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  • 183. 『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』へと飛躍したのはなぜ?

     最近、複数の方から白樺文学館設立に関する問い合わせがありました。いずれも我孫子と白樺派については相応の知識をお持ちの方々です。
    その彼らにして文学館設立のいきさつをほとんどご存じないことに驚きでした。

     が、振り返ってみれば無理もありません。
    文学館開館が2001年、すでにあれから17年が経っているのですから人々の記憶から事実関係が抜け落ちていくのもうなずけます。

     というわけで、当時のいきさつについての記事を『白樺文学館創成記』からここに再掲載します。


    八木書店

    1999年2月20日志賀直哉文学館プロジェクトスタート。
    (写真は神田の八木書店にて.黄色のジャンパーが佐野力さん.)

    哲研

    その晩.哲研(哲学研究会)で志賀直哉文学館構想を発表.(中央:武田、後ろに佐野さんおよび当時の我孫子市長・福嶋浩彦さんが見える.)ソクラテス教室にて.

    用地取得

    1999年3月26日、皆川豊さん(左)から用地取得.武田(中央)の右は不動産仲介業の栗原年男さん.武田宅にて.

    旧志賀直哉邸 奈良

    1999年5月30日、まだ”志賀直哉文学館”構想であった頃。奈良の志賀直哉・旧居にて.
    佐野さん(左)と武田(右)

    文学館ロゴ

    【白樺文学館】ロゴ、白樺派の代表的な活動であった雑誌『白樺』の表紙書体を利用.

    ● 誕生秘話 ●

    『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』へ

     ちょうど10年前の1999年2月に『志賀直哉文学館』の創設が始まり、それから丸2年、2001年1月に、それが『白樺文学館』として落成を迎えるまでの間、および開館後の数ヶ月間は、わたしの生涯の中でも最も多忙な時期でした。

     今年2009年4月1日、その『白樺文学館』は、オーナーで二代目館長である佐野力さんから我孫子市に寄贈され、市が運営することになりました。初代館長であるわたしは、この機会に、文学館創成の過程を振り返り、検証し、その意味を明確にする必要と責任があると思いますので、『白樺文学館創成ー誕生秘話』をシリーズとして順次発表していくことにします。

     

      1999年2月6日(土)、前日に「日本オラクル」の株式店頭公開を果たし、巨額の資金を手にした佐野さんは、わたしの家を訪れ、「武田先生、事情が変わりました。お金があるのです。なにか面白いことを一緒にやりませんか。志賀直哉の文学館をつくるのはどうでしょう。武田塾の教育を広めるにも役立つと思うし。つくるにあたっては、理念も中身もすべて先生にお任せしたい。」と言いました。わたしは笑いながら即答しました。「いいですね。やりましょう。」

     わたしは、馴染みの神田神保町(神田生まれのわたしは、神保町の大型書店や古書街でいつも遊んでいた)にある「八木書店」に依頼して資料の収集をはじめ、土地を購入し、理念をつくり、建物のコンセプトを考え、定期的に志賀直哉の勉強会を開き、奈良の志賀直哉邸を佐野さんと共に訪ね、・・・・私塾で子どもたちの勉強をみながら、そんな多忙な日々を送って7ヶ月が経過したある日、「週刊朝日」(99年9月10日号)に載った佐野さんの発言で『志賀直哉文学館』の構想を知った志賀直吉さん(注1)から、「父の遺言により、記念館の類をつくることは一切お断りします」という手紙が日本オラクル(株)に届いたのです。

      9月なのに真夏のように暑い土曜日、佐野さんは困惑した様子でわたしの主宰する私塾『ソクラテス教室』を訪れました。「武田先生、どうしましょう・・・」と言うので、わたしは即答しました。「佐野さん、何の問題もありませんよ。『白樺文学館』とすればいいのです。志賀は柳に誘われて我孫子に来たのですが、かれは同人誌「白樺」を代表する文学者であり、思想・文学・美術・音楽・教育等の白樺文化運動の一翼を担った人なのですから、ひろく白樺派を顕彰する文学館とし、その中に志賀直哉に関する資料を展示すればOKです。」と。佐野さんは安堵し、その場で『志賀直哉文学館』は、『白樺文学館』になったのです。

      私は内心、「よかった」と思いました。というのは、私小説作家である志賀直哉ひとりを顕彰する文学館ではどうしても趣味性が強くなり、未来を開き、公共性をつくることが難しいからです。 白樺派は、白樺山脈といわれるほどの大きな影響を各分野に与えた日本最大の文化運動ですが、活動があまりに多岐にわたった為、その真価・核心を思想的に明らかにすることは未だに不十分です。そのため、白樺派を顕彰する文学館(注2)をつくるとなれば、困難の度は飛躍的に高まりますが、その価値もまたはるかに大きなものとなります。「これは、やりがいがある仕事になったな。」わたしは、そう思ったのです。

      しかし、これが後に佐野さんとわたしとの別れを生む深因ともなりました。志賀直哉という一人の作家に惹かれていた佐野さんは〈私性―趣味性〉に傾き、白樺派の精神を現代に活かそうと発想するわたしは〈公共性―未来性〉に傾くのです。『志賀直哉文学館』から、白樺派という日本最大の文芸と思想の運動を顕彰する『白樺文学館』とした時点で、佐野さんの最初の「想い」を貫くことは出来なくなったのです。誰が計ったのでもなく、これは「運命」としか言いようがありません。

    (注1) 志賀直吉さんは、志賀直哉の次男(長男は生後すぐに亡くなったので実際上の長男)で、岩波書店の専務を勤め、定年退職)
    (注2) ほんとうは、名称は『白樺文芸館』の方がよいのですが、『志賀 直哉文学館』としてスタートしたため、『白樺文学館』という名称になりました。

    2018年2月19日修正
    2009年 4月16日
      武田康弘

     

     いかがでしたでしょうか。
    白樺文学館誕生秘話まだまだたくさんあります。
    以下をご覧ください。

    白樺文学館創成記


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