以下のように書いています。

     「天皇家の根幹は万世一系である。万世一系とは、神武天皇以来、男系天皇のみを擁立してきたということである。男系とは、父親→父親→父親とたどると必ず神武天皇にたどりつくということである。これまでは八人十代の女性天皇がいたが、すべて適任の男系が成長するまでの中継ぎである。・・・・・
      これを変える権利は、国会にも首相にもない。天皇ご自身にさえない。国民にもないことをここではっきりさせておく。飛鳥奈良の時代から明治大正昭和に至る全国民の願いを、現在の国民が蹂躙することは許されないからである。」

     神武から続く125代の天皇、というのが事実に反することは、実証的な日本史家に共通する認識ですが、それを無視して神話を現実とする藤原教授の言辞には呆れます。土台、天武天皇以前には「天皇」という言葉すら日本にはなかったのです。また、小中学生が習う日本の歴史でも、南北朝で、天皇家同士が骨肉の争いをし、30年以上も内乱が続き、互いに自分たちが正統だと言い張ったことが書かれています。血の正統性という話は、史実ではなくフィクションであることは日本史の常識です。宮内庁ですら史実だとはしていません。さらに言えば、誰でもみなが「太古から続く系譜の持ち主」です。ただ家系図が残っていないだけのことです(笑)。

    ※史実は以下の通りです。

    中国から輸入した「天皇」という称号は、壬申の乱で勝利して王権を受け継いだ天武天皇(673年~689年、「日本書記」の編纂を命じて、自身の王権の正当性を記させた)がはじめて用いたのでした(それ以前は「王」・「大王」)。しかし、天皇という称号はその後300年間弱のみで、平安時代前期の村上天皇を最後に使用されなくなりました。天皇家の権力が弱まり、京都周辺のローカルな王権になったことに符合して、「○○院」と称されるようになったのです。再び天皇の称号が復活したのは、それから800年以上経ち、徳川幕府の力に陰りが出てきた江戸時代の後半、光格天皇からで、現代まで240年間のことです(詳しくは『名前でよむ天皇の歴史』(遠山美都男著・朝日新書)を参照)。合わせても540年間ほどの時間に過ぎません。

     ともあれ、明治維新の尊王攘夷思想による天皇現人神の政治(国家カルト思想)をよしとし、そこに戻そうとするウヨク団体「日本会議」が大手を振るい、保守党の議員の多くがそのメンバーという日本の現実には寒気がします。いま、天皇という役を担う人自身も困惑する「国体主義」によって日本をまとめようとするのは、時代錯誤的という以上に、狂気的と評するよりほかに言葉がありません。

       明治維新が依拠し、国民に浸透させた国体=靖国思想とその現実化

     伊藤博文や山県有朋らの維新の思想は、彼らの師である吉田松陰が、天皇を神とする純粋な信仰と激しい情熱(死ぬことで自身の尊王思想を現実化させようとする強烈な意思)によって生みだした尊王攘夷ですが、それは、後期水戸学と国学による「天皇教」で、長い武家社会の中で神職の代表者を務めてきた皇室の長を、生きている神として崇め、現実政治の中心者にもするという近代社会を拓く思想としてはありえない「禁じ手」を用いて、政府が全国民を一つにまとめあげるというものでした。その劇薬の負の遺産=悪しき明治の伝統は、今日の日本を覆い、日本人の精神的自立=実存としての生を阻んでいます(それについては「恋知」1章と2章に記しました)。


    明治天皇が所持していた
        狡知な表情の伊藤博文

     更に、そこで生みだした国体=靖国思想を、7世紀後半から8世紀初めに成立した律令国家に投影=逆照射させて、日本の歴史はすべて天皇によるものという【強烈な天皇史観】(もちろん真っ赤なウソ)をつくりあげたのでした。

     ただし、7世紀に律令政治を拓いた聖徳太子(複数の人物の集合と言われるが、厩戸の皇子(うまやどのおうじは個人として実在)の「十七条の憲法」では、当時、最先端にして唯一の体系的思想であった仏教を中心とする国づくりを宣言しましたが、明治維新はアベコベで廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)でした。各地で寺や仏像が壊されて、その上に神社が建てられたのでした。首都圏の有名な神社である上野東照宮や鶴岡八幡宮もそうですし、武蔵御嶽神社も筑波山神社も1000年以上続いた寺を壊してつくられたものです。全国では驚くことに数万以上の寺が壊されました。仏教のもつ徹底した平等思想と平和主義が明治の富国強兵の思想とは相容れないことが深因といえます。「神仏分離令」に基づく廃仏毀釈のあまりにも過激な運動の広がりには明治政府も驚き慌て、沈静化をはからなければならなくなったのでした。        

     伊藤博文らの明治政府要人(ほぼ長州藩出身者)の先生格であった福沢諭吉は、最初は、天皇を神として日本を統一するという思想はとても受け入れられないだろうと批判的でしたが、意外にも国民は、強い政府の方針に従い「天皇現人神」を受け入れる様子を見せたために、次第に諭吉も天皇教を支援することになりました。漢学を断ち欧化路線(「アジア」の悪友たちと縁を切る)をすすめた諭吉は、【欧米化と天皇教との合体】による日本をつくるために邁進しました。中江兆民の中国と欧州の双方の文明から学ぶべきという思想は退けられたのです。
     ルソーがつくった人民主権による民主政治の原理『社会契約論』の邦訳者でもあった中江兆民が死去(1901年・明治34年)した9年後には「大逆事件」が起き、兆民の弟子で優れた知識人であった幸徳秋水は無実の罪で死刑になりました。この事件を期に(1910年・明治43年)、政府側の知識人であった森鴎外さえも社会問題と絡めた小説を断念し、「歴史小説」に限定せざるを得なくなります。
     しかし、同じ年に、自由と個性尊重を謳う同人誌『白樺』が発刊され、社会問題には疎かった志賀直哉も秋水の刑死を知り「憤まんやるかたなし。」と記しています。皇室の藩屏=「学習院」卒の若者たちという特権ゆえの大胆な文化運動(日本最大の総合的な文化運動で白樺山脈と呼ばれた)でしたが、1923年の関東大震災により廃刊となります。
     その後、1930年代(昭和初期)からは、西欧思想(実証主義・合理主義・個人主義)への政府の批判が激しくなり、文部省主導の「国体明徴運動」が猛威を振るい、欧米の思想の大元とされる「個人主義」への排撃がなされたのです。
     いま、教育改革や皇室問題の政府の諮問委員で安倍首相の友人・八木秀次麗澤大学教授の『明治憲法の思想』(PHP新書)・『反-人権宣言』(ちくま新書)に露わな欧米思想=「個人」への激しい敵対は、この時に文部省から出された『国体の本義』(1937年刊・173万部)と同一思想によります。八木は、「欧米の個人主義がつくった『人権』に日本はなじまない。日本人は人権という言葉に怯えずに、国民の常識に戻るべき」(「反-人権宣言」)と主張します。

     話が進みすぎて現代まで来てしまいましたので、時間を戻しますが、明治維新が成立すると、京都御所に暮らしていた若干15歳の睦仁(むつひと 怪死した孝明天皇の子)は、江戸城(皇居)に連れて来られ、伊藤博文や山県有朋らにより「明治天皇」=現人神になるべく教育されていきました。明治半ば、睦仁30代の終わりには維新の思想は現実化され、天皇から臣民に恩寵として与えられるとする「大日本帝国憲法」が公布され、「教育勅語」や「軍人勅諭」などの上下道徳も完成し、国民の皇民化が進みました。いま、「伝統」と呼ばれている習俗や習慣(例えば初詣など)もこのころにつくられたものが多いのです。

     明治2年(1869年)には、維新政府側の兵士の戦死者のみを祀る施設=「東京招魂社」を建立しましたが、それを10年後に「靖国神社」と改名しました。従来の神社とは異なり、味方(官軍)だけを祀り、死者を官側国家の集合神にするというものでしたので、神社とは呼べなかったのですが、維新政府は、なしくずし的に神社としてしまうと同時に、政府による全国の神社の格付けが行われて「国家神道」(この名称は戦後に付けられたもの)が誕生することになりました。

    また、伊藤博文は、東京中心にそれまで国有地(徳川家関連)だった土地を次々と天皇家所有とする名義書替を行いましたので、皇室は天文学的な量の財産を所有することになりました。絶対的な権力と権威を独占する人(現人神)にふさわしい物質的基盤がつくられたのでした。現在、上野恩賜公園や浜離宮恩賜庭園はじめ、あちこちの公園や庭園が、天皇から賜った公園・庭園となっているのは、そういう事情です。もともと天皇家は東京やその周辺に財産など持っていませんでした。

      安倍政権の明治礼賛と明仁さん美智子さんの思いとの落差

     明治の天皇制は近代天皇制とも呼ばれますが、このようにして極めて意図的につくりあげられた代物で、日本の伝統などと呼べたものではありません。この事情をよく知る明仁さんや美智子さんは、いまの「日本国憲法」における象徴天皇制の方がはるかに伝統に近く、「明治天皇制」は鬼子であり異質なものと見ていることは明白です。例をあげればキリがないのですが、特徴的なものを一つ記します。

     伊藤博文が4人で極秘に草案をつくった明治憲法(大日本帝国憲法)が誕生する以前に、日本の各地で民衆による憲法草案がつくられていましたが、その一つである「五日市憲法草案」(1968年に民衆史の著名な歴史家・色川大吉が発見)を以前に現地にまで足を運び見てきた天皇夫妻は、深く感銘を受けたと言い、美智子さんはその感想を文章にしていますので、宮内庁ホームページから転写します。

      「5月(2014年)の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年=1889年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。」 (皇后・美智子) 
    なお、西暦表記と下線は武田による。

     天皇や皇后という役をこなす明仁さんや美智子さんが示す戦後民主主義における天皇制の位地づけと、日本会議に集まるいまの保守政治家が思う天皇や皇室への見方の大きなズレは、最初に書きましたように、昭和天皇裕仁の「退位さえもしない」という驚くべき行為にその最大の原因があるのですが、では、この混乱をどのようにしたら乗り越えられるかを考えてみたいと思います。

     歴史を変えることはできませんので、前に向けて新たな世界を拓くにはどうするか、です。


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    第3章  「天皇」システムの維持は困難・共和制へのスムースな移行が必要

     タブーをつくると欠陥国家になります。

     わたしたちが社会問題について考えるとき、もしも、考えてはいけないことが決まっているとしたら、それは民主制(政)社会ではなく、よき公共性を生むことができません。自由に考え意見表明ができない国は「欠陥国家」というほかありません。
     欠陥国家に住む人は、豊かでのびのびとした生を営めず、心に浮かぶありのままの「想いや憧れ」を隠して生きることになります。ウソを抱え、自己を欺瞞して生きるのでは、根源的な不幸に落ちてしまいます。
     大きなタブーをもつ社会は、豊かな人間性とは無縁で、明るさや輝き、艶(つや)やかなよろこびに乏しい社会、国にならざるをえないのです。

     わたしは、1952年5月に神田に生まれ育ち、今年2019年に67歳になります。わたしが生きてきたのは、主権者を国民とする戦後の社会なのに、明治政府がつくった「天皇は偉い人」という想念とその絶対化はずっと続いていて、皇室や天皇制について自由に意見を言うのはタブーでした。マスコミでは天皇制に関する議論は行われず、テレビの討論番組でも、皇室や天皇問題では、「天皇」というシステムをよしとする側に立つ話者しか出演できず、異論を述べる人は排除されて、まるで「非国民」のような扱いです。ずいぶんと偏っていて、『日本国憲法』が保障する個人の尊重・思想および良心の自由・法の下の平等はどこにあるのかと思います。どうして日本では自由が認められないのでしょう。

     どなたも学校教育で経験済みでしょうが、「ほんとうの自分の心」が表明できない空気が全体を覆い、いつしか本音と建前が入り組んで、その区別さえできない人間になっていきます。自分の気持ちや考えは学校の「作文」には書けず、会社でも同じです。周囲に同化して生きること=「他者承認」に怯える人となることを当然とする社会が出来上がり、そうでない人は「無視」され、いないことにされます。高度に発達した世界No1の管理社会で、学習からスポーツ、趣味まですべてに「正しい」型が決められています。テレビは各種専門家・評論家であふれ、数知れずの「検定試験」がつくられて、それを通るために学習、否、勉強をします。社会全体の「学校化」の完成です。日本では人間の理想はAIなのでしょう(笑)。人間の生が内的関心=広義の欲望から始まるのではなく、あらかじめ決められている「正しい型」に到達するために生きるのです。外にある価値基準(世間的評価)に合わせて一生を送ります。強迫神経症者のごとくです。そういう精神状況を、ヘーゲルの他者承認の概念を用いて正当化する学者まで現れます。病気の進行が止まりません。

     こういう事態を引き起こすのは、特定家族を高貴なものとし、最大級の特殊な敬語で遇し、生まれた赤ちゃんも「さま」づけで呼ぶ皇室制度があることが原因だ、と単純に決めつけることはできませんが、「形と序列」の二文字ですべてが収まるような形式優先で中身の薄い儀礼・儀式重視の社会をなんとかしないといけないのは確かです。大きなタブーのある社会では、「型ハマリで生きる不幸」から脱け出れなくなります。それでは、中身・内容の豊かな意味充実の人にはなれず、内から内発的・主体的に生きることができません。学校名や家柄や年収や国籍など=形式で人をみる下品な人間に堕ちます。

     ここに記した困った問題は、社会制度を変えればすべて解決するとはいきませんが、解決のための必要条件とは言えます。

       シチズンシップ(市民精神)によりStateとしての国がつくられます。

     古代では、祭政一致(祭祀を司る者と政治を司る者が同じ)であったため、政治のことを政(まつりごと)と呼びました。しかし、わたしたちの近代市民社会の国では、主権者は、王でも貴族でも政治家でも官僚でもなく、人民≒国民にありますので、なによりも大切なのは、一人ひとりの考え判断する力ということになります。

     紀元前5世紀にアテネで民主政治を宣言したペリクレスは、次のように述べています(長いので要約して一部分のみ)。

     「われらの政体は、少数者の独占を排し、多数者の公平を守ることを旨とし、民主政治と呼ばれる。我らは自由に公共につくす道をもち、他人の猜疑心を恐れることなく、各々が自由な生活を享受する。
    教育においても同様で、過酷な訓練ではなく、自由の気風により規律の強要によらず、勇気の気質の涵養によるが、ここにわれらの利点がある。我らは、質朴たる「美」を愛し、軟弱に堕っすることなき「知」を愛する。我らは富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。
    我らは、国政の進むべき道に十分な判断をもつように心得る。我ら市民は、決議を求められれば、判断を下し得るのはもちろん、提起された問題を正しく理解することができる。
    我らのみが、利害損得に囚われずに、自由人たる信念をもって、結果を恐れずに人を助ける。ポリスの市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己の知性の円熟を期することができる。」

     ここで分かるのは、民主政社会では、一人ひとりの人間の精神的自立を何よりも必要としますので、「市民」(シチズン)という概念がキーワードになるということです。では、市民とはなんでしょうか。
     市民とは、この社会・国をつくる主体者のことです。自分はこの社会・国に住む一人の人間だ、というのではなく、自分はこの社会をつくっている一員なのだ、という自覚をもつ人のことです。公民=公共人=社会人(主体性・公共性をもつ個人)のことであり、国籍や民族という概念が主題となるのではありません。その地域に住む人が、人間としての対等性と自由を互いに認め合い、意思とお金を出し合ってつくるのが民主主義の国です。主権者は市民ですので、市民精神(シチズンシップ)に基づいて国をつくれば、共和制の国(民主制のほんらいの姿)となります。ベートーヴェンの第九交響曲は、全人類が共和制の下でそれぞれの歓喜を謳うというイデーの表現ですので、世界的な普遍性をもつわけです。

     王や絶対者のいない社会=共和制の社会をつくるためには、幼いころからの教育がキーになります。順番を踏んで一歩一歩、自分たちのことは自分たちで決める実践の積み上げが必要で、「考え、対話し、決定する」という普段の行為が求められます。いま、欧米の小中学校で行われている広義の哲学教育(互いの考えを聞き合い、言い合い、それを繰り返すことで段々と自他共に納得できる考えに鍛えていく実践教育)がそのための柱で、国連でも勧めていますが、日本にはそうした教育はなく、各教科の受験勉強(東大病・東大教)です。自分の頭で考えるのではなく、丸覚えと解法のパターンを身に付けるというレベルに留まっています。教育の本質的前進がありません。どんどん退化していきます。

     欧州には王室が残っている国もありますが、それらは歴史の名残であり、特別な人間として扱われるのではなく、特定の宗教や儀式をもつ存在でもなく、ふつうの市民社会に溶け込んで、一般の人とあまり変わらない生活をしています。英国を除けば特別待遇はされていません。英国は、民主政治の伝統が17世紀のジョン・ロックによるピューリタン(キリスト教原理主義)思想に基づくものですので、古代アテネに範をとるフランスのルソー(生まれはジュネーブ)の思想とは異なるからです。ただし、英国でも王であれ議会の決定に背くと裁判にかけられ、処刑されたこともありました。

      皇室の人たちも不幸になる「天皇」システム。


     先に書きましたように、律令政治がはじまって300年もしないうちに、天皇は実権を失い、京都周辺のローカル王となりましたので、「○○院」となり、天皇とは呼ばれなくなりました。平安時代前期から江戸時代後期まで800年間以上は天皇と呼ばれる存在はなく、江戸後期の光格天皇から「天皇」という称号が復活したのです。今上(きんじょう)とか御門(みかど)などと呼ばれた「○○院」は、時々の支配者たちの権力を聖化するアイテムとして用いられ、存続してきました。天皇が政治的な力をもったのは、明治維新の尊王攘夷(後、尊王開国)思想により70数年間ほどですが、明治政府の驚くほど徹底した【天皇史観=日本史の改ざんと天皇教の洗脳教育】は、いまも残り、大臣たちが加盟しているウヨク団体「日本会議」の思想となっています。笑い話のようですが、国会売店で売られている湯呑には、【歴代天皇一覧】として、神武から平成まで125代の天皇名(大多数は天皇ではなかったにも関わらず)が記されています。政治に関わる人は、まじめに実証的に日本史に取り組んでほしいものです。

    平成の天皇、明仁(あきひと)さんが、学友たちに「世襲の職業はいやなものだね。」と語っていましたが、その気持ちは、誰もがよく分かると思います。まして、明仁さんの父は、敗戦まで現人神=生きている神とされ、その教育の中で、皇太子の明仁さんも「わたしは軍国少年だった」と言う通り、臣民とされた国民と同じ思想に染められていて、その反省から種々の象徴としての行為を行ってきたのです。今年2019年に、明治に郷愁をもつ安倍政府の反対をはねのけてようやく「退位」が出来るわけです。

     考えてもみてください。日本国憲法1条は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」です。
     日本国の象徴(シンボル)で日本国民みなを統合する象徴になる、それが出来る人などいるのでしょうか。あなたがそれをしてください、と言われたらどうでしょうか。
     そういう「職業」(明仁さんの言葉)を世襲で行う一家がいて、その人たちには選挙権をはじめ離婚する権利もなく、国籍も住民票もありませんし、パスポートも発行されません。雅子さんは愛子さんが生まれる時、母子手帳がもらえないので、千代田区役所に請求しましたが、一人の人間としての基本的人権がないのです。へんな話で済みませんが、もし罪を犯したとしても裁く法がありません。発言の自由もありませんが、そのかわり年に数億円(以前は6億円程度でしたが今は3億円台)の生活費が保障されはします(それとは別に宮内庁の予算は180億円前後です)。
     基本的人権が奪われている人間を「象徴」という職業につかせ、天皇や皇室にしか用いられない特殊な言葉で遇し、最大級の敬語を用い、呼び名も陛下とか殿下とします。わたしは子どもたちに聞かれていつも返答に窮します。皇室の人やそこに生まれた子は「特別(高貴)」な存在なので敬語でよびますが、あなたや あなたのお母さん・お父さんは平民なので、ふつうの呼び名なのですよ!? う~~ん、納得できる子はいません。
     一方で、人間に生まれによる上下はない、差別はいけないと教え、他方では、天皇家は偉い人の集まりなので敬語を使いなさい、というのは酷すぎる話です。差別は、する側もされる側も人間の善美への憧れ心や正直さを失わせてしまいます。皇室に生まれた人もそうでない人(ほぼ全員)も被害者となります。

     では、どのような社会・国をつくるのがよいか。その骨子は、すでに2017年にfbやBlogで発表していますので、一部加筆して以下に載せます。
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    バーチャル政党=【民主共和党】(民主政を前に進める共和主義)、瑞々しい「水の国=日本」にふさわしい人間に優しく平等な国へ~~~

      基本の考え

     わたしは、小学生の時に、ふつうに「正しい」ことが言われない自分の国はなんか変だな、と思い、先生に頼んで「政治クラブ」をつくってもらいましたが、それから50数年が経った一昨年に、ついに政党を立ち上げました(笑)。2017年の秋にフェイス・ブックで【バーチャル政党・水の国=日本にふさわしい「民主共和党」】をつくったのです。一円の費用もかからず、労力も時間もかからないので、できました。1年数カ月たち党員?は300名を超えましたが、超ミニです。参加者は、自由にいろいろ投稿しています。出入り自由ですし、利害損得がないので、活発に議論が行われますし、党首?であるわたしへの異論・反論も出て、活気ある楽しい場です。

     以下は、そのコピーです。

     まず、首相のほかに【大統領】(日本の顔=元首で政治権力は持たない・ただし、首相の国会解散を拒否する権利をもつ)を選ぶ。
     ふさわしいのは学問・芸術に通じた品格の高い人-例えば石橋湛山(哲学者・経済学者・ジャーナリストで55代総理大臣)。※ 高野岩三郎(戦前に東大教授を辞して社会問題研究所所長・戦後に改組されたNHKの初代会長。庶民派にして高潔)。大原孫三郎(中国電力やクラレの創始者で白樺派の同伴者-心優しい博識の実業家)のような人。
     国旗は「日の丸」が候補。国歌は「さくら」(日本古謡)が候補。国花もさくらなので、ピッタリと思う。共に国民の自由な議論で決まります。「君が代」は、明治天皇に捧げられた皇族の歌なので(ゆえに皇族は歌いません)、主権者が国民に変わった現代には不似合いです。なお、歌詞は古今和歌集からで、天皇とは無関係です。

      元号は個人の趣向で自由に用い、役所や公共機関では、世界歴(ユリウス暦を修正したグレゴリオ暦)を使用する(今の元号の義務付けは不合理で間違いが生じやすいので。例えば、パブロ・ピカソ1881年~1973年、棟方志功 明治36年~昭和50年ではとても困りますし、時間が通年とならずブツ切れになるは不味いです)。

     天皇家は、ほんとうの住まいである京都御所に。江戸城は、江戸公園として国民みなに開放。

     天皇は、国事行為は行わず、文化的行為と国際交流を行い、基本的人権が保障される(いま天皇がしている国事行為は大統領が行う)。
     簡単ですが、骨子です。この線で市民(=公民)憲法案も出さねば、です。基本となる1条から5条の骨子は、以下です。

    • 1条 日本国の主権は、公民にある。

    • 2条 元首は大統領で、公民の直接選挙で選ばれる。大統領は国事行為を行う が、政治権力はもたない。ただし、首相の国会解散への拒否権をもつ。

    • 3条 皇室は、伝統と文化の象徴としての役割を担う。住居は京都御所とする。

    • 4条 戦争放棄 日本国は、武力の行使、武力による威嚇を行わない。専守防衛に徹する最低限の軍事力は持つが、いかなる理由でも海外への派兵は行わない。

    • 5条 人権の尊重 個人の思想と行為は、公共の福祉に反しないかぎり、最大限に尊重される。(個々の人権規定は現日本国憲法を踏襲し、さらに徹底させる。在日外国人の人権保障も加える)

     なお、日本の初代大統領としては、優しさと強さを併せ持つ人、明晰で品位の高い人、国際感覚に優れた人が適していますので、わたしは、官邸の圧力で降板させられるまではNHKの顔だった国谷裕子(くにや ひろこ)
    さんを推します。

     なにはともあれ、オープンに共和制の意味や意義について語れる状況を生みだすことは、とてもよいこと、大事なことです。
    大きなタブーがあることは、ひどく不健康ですからね。
    細かな話はともかく、みなが、明治維新政府によってつくられた水戸学に基づく「明治天皇制=国体思想=靖国思想=国家神道」の国家カルト的な精神風土から解放されて自由になることは、何より大切な「はじめの一歩」と思っています。
     集団同調主義(天皇教)でもなければドライな強権でもなく、水の国=日本にふさわしいしなやかで自由な共和主義って、いいでしょ~~~

     高野岩三郎は、戦前、東大に経済学部を創設した人で、日本統計学のパイオニア。東大教授を辞し、白樺派の同伴者でもあった実業家・大原孫三郎の発案と出資でつくられた「大原社会問題研究所」の所長となり、最新の統計学を基に労働運動などの研究に取り組んだ。その陣容は東大や京大に匹敵し、研究内容は日本最高峰と評された。今年2019年は創設100周年にあたり、法政大学内に移されて存続している大原社会問題研究所では、記念行事を行っている。なお、「高野岩三郎伝」(岩波書店)は、必読文献。
     彼はまた、敗戦後、民間人による憲法草案(憲法研究会による)の作成者の一人だが、それは、高野が鈴木安蔵に 「鈴木君、憲法の問題は政府にまかせては駄目だから、我々の手で運動を起こさねばならぬ、すぐに着手するように」 と言ったことによる。憲法研究会のこの草案は、GHQが「日本国憲法」草案をつくるときに参照した。ただし、高野自身は天皇制を残すことには強く反対して共和制への移行を主張し、草案とは別に「日本共和国憲法私案要綱」を出している。
     戦後に改組されたNHKの初代会長も務め、放送の民主化に尽力した。
     海外に開かれた港町の長崎に生まれ、自由な下町の神田で育った高野は、家父長制とは全く無縁で、根っからの共和主義者だった。理と情を併せ持ち、誰からも愛された反骨の人。 ↑戻る

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    第4章 未来を開くのは、温故知新の実存思想

     天皇は一番偉い人で、一番尊い家族は天皇家、一番偉い大学は東京大学、一番偉い職業は高級官僚?・・・一番という思想で生きる社会は、幸せでしょうか。どうもそうは思えません。納得ではなく、比較と競争が原理では、一人ひとりの人間存在への愛と尊敬は薄まり、生きるよろこびは広がりません。心豊かな人生にならず、楽しい公共社会もつくれません。まして、皇室とか天皇となると、世襲ですから誰も手の届かない「超越」になってしまいます。

     ブッダ(釈迦)の中心思想は、誰でも皆、比較を超えた最高の存在として生まれてきたという「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)です。SMAP最大の人気曲だった「世界に一つだけの花」(300万枚超)は、その分かりやすい現代バージョンです。
    ほぼ同時代(紀元前5世紀)に活躍したソクラテスも、名前や生まれではなく、エロース(恋愛)を動力源として一人ひとりの考える力と善美に憧れる心に依拠して生きること、それが人間の最高の生とします。
     女性原理(フェミニズム)につく中国の老子(紀元前4~3世紀)も、水のようなしなやかさを理想とし、無為自然を尊び、君子道徳の孔子(儒学)を厳しく批判します。
     古代のエーゲ海とインド(ネパール)と中国に現れた三つの思想は、みな権力や権威とは無縁で、一人ひとりの人間存在に立脚した【実存思想】でした。国家主義とも、その後に現れた「世界は唯一人の神がつくった」という一神教とも、元から異なります。

    人類思想の俯瞰人類思想の三分類「儒教・儒学」、「ソクラテス・ブッダ・老子の実存思想」、「キリスト教・イスラム教などの一神教」 と 「恋知」】は24~30ページをご覧ください。
    なお、米国在住の言語学者・三枝恭子さんによる英訳が白樺教育観ホームページ(教育館だより193.)に、日本在住のユダヤ系イギリス人、ジョナサン=Jonathan Levyによる英訳が196.にあります。フランス語訳、ドイツ語訳も進行中です。

     

     


       一人ひとりの人間への愛と信頼にもとづく実存思想は、人間の平等や個々人の自由による民主的な統治=自治政治を支える公共思想につながり、人権思想の土台ですが、それを知らないのは、明治になって欧米から直輸入した学問(キリスト教思想に基づく)のみを基準とする日本の「知識人」たちで、例えば、今なお大学教授や評論家などに影響をもつ小室直樹(1932-2010)は、キリスト教という一神教がなければ、人権も民主主義も憲法も成立しないと教説し、疑似的な一神教である「天皇教」を否定した戦後を批判します。三島由紀夫の「天皇陛下万歳」と市ヶ谷自衛隊駐屯地での割腹自殺を高く評価します。
     小室のように、強い宗教である一神教を人類文明の礎とする思想は、サルトルやポンティーの訳者・解説者である哲学者で、私の師でもあった竹内芳郎(1924-2016)までも同じです。キリスト教のもつ超越性原理は、世俗のすべての価値を相対化するとして評価し、親近感を持っていました。ただし小室とは異なり、世俗の集団同調主義の別名でしかない「天皇教」については厳しく批判していました。
     わたしは、日本の知識人たちの論理が的外れになるのは、彼らの知が、読書と情報知に依拠していて、なまの体験に乏しく、赤裸々な人間存在のありようを知らないからと見ています。戦前も二大哲学者といわれた西田幾多郎、田辺元をはじめ大多数の大学人は、天皇教を支持して戦争協力をしました。
     人間存在の真実を知るには、書物によるのではなく、体験が必要です。何よりもまず幼子と関わることです。幼子と共に見、聞き、感じ、知ること。幼子や子どもと遊び、共によろこび、かなしみ、怖がり、怒ること。それがあって初めて、人間と社会についての思想は意味と価値を持つようになります。何事であれ、体験学習・体験思考をしないと、思想は単なる言語ゲームに陥ってしまいます。権威主義になり、特定観念に呪縛されて自由を失うのです。「学者とは学問をすることで馬鹿になった人種のことだ」では哀れです。

    人権思想の淵源は一神教ではなく、幼子の存在であり、宗教とは無関係ですが、それについては『白樺教育館ホームページ』【174. 人権思想の淵源は、宗教(一神教)や哲学(理論体系の哲学及び人生哲学)ではなく、幼子の存在です。】をご覧ください。なお、177.には英語版もあります。


     

     

     一神教は、すべてを超越した「神」という概念をつくり、私は「神」と向きあい対話することで、世俗の価値意識を超えて思考できるとします。それにより自己省察も可能となり、真理を得るというわけですが、確かに自己を相対化することは、極めて重要です。

     伊藤博文は、藩金を横領して英国に渡りましたが、英国の強さ=卓越性に仰天し、それは、キリスト教という強い一神教があるゆえと知ります。帰国すると、比喩的な意味の天皇現御神(あきつきかみ)という思想を変形させて、天皇を文字通りの生きている神=現人神(あらひとがみ)とする疑似一神教をつくりました。師の吉田松陰に深く影響された「禁じ手」の国家宗教です。
     天皇教は、現実政治の中で凄い力をもちました。人間も世界も超越した神という概念ではなく、日本国の主権者であり、軍隊の統帥権をもつ一人の男性が絶対的な存在=「神」となるのですから、人々は神である天皇と向きあい対話することになりますが、それでは、世俗の価値を超えて思考するどころか、世俗の価値(天皇の意思=政府が要請する考え方)をそのまま絶対のものとし、従うことになります。自分と国家は一つになり、忠の精神(上下倫理)こそ最高の道徳であると信じる精神がつくられたのです。忠臣蔵、忠犬ハチ公など「忠」は日本独自の優れた倫理とされました。
     
     話を戻しますが、世俗の価値意識を超えた思考は、超越神への信仰がないとできないかと言えば、それは真っ赤なウソです。そもそも、紀元前の実存思想は、超越神を持ちません。
     私たちの意識は誰であれ二重化していて、私の言動をもう一人の私が見ています。私という自我を吟味する私の意識がありますから、そこで自問自答ができるのです。そのためには、意識を自由に羽ばたかせることが条件ですから、空を見るなど視線を遠くにする習慣が必要です。ソクラテスを生んだエーゲ海文明も、ブッダを生んだネパール・インド文明も共にアーリア人と現地人の混血ですが、アーリア人たちは青空を神にしたと言われます。青空、白雲、星空を眺める習慣をもつと、自分で自分に聞いてみる、という作用がよく働くようになります。自己相対化は、一神教を信じる事とは関係がありません。

     21世紀に求められるのは、唯一神への信仰という一神教やその亜流の西欧思想ではなく、古代の実存思想に学ぶことです(中世日本の親鸞や20世紀フランスのサルトルの思想とも重なります)。それを現代に活かす「恋知」(れんち)という発想や態度が未来を開くキーになるはずです。人間みなの対等性と自由に基づく寛容で楽しい社会をつくるには、共和制へのスムースな移行が必要、わたしはそう確信しています。集団同調主義ではなくドライな強権でもない、水の国=日本にふさわしいのは、柔らかくしなやかで開放的、芯の強い共和政治です。

    恋知」とはフィロソフィーの直訳語ですが、恋知第2章「恋知とは何か」その他はネットで見ることができます。

     

     

    2019年 2月 21日   武田康弘


    (撮影2018年5月66歳)

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    人類思想の三分類と恋知
     「儒教・儒学」、「ソクラテス・ブッダ・老子の実存思想」、
            「キリスト教・イスラム教などの一神教」 と 「恋知」

     わたしは、神は唯一なり、神は実在する、神の声、神に従う、などという一神教は、嫌いというより、困った思想であると思っています。
    その絶対神=超越神を真似て「疑似一神教」(天皇現人神)をつくった伊藤博文らの明治維新の過激な人たちの思想は、愚かで危険だと見ています。少なくとも近代社会の常識から見れば、異様な思想であることは明白です。

     こういう異様な心=何かに憑りつかれた精神に陥ることのないように注意し、生き生きと自由で健康な精神=自己判断能力を育てようとするのが、現代の教育の基本的な使命であることは間違いありません。

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     では、現代にまで影響を与えている人類の三つの思想について概観してみましょう。

     

     歴史的に一番古いのは、紀元前6世紀に現れた孔子です、それは儒学となり、その流れは、朱子学や陽明学を生みました。陽明学の実践・行動重視の考え方は、+にも-にも働き、最近では盾の会をつくり市ヶ谷自衛隊駐屯地で割腹自殺した三島由紀夫を支えました。

     元々、孔子は、当時すでに崩れていた「君主政治」を理想と考えていました。君主政治に戻すべきと考えていた孔子は、君子に仕える者の道徳、生き方・考え方をつくりました。『論語』として知られていますが、それは、含蓄に富む言葉や普遍的なよきものに通じる思想も持ちますが、全体としては、上位者に仕える人間の生き方を示しています。日本の明治維新の尊王思想(天皇現人神)を支えた水戸学も儒学です。上下意識の厳しい封建道徳であり、《人間存在の対等性に基づき互いの自由を認め合う》という民主主義の社会には適合しません。

     しかし、いまなお力をもつのは、会社や学校や運動部などで民主化が遅れていて、古い全体主義的な組織運営が根強く残っているからです。日本文化が、「形と序列」の二文字で収まるのも、儒教・儒学の深い負の遺産と言えましょう。

     

     次には、孔子に遅れること80年、世界の三か所で誕生したのが「実存思想」です。紀元前5世紀にエーゲ海沿岸のアテネに生まれたソクラテス(BC469年)と、インド(ネパール)に生まれたブッダ=釈迦(BC463年中村元説)と、中国にうまれた老子(BC320年頃)。ここで詳しく説明はできませんが、異なる点はあっても、みな、人はどのように生きるか、を国家とか全体の都合で考えるのではなく、一人ひとりの心の真実から立ち上げた思想として重なります。
     絶対とか厳禁という考え方とは無縁で、誰かに従うのではなく、各自の思考力と対話により優れた考えを導くというディアレクティケー(問答法)により普遍的(自他ともに深く納得できる)考え方を目がけたのがソクラテスです。

     人はみな唯我独尊として生まれてきたというブッダ(釈迦)は、すべては縁により起こるという真実を明らかにし、究極の拠り所は自分であり法則である(自帰依ー法帰依)という根本思想につき、慈悲に満ちています。
     ソクラテスの思想とブッダの思想は、親近性をもち、基本思想が重なります。それは、両者ともアーリア人と現地人との混合・混血の上に成立しているという事情によるのでしょう。生年も数年しか違いません。両者の死後、紀元前3世紀にはギリシャ王たちと仏教者とは盛んに交流をもち多くのギリシャ王が仏教に帰依していますし、内容豊かな対話も残されています。超越的な「神」という概念を持たず、人間の思索の力を信頼して対話をする両者は、知恵の協奏といえます。

     中国の老子は、無為自然をkeywordに、差別や権力的な人間関係を大元から断ち、女性原理につくことで平和をつくるエコロジーとフェミニズムの深い思想を展開しました。これら三者は、みな、異なる一人ひとりの人間性を深く肯定し愛する思想で、もっとも根源的な【実存思想】と言えます。

     


     最後は、唯一神への帰依を説くキリスト(神の子)であり、その弟分として生まれたムハンマド(神の教えを伝える者)です。この二つの世界的な兄弟宗教は、ユダヤ民族の国家宗教である「ユダヤ教」から生まれたものです。ユダヤ教の宗教改革として生まれたのがキリスト教であり、その弟分がイスラム教です。この二者の近親憎悪の激しさは、戦い(殺戮・略奪)の歴史=十字軍の長く凄まじい宗教戦争として有名です。

     言うまでもなく、絶対神(創造神)に従い信仰するという思想と、上記の実存思想とは、根本的に異なる考え方です。

     キリスト教会は、ギリシャ哲学を換骨奪胎することで膨大な神学体系をつくりました。スコラ哲学と呼ばれますが、その改革として出てきたのが17世紀のデカルトに始まる近代西ヨーロッパ哲学です。西欧の学問を明治に直輸入した日本では、哲学といえば、この思想を指しますが、それでは一面的な思想の見方になります。神学の改革としての哲学と言えども、デカルトは代表作の「方法序説」の二部では、神の存在証明を書いているのです。

     近代西欧哲学は、本質的にキリスト教の世俗化としての理論体系ですので、スコラ哲学がめがけたもの=人間存在と世界の全体をトータルに解明し叙述しようとする意思を受け継いでいます。そのために、理論は複雑で難解となる宿命をもち、言葉の構築物としての論理の体系となり、カントからへーゲルに至るドイツ観念論でピークに達しました。人間存在と世界の全体をトータルに解明し叙述するというのは、宗教の宣託のようなものでない限り出来えない不可能事ですが、その出来えないことの努力を続けたのが西欧の「近代哲学」だとも言えます。その歴史は、20世紀最大の哲学者といわれたハイデガーが1966年に行ったシュピーゲル対話で幕を閉じたと言えるでしょう。
     シュピーゲル対話では、ハイデガーは、哲学にはもはや何も期待できないと言い、従来の哲学の地位はサイバネティクスが占め、諸科学が哲学の替わりをする、と主張しました。哲学は無力だと繰り返し述べ、われわれ人類にできることは、何百年後かに現れる「神」のようなものを待つだけだ、と言いましたが、これは、ハイデガーの存在論(人間と世界のトータルな解明)の挫折であり、「哲学の敗北宣言」と言えます。
    晩年、西欧哲学から離れた彼は、日本の親鸞思想に心酔しました。

     17世紀に始まり20世紀に終わったのが西欧近代哲学と言えますが、この西欧哲学(キリスト教という一神教がバックボーンにある)は、ルネサンスの運動で明らかなように、古代エーゲ海文明への憧れに端を発していて、ギリシャのフィロソフィー(恋知)を換骨奪胎してキリスト教神学をつくり、その上に乗ったものでしたから、相当な無理の上に建てられた思想(形而上学)の建造物であったわけです。

     

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     わたしの提唱する《恋知》とは、一人ひとりの感じ・想い・考える営みを活発にすることで、意味充実の生を目がけるものです。誰の心にも先天的に備わっている善美へ憧れ心と真実を知りたいという心を不動の座標軸とする生き方ですので、二番目の実存思想と重なります。ソクラテスやブッダや老子に学ぶ温故知新の営みで、日々を支え、未来へ向けて開かれた考え方-生き方の原理です。

     わが国の宗教である仏教と「恋知」は思想の土台は同じなのですが、ただし、色合いはかなり異なります。
    「恋知」という発想は、現実的で能動性が強く、開放的で明るいのです。子どものよさに学ぼうとする発想がいつも元にあります。いわゆるネオテニーという人間の特性の顕在化です。

     また、とても重要な違いは、性に対する考え方です。「恋知」は、ソクラテスの思想(「饗宴」「パイドロス」)と同じで、恋愛を人間の人間的な生の象徴として捉え、よきものとして肯定します。ソクラテスは、エロ―スという性愛を含む恋愛への情熱を、善美や真実を求める動力源と考えますが、「恋知」も同じく、人間の自然性を尊び、真剣や真面目も、堅苦しいものとしてではなく、それらを、恋愛における態度と同じものとします。更には、老子の思想は、女性原理であり、女性の悦びのために性の解放を謳います。

     次に「恋知」と公共性について簡潔に記します。

     恋知という実存思想は、公共哲学を支える「主観性の知」として提示されている通り(金泰昌と武田康弘の哲学往復書簡)、公共性をもち社会に向けて開かれていて、特定の階層による政治や国家主義に対して、明確に否と言い、市民の市民のための市民による自治政治=民主性・民主政・民主制につきます。平和への希求を強くもち、直接攻撃を受けたのではない限りは、あらゆる武器使用と戦争に反対します。

     人間の生まれによる上下意識も元から排し、分かち合いという倫理につきますが、これらは、ブッダの思想と重なります。知識や履歴や財産の【所有】の多さに価値を置かず、【存在】そのもののよさ=魅力に価値を見ます。他との比較・競争主義を排し、納得を原理として、誰もがそれぞれの輝き=魅力を発揮できるような思想の態度です。その実現のために、格差を生まない法と制度に基づく自由主義経済を求めます。


    わたしは、もちろん、宗教者の考え方ー生き方を否定はしませんが、こどもたちに示すことができるのは、「実存思想」しかないと思っています。一神教を信じることを教えたり、上位者に仕える道徳を守れ、と教えることが「禁じ手」であるのは自明でしょう。わたしの40年以上にわたる教育実践は、上記の実存思想に基づいたもので、それは、心身全体による豊かな愛情と一体です。

    1979年~天体観望会
                       
    2015年第40回式根島キャンプダイビング(63歳)


    2008年参議院での討論(55歳)
                     
    2014年 白樺教育館・新館落成10周年

     恋知 第2章では、一神教ではなく、世俗主義でもない「健康な生き方」を提示しました。

     わたしは、恋知2章で、人間の人間としての生き方・考え方の基本を書きました。その土台の提示と共にキリスト教の影響下にある従来の西ヨーロッパ哲学や社会思想への見方、学習の仕方や生活仕方などについての反省と新たな考え方を記しました。

     それは、宗教とは異なる「恋知」という広義のフィロソフィーですが、それなくしては、囚われなく自信をもって思想に関連する領域(宗教であれ主義であれ)を検討することはできません。

     とりわけキリスト教の強い影響下にある欧米の学問を直輸入した明治以降の日本では、学問に携わる人は、知らぬ間にキリスト教シンパに陥りがちですので、人間や社会の見方には大きな偏りが生じます。その歪みを正すには、一神教(唯一神)によらずに人間の人間的な生の土台が説得力をもって明瞭・分明にされる必要があります。

     恋知という広義のフィロソフィーは、そのための基盤です。外部に超越的な「真理」を置かず、自分の心身と頭で感じ・想い・考える営みを座標軸とする生き方以外はないことの明晰な自覚は、何よりも大切です。その考え方に基づき日々を生きる「内発的な生」なしには、何事でも本質レベルにおける前進は不可能です。従来の思想の批判・検討もできません。

     恋知という発想=思想は、理論体系ではないですし、宗教性もありません。よき生の原理を踏まえて日々を生きること(実践)で、さまざまな領域でよきものを花咲かせる、という効果をもたらす態度です。知らぬ間に深く効きます。強い宗教(キリスト教や日本の天皇教など)や強固なイデオロギー(マルクス主義など)を必要としない自由でしなやかな生を可能とする原理、それが『恋知』です。

     紀元前5世紀に誕生したソクラテス(アテネ)とブッダ(ネパール・インド)、老子(中国)、また、中世の親鸞(日本)や20世紀のサルトル(フランス)らの実存思想とも重なる人間性を豊かに開花させる思想です。



    孫のなな&れんの運動会で。
     おんぶしているには、
     わたしの知らない女の子(笑)。

    2018年10月6日(66歳)武田康弘

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