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白樺教育館 教育館だより 目次

 
 
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126. 本邦初討論
   「ハーバード 白熱教室 Justice
          マイケル・サンデル教授」を巡って

 今年(2010年)4月4日からNHKで12回にわたって、マイケル・サンデル教授による「ハーバード白熱教室 Justice」が放映され、大変話題になりました。番組の中でコメント補足するのは公共哲学ML(メーリングリスト)も主催する千葉大学の小林正弥教授(政治哲学)でした。
 この公共哲学ML内で「ハーバード白熱教室 Justice」についてかなり激しい議論が行われました。山脇直司さん(東大大学院哲学教授)武田康弘、および小林正弥さん(千葉大学政治哲学教授)と武田康弘との討論です。
大変興味深いのでご紹介することにします。

  「権威に頼らず、自分の頭で考える。」これは白樺派の本質のひとつですが、しっかりと受け継ぐコトが大事。『ハーバード』というブランドに惑わされてはなりません!
この討論、放映初日にはじまりましたので、当然ながら、本邦初討論、のはずです(笑)。
 この番組を見、下記討論を読まれてどのように感じられましたでしょうか。ご意見拝聴したいところです。

 なお、この後、数回のメールのやり取り後に、タケセンは公共哲学MLから突然追放(解除)されてしまいました。批判的討論を認めないのが公共哲学ML(公的資金で運営)の方針とは、ただ驚くほかありません。
詳しくは、以下を参照ください。

小林正弥メーリングリストの悲喜劇?(武田)ー税金での運用なので憲法違反です(荒井)


公共哲学MLから 2010年4月4日‐7日

皆さま
すでにこのMLでお知らせがあったかと思いますし、twitterでも話題を呼んでいますが、今日の午後6時からNHK教育TVで毎週日曜日にハーバード大学のサンデル教授の講義が、小林正弥さんの解説付きで 放映されます。
彼は、現代アメリカにおける公共哲学の大論客で、殺人に正義があるかなど刺激的な内容や、日本と違う議論文化の様子が生き生きと描き出されるようなので是非ご覧ください。
山脇直司
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山脇直司さん、番組の紹介ありがとうございます。小林正弥さん、ご苦労様でした。
以下は、私の意見です。
議論文化、は「白樺教育館」ではごく日常的なことで当然なのですが、一般の「日本の学校教育」の現場にはありません。その意味ではさすがにアメリカです。大学という学校教育の場で議論授業が行われているのには好感を持ちました。
ただし、サンデル教授の議論の方法は、一般のアメリカ人と比べれば哲学的ですが、わたし(白樺教育館)の基準からすれば、ディベートに留まっていると感じました。
ここで彼は、遭難船の小船における殺人の例で道徳を論じ、それを社会全体のありようを論じる場(ベンサムの社会思想)にあてはめて考えますが、これは次元の相違を無視した思考・議論です。
遭難船の例で「3人が生き延びるためにひとりを殺した」ことが道徳的か否かを問うていましたが、ここでの実存レベルにおける問いと、どのような思想がよい社会を生むかという問いとは同一次元で語ることができません。
この例で言えば、わたしの見方では、極限状態の中で人は弱いものから順に死んでいきますから、その死者の肉を食糧にすることは許されますが、意図して殺すことは許されないのです。しかし、そのことと社会的次元における公平性・公正性を導く思想とは結びつきません。それは、次元の違う話であり、同一平面(次元)で考えることができないのです。
このような想定(次元の混同)をして授業を行うことは、いたずらに思想を複雑化する道でしかなく、確かで明晰な思想を生みだす方法とは言えないでしょう。
武田康弘
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武田さん、さっき帰ってビデオをみました。
それで、私なりにコメントします。

「わたしの見方では、極限状態の中で人は弱いものから順に死んでいきますから、その死者の肉を食糧にすることは許されますが、意図して殺すことは許されないのです。」
→これは、私も同意見です。サンデルも同意見でしょう。彼の主眼はベンサム批判にあるのですから。
「しかし、そのことと社会的次元における公平性・公正性を導く思想とは結びつきません。それは、次元の違う話であり、同一平面(次元)で考えることができないのです。
このような想定(次元の混同)をして授業を行うことは、いたずらに思想を複雑化する道でしかなく、確かで明晰な思想を生みだす方法とは言えないでしょう。」
→彼の語り口は、多元性を重んじるアメリカ的な哲学の授業の王道だと思います。民主主義国家で、多くの考えをもつ学生が参加する哲学の授業は、まず違う重要な意見を尊重し、それを内在的に理解したうえで、批判し、自説を最後に述べるという形が王道であるので、武田さんがそれをいたずらな複雑化とみなすのは、いささか筋違いだと私は思います。
追伸:
皆さん
サンデルの講義を聞いて武田泰淳の『ひかりごけ』を想い出しました。
これは実話です。http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/hikarigoke.htm をご覧ください。
先ほど、武田康弘さんの意見に賛同しましたが、屍を食べることに反対という立場もありうると思います。したがって、サンデルも屍を食べることは許されると考えるだろうという私の憶測は撤回します。
山脇直司
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山脇さん

まず、アメリカは他民族国家ですから、具体レベルの政策はより多面的に柔軟に行う必要があり、それを可能にするには、原理はできるだけ明晰かつシンプルにする必要がある、というのがわたしの基本の考えです。

「民主主義国家で、多くの考えをもつ学生が参加する哲学の授業は、まず違う重要な意見を尊重し、それを内在的に理解したうえで、批判し、自説を最後に述べるという形が王道」(山脇) には、なにも齟齬はありません。わたしの授業もそれを徹底しています。わたしの問題指摘は、その話ではなく、次元を混同させる問題設定をすると真に力のある考えをつくることを阻害するというものです。
武田
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武田さん

昨日のサンデルの講義がどのようにtwitterで話されているかを検索してみました。以下をチェックしてみてください。下のもっと見るをクリックすれば、相当の数にのぼります。
http://search.biglobe.ne.jp/twitter/index.html?q=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB

このような形での広がりは無論、思索の深さを欠くという点で(大いに)問題がありますが、波及力はブログの比ではありません。武田さんもtwitterを始められたらどうでしょうか。

山脇直司
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山脇さん

ざっと見ましたが、わたしの思考は、twitterとは無縁です。討論的対話=生きた話し言葉によるやりとりが何よりです。活字で討論をする場合は、相手が一人でないと有用な発話行為になりません。わたしは根っから能動的・主体的な哲学をする人間のようです。
なお、わたしの見解をブログに出しまたが、それを読まれた内田卓志さんがメールをくれましたので、以下にコピーします。いかがでしょうか?
ハーバード大学・サンデル教授の討論的授業と白樺教育館
2010-04-05 15:20:18 | 教育

昨晩の教育テレビで、高名な公共哲学の学者であるサンデル教授のハーバード大学における討論的授業(ただし大人数ですが)を放映していました。

討論・対話式授業は、『白樺教育館』では34年前から続けていますが、ハーバード大学よりも優れている点は、少人数で行っていますので、ディベート的な要素を排除して、純粋に哲学的対話=全員参加による意味論・本質論の探求ができるところです。昨年11月に日経(日本経済新聞)にも紹介された通りです。

以下は、昨晩の番組を見ての私の意見です。この番組で解説を務めていた千葉大学の小林正弥さんの主催するML(pub-citizen@mlc.nifty.com)への投稿に少し手を加えました。


議論文化、は「白樺教育館」ではごく日常的なことで当然なのですが、一般の日本の学校教育にはありません。その意味ではさすがにアメリカです。大学という学校教育の場で議論授業が行われているのにはとても好感を持ちました。

ただし、サンデル教授の議論の方法は、一般のアメリカ人と比べれば哲学的ですが、わたし(白樺教育館)の基準からすれば、ディベート的要素が強いと思います。

ここで彼は、遭難船の小船における殺人の例で道徳を論じ、それを社会全体のありようを論じる場(ベンサムの社会思想)にあてはめて考えますが、これは次元の相違を無視した思考・議論と言わざるを得ません。こういう想定はディベート的であり、思考を混乱させます。

遭難船の例で「3人が生き延びるためにひとりを殺した」ことが道徳的か否かを問うていましたが、ここでの実存レベルにおける問いと、どのような思想がよい社会を生むかという問いとは、ほんらい同一次元で語ることができません。

この例で言えば、わたしの見方では、極限状態の中で人は弱いものから順に死んでいきますから、その死者の肉を食糧にするところまでは許されますが、意図して殺すのは許されないのです。しかし、その問題と社会的次元における公平性・公正性を導く思想がどのようなものかを考えることは直接には結びつきません。それは、次元の違う話であり、同一平面(次元)で考えることができません。

このような想定(次元の混同)をして討論授業を行うことは、いたずらに思想を複雑化する道でしかなく、確かで明晰な思想を生みだす方法とは言えないでしょう。次元の混同は、「受験的=平面的=マニュアル的な知」の大変に困った問題ですが、日本のみならず、世界的にも克服しなければならない現代知に共通する課題なのかもしれません。

ともあれ、対話・議論を基盤とするのは、幼い子どもからの知的・心的教育にとっての柱なのですから、本気でこれを進める努力をしなければいけません。白樺教育館・ソクラテス教室の営みは先駆的なものですが、ぜひ、多くの教育機関が真似をしてほしいと思います。


武田康弘
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コメント

マイケル・サンデル氏の討論について (内田卓志)
2010-04-05 23:46:18

武田先生

マイケル・サンデル氏の討論について

サンデルは、テイラーやマッキンタイアと並ぶ代表的コミニタリアンですね。
私も以前ロールズを勉強している時、サンデルを少し勉強しました。ノージックとサンデルが強力にロールズを批判したと思います。サンデルは、ロールズやセンと共に尊敬すべき学者です。
私は、そのテレビを見ていませんので正確には分かりませんが武田先生が書かれた文脈からすると、何でサンデルほどの学者が意味のない究極論を持ち出し討論させるのか私には分かりません。このようなことはたしかに起こりえることとは思いますし、法的には緊急避難となるかもしれません。
「人は人の命を奪うことは出来ない。」これを原理と考えればこのような議論は道徳的にも無意味になると思います。
ただ、アメリカ的な文脈?で「正義のためには人の命も奪うことはやむを得ない」という立場に立つと、道徳論として議論されることになるのでしょう。
日本でも死刑制度があります(脳死・安楽死の問題もあるでしょう)ので議論の余地はあるのかもしれませんね。
それを先生は実存レベルの問題とよき社会の創造の問題との次元の違いと言っておられます。
「人は人の命を奪うことは出来ない」ということは、原理的に完全解決されていない問題なので道徳論(価値)のテーマとなるでしょうが、道徳論を討議するのであればもっと普通の生活の場で起きうるテーマにより討議した方が生産的と思えます。
ただ私見ですが、「人は人の命を奪うことは出来ない」ということを私は、原理と考えたいと思っています。それ故、先生と同様意図して殺すのは許されないと思います。それは戦争でも死刑でもそう思います。このように倫理的に1か0かの究極論を問題にするのは、ディベートの典型のように思えます。もっと普通の生活の場で正義や公正や公平を考えるテーマがあるでしょうし、その方が社会生活上も社会思想上(公共哲学上)でも有意義と思いますが?
先生の「このような想定(次元の混同)をして討論授業を行うことは、いたずらに思想を複雑化する道でしかなく、確かで明晰な思想を生みだす方法とは言えないでしょう。」というご意見に賛成です。
このような問いを立てる意味が正にあるか?ないか?を討議するなら価値があるかもしれません。
私の論法に錯誤がありましたらご指摘下さい。
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よいコメント、感謝です。 (タケセン)
2010-04-05 23:54:30

丁寧なコメントを頂き、とても感謝です。

「このように倫理的に1か0かの究極論を問題にするのは、ディベートの典型のように思えます。もっと普通の生活の場で正義や公正や公平を考えるテーマがあるでしょうし、その方が社会生活上も社会思想上(公共哲学上)でも有意義と思いますが?
先生の「このような想定(次元の混同)をして討論授業を行うことは、いたずらに思想を複雑化する道でしかなく、確かで明晰な思想を生みだす方法とは言えないでしょう。」というご意見に賛成です。」

は、まったくその通りと強く思います。普通の生活の場で正義や公正や公平を考えなくてはいけないのです。

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武田さん

返信有難うございました。

次元の違いという言葉は確かに便利な言葉ですね。

私は、サンデル講義のjusticeという言葉は日本語の正義というより、個人個人の正しい行為という場合の何が正しいのか? というまさに「実存的な問い」だと受け取っており、その点で武田さんと私の思考回路は次元が違うようです。ですから、この話は打ち切りましょう。

なお、内田さんは個人的に知っていますが、このMLに加わってない方なので、コメントは差し控えたいと思います。

山脇直司
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山脇さん

「便利な言葉」!?ではなく、これは、思想の話をするときには、何よりも大事な「踏まえるべき点」なのです。認識論の要であり、もしも、どの次元の話であるか?をつかみ損ねれば、すべては砂上の楼閣になります。現実感覚があるか否か?というのも、この次元の相違を弁えているか否かによるのです。

武田
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武田さん
便利な言葉はアイロニカルな意味で使いました。
「踏まえるべき点」に関してはもっともですが、少なくとも、「ソクラテス的な意味で正義を問うた」(と私は理解した)サンデルが思考の次元を取り違えていると独断する武田さんのとらえ方は、間違っていると私は思いますよ。

山脇直司
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山脇さん
わたしは、サンデル氏が道徳的(正義)か否か?を問うていることを問題にしているのではなく、それを考えることと社会問題を論ずることは直接には結びつかないと言っているのです。思考の訓練として極限状態(遭難船)の想定をしてもよいのですが、ただし、そこから社会思想を考えてはダメなのです。
山脇さん、なぜ、そのわたしの判断を判断ではなく「独断」であると判断(「独断」・笑)されるのでしょうか?
内田さんも言うとおり、「このように倫理的に1か0かの究極論を問題にするのは、ディベートの典型のように思えます。もっと普通の生活の場で正義や公正や公平を考えるテーマがあるでしょうし、その方が社会生活上も社会思想上(公共哲学上)でも有意義」なのです。
武田
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武田さん

簡単にお応えしますと、道徳的正義と社会問題を論じることは別次元だというあなたの応えは、「一つの意見(ドクサ)」にすぎません。
その連続性を強調する方々(サンデルや私を含め)もたくさんいます。

なお、あの講義の形をディベートとしか受け取れないのは、一度も欧米文化で哲学的議論をしたことがない人たちの謬見だと私は思います。

山脇直司
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山脇さん

わたしの見解が「一つの意見(ドクサ)にすぎない、」のなら、その連続性を強調する方々(サンデルや山脇さん)の見解も「一つの意見(ドクサ)にすぎない、」のですよ。当然のことですが。

「一度も欧米文化で哲学的議論をしたことがない人たちの謬見」(山脇)というのは、驚くべき発言ですね。欧米での哲学的議論を基準にしてさまざまな意見・見解の妥当性を判定するというのは、明らかに西洋中心主義でしかありません。

武田
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武田さん

前者に関して言えば、異議ありません

ただし、後者に関して言えば、全くとんちかんな見方で、100パーセント間違っています。私は西洋中心主義者ではありません。
議論文化に接してたくましく鍛えあげられた上で、西洋中心主義を批判するのでなければ、それは夜郎時代的な犬の遠吠えにしかならず、国際競争力ゼロで、日本は沈没してしまいます。
特に受験病で、討議能力が著しく劣る日本の学生は何とか鍛えなければなりません。討議力(ディベート能力ではなく、議論を通して真理を粘り強く的確に追究する能力)という点で、東大は三流と言ってよいでしょう。またそのために、英語力は不可欠です!

なお、このMLは自慢話や自画自賛する人には向いていません。
以前から、武田さんや、それ以上に、官僚的スタイルでお説教する荒井さんの自慢話を聞いてうんざりする人の声が私宛にたくさん聞こえてきますが、お二人をこのMLにお誘いしたのは私なので、責任をとる必要を痛感しています。(それはそうと、あれほどまでに自慢していた、税金を使って非常勤講師となられ公務員改革の実践の成果はどうなったのでしょう?)

ですから三人は、このMLではなく、別な箇所で(しかし武田さんのファンが中心となってコメントが繰り広げられる武田さんのブログではなく)、トピックを絞って議論しましょう。もっとも、私に時間的余裕があればの話ですがーー。

結論から言って、このMlは、もっと多様で大きなパブリック・イシューを議論を繰り広げる場にするべきだと思います。たとえば、主権在民を金科玉条に唱えるだけでは、世界連邦は実現しないと考える木戸さんなどが主催する世界連邦21世紀フォーラムのメンバー http://www.wfmjapan.com/aboutus/ が入ったら、このMLもずっと面白くなるように思います。

山脇直司
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山脇さん

「私は西洋中心主義者ではありません。」(山脇)
――山脇さんがそのように自称・自覚しているのでないことはもちろん存じていますが、メールでの山脇さんの発話=「一度も欧米文化で哲学的議論をしたことがない人たちの謬見」は、西洋中心主義と言わざるを得ないのではないでしょうか?
「欧米での討論で鍛えること」が討論の内容=質の高さの証明であるというのなら、ほとんどの人は落第であり、そのような環境で生きられるごく少数の人以外の発話は「夜郎時代的な犬の遠吠え」(山脇)でしかなくなります。これは恐ろしい思想で、「学的エリート」でない者の発話は価値が低いということになりますが、わたしは長年の討論の経験からそれは酷い誤謬だと確信しています。

また、東大生の問題の核心は英語力ではなく、話すべき内容、主張すべき内容が希薄なことにあるのです(ひとり東大生の問題ではありませんが)。豊かで濃い内容があれば、通訳を通してでも有用な発話はできます。議論好きで有名なノーベル賞の益川敏英さんの例を出すまでもなく。

「武田さんや、それ以上に、官僚的スタイルでお説教する荒井さんの自慢話を聞いてうんざりする人の声が私宛にたくさん聞こえてきます」(山脇)
何が自慢話なのでしょうか?わたしは、自身の経験や確信を正直に分明にお示ししているのですが。それこそがよき「討論文化」をつくるための条件であるはずです。文脈や背景や立場をしっかり説明しなければ、発話の意味は宙に浮いてしまいます。
また、このMLに加盟していて、この場では発話しない人が、たくさんの私信を山脇さん宛に送っているのが事実だとすれば、大変困ったことだと思います。『公共』(開かれていること、公明正大なこと、差別がないこと、・・)を謳うメーリングで、表では発話せず、陰でうんざりする等と発話しているのがほんとうなら、ただ絶句!するしかありませんが、山脇さんはそうした発話者に対して、いかに対応されているのでしょうか?

「税金を使って非常勤講師となられ公務員改革の実践の成果はどうなったのでしょう?」(山脇)
突然、違う話題になっていますが、とても面白い展開になっています。4カ月目くらいから皆さんが自分の言葉で驚くほど率直に語るようになり、その内容も踏み込んだものです(あまり書くとまた「自慢話」と言われますね)。

「別な箇所で(しかし武田さんのファンが中心となってコメントが繰り広げられる武田さんのブログではなく)、トピックを絞って議論しましょう。もっとも、私に時間的余裕があればの話ですがーー。」(山脇)

うーん、恐ろしく威張った発話ですね(笑)。ご自分で「議論しましょう」と誘っておき、「私に時間的余裕があればーー」こういう発話は、対等な人間関係では全くありえないのですよ。

それに、わたしのブログはウヨクも発話しているのですが??なぜ、わたしのブログをそれほどに警戒するのか?不思議です。

武田
―――――――――――――――――――――――

武田さん

――山脇さんがそのように自称・自覚しているのでないことはもちろん存じていますが、メールでの山脇さんの発話=「一度も欧米文化で哲学的議論をしたことがない人たちの謬見」は、西洋中心主義と言わざるを得ないのではないでしょうか?
→私は、サンデルの対話的な講義スタイルをディベートとして取り違えることのナイーブさを指摘しているのです。西洋中心主義はそれを内在的にとらえた上で、批判しなければ効果を持ちません。

「欧米での討論で鍛えること」が討論の内容=質の高さの証明であるというのなら、ほとんどの人は落第であり、そのような環境で生きられるごく少数の人以外の発話は「夜郎時代的な犬の遠吠え」(山脇)でしかなくなります。これは恐ろしい思想で、「学的エリート」でない者の発話は価値が低いということになりますが、わたしは長年の討論の経験からそれは酷い誤謬だと確信しています。
→これもとんちんかんなお応えです。日本に学的エリートなど存在しません。また武田さんはどれほど今の世の中が変わってきているかどうも御存じないようですね。
今の若者は、日本以外の外国語を話せる能力が絶対に必要なはずです。残念ながらご自身の体験を超歴史的に絶対化する武田さんの考えは、説得力を持ちません。

また、東大生の問題の核心は英語力ではなく、話すべき内容、主張すべき内容が希薄なことにあるのです(ひとり東大生の問題ではありませんが)。豊かで濃い内容があれば、通訳を通してでも有用な発話はできます。議論好きで有名なノーベル賞の益川敏英さんの例を出すまでもなく。
→では武田さんも通訳をつけてご自身の発言を世界に発信してください。

何が自慢話なのでしょうか?わたしは、自身の経験や確信を正直に分明にお示ししているのですが。それこそがよき「討論文化」をつくるための条件であるはずです。文脈や背景や立場をしっかり説明しなければ、発話の意味は宙に浮いてしまいます。
→別に異論はありませんが、ご自身の経験を披露するだけでは、普遍的な討論の材料にはなりません。武田さんの話に積極的に乗ってくるML参加者が少ないのはその証でしょう。

また、このMLに加盟していて、この場では発話しない人が、たくさんの私信を山脇さん宛に送っているのが事実だとすれば、大変困ったことだと思います。『公共』(開かれていること、公明正大なこと、差別がないこと、・・)を謳うメーリングで、表では発話せず、陰でうんざりする等と発話しているのがほんとうなら、ただ絶句!するしかありませんが、山脇さんはそうした発話者に対して、いかに対応されているのでしょうか?
→これは私の責任ですので、それなりに弁解してはいます。しかしML参加者が私に遠慮して発言しないというのであれば、確かに由々しい問題です。私は自己批判しなければなりません。

突然、違う話題になっていますが、とても面白い展開になっています。4カ月目くらいから皆さんが自分の言葉で驚くほど率直に語るようになり、その内容も踏み込んだものです(あまり書くとまた「自慢話」と言われますね)。
→うーーん。自慢話か? しかしこれは興味深い話なので、一冊の本にされることを期待します。

うーん、恐ろしく威張った発話ですね(笑)。ご自分で「議論しましょう」と誘っておき、「私に時間的余裕があればーー」こういう発話は、対等な人間関係では全くありえないのですよ。
→そう受け取られたのなら、反省します。ポイントは議論する場と時間の制約という問題です。

それに、わたしのブログはウヨクも発話しているのですが??なぜ、わたしのブログをそれほどに警戒するのか?不思議です。
→警戒などしていません。議論の公平性を担保する場としては、武田ファンが多すぎて、適切とは思えないということです。武田さんのブログで発言するウヨクといってもたかがしれているでしょう。

山脇直司
――――――――――――――――――――――――――

山脇さん
                                         
――山脇さんがそのように自称・自覚しているのでないことはもちろん存じていますが、メールでの山脇さんの発話=「一度も欧米文化で哲学的議論をしたことがない人たちの謬見」は、西洋中心主義と言わざるを得ないのではないでしょうか?(武田)
→私は、サンデルの対話的な講義スタイルをディベートとして取り違えることのナイーブさを指摘しているのです。西洋中心主義はそれを内在的にとらえた上で、批判しなければ効果を持ちません。(山脇)
→これはズレています。山脇さんの上記の発話は西洋中心主義と見られますよ、というのがわたしの指摘です。
またわたしは、サンデル氏の討論的授業ははじめから評価していますが、
思考の訓練として極限状態(遭難船)の想定をするのはよいとしても、それを考えることと社会制度の問題を直接に結び付けるのは不適切だ、と言っているのです。(武田)

「欧米での討論で鍛えること」が討論の内容=質の高さの証明であるというのなら、ほとんどの人は落第であり、そのような環境で生きられるごく少数の人以外の発話は「夜郎時代的な犬の遠吠え」でしかなくなります。これは恐ろしい思想で、「学的エリート」でない者の発話は価値が低いということになりますが、わたしは長年の討論の経験からそれは酷い誤謬だと確信しています。(武田)
→これもとんちんかんなお応えです。日本に学的エリートなど存在しません。また武田さんはどれほど今の世の中が変わってきているかどうも御存じないようですね。
今の若者は、日本以外の外国語を話せる能力が絶対に必要なはずです。残念ながらご自身の体験を超歴史的に絶対化する武田さんの考えは、説得力を持ちません。(山脇)
→???わたしは、山脇さんの論に従うと、そのようになってしまう、と言っているのですよ。
わたしが「世の中が変わっていることを知らない」というのも意味不明です。いつも現場の生情報満載の中で暮らしていますが、わたしは世の中の価値観にも特定勢力の価値観にも迎合はしませんが、「知らない」とはどういうことでしょうか?
わたしは、日本以外の外国語を話せる能力が不要などとは言っていません。もう一度お読みください。問題の核心は内容の豊かさ・濃さにある、という指摘です。(武田)

また、東大生の問題の核心は英語力ではなく、話すべき内容、主張すべき内容が希薄なことにあるのです(ひとり東大生の問題ではありませんが)。豊かで濃い内容があれば、通訳を通してでも有用な発話はできます。議論好きで有名なノーベル賞の益川敏英さんの例を出すまでもなく。(武田)
→では武田さんも通訳をつけてご自身の発言を世界に発信してください。(山脇)
→エールをどうも。(武田)

何が自慢話なのでしょうか?わたしは、自身の経験や確信を正直に分明にお示ししているのですが。それこそがよき「討論文化」をつくるための条件であるはずです。文脈や背景や立場をしっかり説明しなければ、発話の意味は宙に浮いてしまいます。(武田)
→別に異論はありませんが、ご自身の経験を披露するだけでは、普遍的な討論の材料にはなりません。武田さんの話に積極的に乗ってくるML参加者が少ないのはその証でしょう。(山脇)
→このMLでは、積極的に乗ってくる人は、誰のどの発話にもないですよね。また、ご参考までに、mixiのCmoonさん(大変な勉強家の方)のコメントをコピーします。(武田)
タケセンさん♪>
「自己責任論」について、簡潔に解りやすい説明ありがとうございます。
僕など漠然としていて、説得力ある言葉で語れません。けして難解な言葉と意味ではないのですが、細分化され収まるべきところに収まっておらず、いざ書こうとすると、上手く表現できないもどかしさを感じています。
そんな毎日の更新作業です。
ただ、タケセンさんのブログを読ませていただき、励まされながら、自分でできることを、”能動的”にやるしかないな……
そんな姿勢です。
ですから、タケセンさへのコメントも書けない今日この頃です。
書かれていることに、深く納得するだけで、その時自分の言葉が出てきません。
これまでいかに”能動的”な視線で世界を見つめてこなかったか、知識を詰め込むことだけを優先してきたか、考える力を養ってこなかったか、自覚する今日この頃です。
Cmoon

また、このMLに加盟していて、この場では発話しない人が、たくさんの私信を山脇さん宛に送っているのが事実だとすれば、大変困ったことだと思います。『公共』(開かれていること、公明正大なこと、差別がないこと、・・)を謳うメーリングで、表では発話せず、陰でうんざりする等と発話しているのがほんとうなら、ただ絶句!するしかありませんが、山脇さんはそうした発話者に対して、いかに対応されているのでしょうか?(武田)
→これは私の責任ですので、それなりに弁解してはいます。しかしML参加者が私に遠慮して発言しないというのであれば、確かに由々しい問題です。私は自己批判しなければなりません。(山脇)
→率直なご意見、感射です。それで、みなさんがことの本質に目を向け、分明に意見を出し合うと「新しい、ほんとうの公共」になると思います。今までの日本の常識を超える営みをつくりだすのはなかなか大変ですが、その主役は、あなたでありわたしである、そう強く思います。(武田)

突然、違う話題になっていますが、とても面白い展開になっています。4カ月目くらいから皆さんが自分の言葉で驚くほど率直に語るようになり、その内容も踏み込んだものです(あまり書くとまた「自慢話」と言われますね)。(武田)
→うーーん。自慢話か? しかしこれは興味深い話なので、一冊の本にされることを期待します。
→どうもありがとうございます。それができるととても面白いですよね。ベストセラーになるかな?(笑)(武田)

うーん、恐ろしく威張った発話ですね(笑)。ご自分で「議論しましょう」と誘っておき、「私に時間的余裕があればーー」こういう発話は、対等な人間関係では全くありえないのですよ。(武田)
→そう受け取られたのなら、反省します。ポイントは議論する場と時間の制約という問題です。(山脇)
→了解です。(武田)
それに、わたしのブログはウヨクも発話しているのですが??なぜ、わたしのブログをそれほどに警戒するのか?不思議です。
→警戒などしていません。議論の公平性を担保する場としては、武田ファンが多すぎて、適切とは思えないということです。武田さんのブログで発言するウヨクといってもたかがしれているでしょう。(山脇)
→たかがしれている、のはその通りです。数年前は、しつこい書き込みがだいぶあったのですが、バシバシ反論していたら、消えてしまったのです(笑)今度は、山脇さんが入れて下さいね(以前からありましたが)。(武田)

武田康弘



公共哲学MLから   山脇直司 対 武田康弘 2.

 

みなさん

こういう番組を参照し、その特質(プラス面やマイナス面)について考えるのはよいことですが、肝心なのは、白熱討論をテレビで見ることではなく、自分たちがすることだとは思いませんか?

大学教師のみなさん、
白熱討論や対話式の能動的授業をしていますか?

大学生や大学院生のみなさん、
大学の授業で、また、友人や親子・兄弟などと対話・論議をしていますか?

もしまだなら、やりましょう〜〜よ。対話や討論なくして『公共』とは絵に描いた餅にしかなりませんものね。

武田康弘
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武田さん

ご自身のブログを活性化させる手段としてツィッターを利用すれば、ずっとブログへのアクセスが増えると思います。
ツィッターはブログへ誘う手段、そしてブログはタケセンの問題提起を議論する媒体、そしてさらにそこでの議論を深めるために白樺教育館で対話・議論を遂行するという方法をとると、いろいろな人が参加できて面白いと思いますが、いかがでしょうか?

山脇直司
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山脇さん

ツィッターの利用が有効であるなら、そうしてもいいですね。
ただ、以下のわたしコメントは、その話ではなく、極めて本質的で重大な問題だと思うのですが、いかがでしょうか?

実は、金泰昌さんもクドイほど、日本の大学(人)に議論がないことを嘆き、訝り、憤っていて、その点でわたしと意気投合したのです。異論を大事にしない「公共」ほど恐ろしいものはありませんし、手強い批判がない思想は鍛えられず、脆弱なままに留まりますから。

ほんらい、討論とは、テレビで見るものではなく、自ら行うものです。

武田
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武田さん

以下のコメントは全く異議はありません。
小学校から訓練が必要です。(ただし知識習得も必要です!)

サンデル講義のテレビ効果は、日本の大学でもあのようなスタイルの授業に変わるべきだと学生たちを目覚めさせることにあるでしょう。

山脇直司
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山脇さん

おおいに異議がありますね(笑)。
変わらなければいけないのは、何よりもまず教師の方だと思いますよ。
山脇さんがどうの、というのではなく、白樺の大学生に聞くと、大学の先生はタケセンのような対話式の授業をせず、議論もない、とのことですから。
とても高いお金を取っている大学側の改革が求められるのであり、大人(大学関係者)が自分のことを反省し、変えていく営みがまず必要でしょう。

何事でもそうですが、他者ではなく、己を捉え返す作業が先だと思います。教師であれば、教師の側の問題を考えるのが先なのです。わたしは30年以上それを実践してきました。毎日が反省の連続です(笑・困)。休み明けは今でも緊張してしまいます。

武田
―――――――――――――――――――――――

武田さん

また自慢話ですか(苦笑)。
当たり前の話を繰り返さないでくださいね。

白樺のごく少数の大学生だけでなく、全国の学生の調査に基づいて発言してもらわなければ、このMLに参加している方々は全く説得されないと思いますよ!

山脇直司
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山脇さん

なぜ、まっすぐに内容を受け取れないのですか?とても不思議です。
白樺に通っていない大学生に聞いても(もちろん全国の大学生にアンケートをとったわけではありませんが)大学の授業が「一方通行」であると言いますから、基本的にそうなのだと判断する他ないでしょう。昔ですが、わたしの受けた大学の授業もそうでした。

「サンデル講義のテレビ効果は、日本の大学でもあのようなスタイルの授業に変わるべきだと学生たちを目覚めさせることにあるでしょう。」
という山脇さんの発言を受けて、それは順番が違うでしょう、まず何よりも先に求められるのは、大学(人)の改革ではないですか?と問題提起しているのですから、それについてお応えください。

武田
――――――――――――――――――――――

武田さん

私もなぜ武田さんがそれほどまでに「自分を宣伝する」のか、全く不思議です。
どうか白樺の自慢話は控えて、ストレートに質問してください。
大学人の改革が必要なことはあたりまえです。

山脇直司
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山脇さん

わたしの教育実践は、従来の価値観と大きく異なるとても独自なものなので、説明が必要なのです。それを、自己宣伝という悪口にされると、がっかりしますが、それは生きる場や何をよいとするかのあなたとわたしの違いで、致し方ないことでしょうから諦めましょう。わたしは、学生も対比がなければ、自分の受けている授業を相対化できませんから、そういう意味で白樺の実践を出して丁寧に説明したのですが。

ともかく、「大学人の改革が必要なことはあたりまえです。」という点では共通認識が得られましたから、では、どのようにそれを現実のものにしていくか、が課題となります。そのためには、まず、『公共哲学』に関わる大学人が声をあげ、大学の授業改革に取り組む運動・実践をすることが必要だと思いますが、どうでしょうか?
『教育から考える公共性』を一段深め、今までの大学と大学人のありようをしっかり問う作業をする必要があるのではないでしょうか。

武田
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武田さん

私には企画する時間がないので、武田さんがオーガナイズするのであれば、私はその作業に参加することにやぶさかではありません。

山脇直司
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山脇さん

わたしの論点は、以下のようでしたよね。

「討論はテレビで見るものではなく、自ら行うもの」というわたしのテーゼに賛同された山脇さんは、
「サンデル講義のテレビ効果は、学生たちを目覚めさせることにある」と述べましたが、それは順番が逆で、まず教師が変わらなければならないはず、とわたしは言いました。
それにも、当然のこと、と山脇さんは賛同されたので、それでは、大学人が自ら授業改革に取り組むべきで、公共哲学者は声をあげ、それを実践する必要がある、というのがわたしの意見でした。
したがって、大学の外にいる私が音頭を取ることは不可能ですよね。

学生たちを目覚めさせるためには、まず大学教師たちが目覚めなければならない、その意味で、山脇さんは「何よりも先に、我々教師が変わらなければ!」と言うべきではなかったか? と、わたしは問題提起したのです。

武田
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武田さん

また話が混乱してきました。
大学の教師に変われとアジる事など私にはおこがましくてできません。
ゼミなどで実践するのみです。

山脇直司
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公共哲学MLから  小林正弥 対 武田康弘  


小林正弥です。サンデルの書評が 『週刊朝日』で出ています。
また、週刊ダイヤモンドの今週号は 消費税の特集ですが、http://dw.diamond.ne.jp/ そこで池田信雄というネオ・リベラリストが、この本を(意外にも) 好意的に書評しているそうです。
私が受けたインタビューなども、 今月は続々と出てきますので、出たらお知らせしま す。
ーーーーーーーーーー
http://book.asahi.com/aisare/TKY201006280170.html
これからの「正義」の話をしよう [著]マイケル・サンデル[掲載]週刊朝日2010年7月2日号[評者]永江朗■背景にアメリカの「正義」観の分裂

テレビを見ないので知らなかった が、「ハーバード白熱教室」という番組が人気だったとか。内容はハーバード大 学の講義。それも政治哲学の講義である。マイケル・サンデル『これからの「正 義」の話をしよう』は、彼の講義から生まれた。

私たちにとって何が正義なのか。 正しいとはどういうことなのか。この素朴だけども、もっとも基本的で重要な問 題をさまざまな角度から考え続ける。取り上げられるのはアリストテレスから ロックやカント、そして現代のロールズやノージックといった巨人たち。彼らの思 想のエッセンスがわかりやすく解説されている。私が連想したのはラッセルの 『西洋哲学史』(みすず書房)だ。ただしサンデルの講義は学説史ではない。

難しいテーマなのにおもしろく、 退屈させないのは、サンデルが次々と持ち出す具体例が身近だからだ。たとえば チアリーダーとして活躍する脳性麻痺の女子高生をめぐる話。彼女は車椅子で動き回って応援し、人気を集めていた。ところが彼女はチームから外されてしまっ た。ほかの部員と同じように開脚や宙返りができないからというのが学校側の言 い分だが、どうやらチームのキャプテンの父親が扇動して締め出したらしい。

公平さとはどういうことか、チア リーダーの役割をよく果たすとはどういうことか。正義とは、目的とは、名誉と は。いかにも感情に訴える事例から抽象的な倫理の思考へと、サンデルはたくみ に読者を導いていく。身近な例や簡単にできる思考実験で、学生や読者は自分で も考えざるをえなくなる。

サンデルの講義、そしてこの本が 人気なのは、現代アメリカ社会の「正義」観が分裂し、対立しているからだ。最 優先すべきは公正さなのか、それとも自由なのか、あるいは美徳なのか。これは 日本でも福祉政策などについての議論でたびたび起こる(一昨年末の年越し派遣 村がそうだった)。米軍基地問題や八ツ場ダム問題なども、サンデル先生が解く とどうなるか知りたい。

鬼澤忍訳
―――――――――――――――――

武田です。

哲学とは、批判的に考えること、ほ んとうにそれでいいのか、と吟味することでしょう。
日本ではほとんど意味のないアメリ カにおける正義論を紹介することよりも、わたしたちの足元=現実を抉る作業をしなければなりません。

「マイケル・サンデル詣でをし、彼 の真似をしているようではナサケナイ」とは、日本・韓国・中国を舞台に活躍する金泰昌さん(シリーズ「公共哲学」の牽引者)の批 評ですが、わたしも同じ考えであることは、すでにmlに書いたところです。

自分自身の具体的経験を踏まえ、自分の頭で考える、それが哲学です。「言論ショー」や情報が哲学なのではありません。繰り返しますが、哲学・議論とは、見るものではなく、するものです。

いやしくも哲学を名乗るなら、権威 的なものに対して、一旦ストップをかけることが必要なのです。浮かれていてはいけません。

話は変わりますが、この間ご紹介し た もと都立三鷹高校の校長・土肥信雄さんの石原慎太郎&東京都教育委員会との闘い(青木さんも「僕と未来ネットワーク」のブロ グにしてくれました)をわたしは、再びブログにしましたので、ぜひご覧ください。そして、ご支援下さい。
http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/0c326eb57ce65ad8b79c7c0eb1bdd7ac
10月2日(土)にはまた大規模な 集会がありますが、後日、追ってご案内します。
―――――――――――――――――――

小林正弥@公共哲学ネットワーク代 表です。

以下の武田さんのコメント、まっ たく同意しませんが、記憶しておいてもいいかな、と思います。サンデルの講義における議論が日本の現実と関 係がないかどうか。
なぜ、この講義が多くの日本人にかくも大きな反響を呼んでいるのか。
事態の展開とともに、真実が明らか になっていくと思います。

今後も、サンデル関連情報や、友愛公共フォーラム関連情報は積極的に流していきたいと思います。
私が気付かないものも多いだろうと 思いますので、皆様のご協力をお願いします。
公共哲学ネットワークHPや特設サイトなどでも情報を集約して いきますので、ご覧ください。

また、これらの関心をお持ちの方 には、このMLに加わられるように勧めていただきたいと思っています。

なお、荒井さんの登録削除の件、
MLで流れたもの以外には異議申し立てはありませんでしたので、これで確定とします。
―――――――――――――――――――――――

武田です。

「エリート」好きのわが日本人(でも、鳩山さんはアッという間に終わってしまいました)、
もっと地に足をつけ、自分自身の力 で考え行動できる実力をつけないと、ほんものの哲学思索は、永遠にわたしたちのものにはならないでしょう。

熱しやすく冷めやすい、これを繰り 返すのでは、愚かです。しばらくはサンデル、サンデル、サンデルという合唱でしょうが。

ディベートや思考実験ではなく、一 番身近で、極めて深刻な言論問題=東京都教育委員会による学校への言論抑圧をテーマに議論し、その問題点を抉り、行為する、そう いう思考と行動がなければ、公共哲学は泣きますよ。

でも、各人の自由ですから、わたし は批判を続け、小林さんらはサンデルを称揚し続ければよいでしょう。
 ―――――――――――――――――

小林正弥です。

以下は三省堂のブックフェアの情報 です。
私たちの翻訳書を中心にしたフェア なので、私からお知らせしておきます。
サンデルに関する関心が、彼の政治 哲学そのものに進んでいく予感がします。
ーーーーーーー
http://www.books-sanseido.co.jp/blog/jinbocho/2010/07/4-43.html
NHK教育テレビで放送されていた 「ハーバード白熱教室」はご存知だろうか?

アメリカ・ハーバード大学で多くの 履修生を集めた名講義を、テレビで公開したもので、もちろん日本では早川書房 『これからの「正義」の話をしよう』がベストセラーになっている。

実はこの著者 マイケル・サンデルは、知る人ぞ知る現代アメリカのコミュニタリアニズム(共同体主義)の政治哲学者。

テレビでは分かりやすく学生と討論をしているが、その背景にある思想は、現代アメリカ社会や現代資本主義が持つ 各種の問題を、思想のみならず経済・政治などを交えながら展開していく。

今回は、そんなマイケル・サンデル の新刊、

『民主政の不満 公共哲学を求める アメリカ(上)』(勁草書房刊、税込定価2,730円)の刊行を記念して、現代リベラ リズムを読み解くためのフェアを開催しています。
―――――――

小林正弥です。

早くも『民主政の不満』第1部は、アマゾンで一時的に品切れになっているようですね。

さて、武田さんのメールに ついて、応答すること自体が好ましくないという 有力意見が届いているのですが、
今後のこのMLの発展にとって大事な問題を含んでいると思いますので、今はさせていただきたいと思います。しばらくご寛恕ください。

武田さん、このMLには、様々な 方々が参加されており、最近は友愛公共フォーラムやサンデ ル講義に触発されて公共哲学に関心を持たれる方々も増えています。
私は、その方々の声や気持を大事に したいと思います。なぜなら、そういった方々がさらに 探究していかれることにより、本当の意味で公共哲学が日本に根付 くからです。
私は、そのような方々の探究を手助けし、これらが開いた可能性を全面的に開花させて いきたいと思っています。

サンデル講義は「ただの大学内の授業模様」ではなく、NHK教育の放送によって、日本の 人々が初めて本格的に接することのできる政治哲学の講義になったと思います。何しろ、日本には、わが千葉大学を除くと、政治哲学の講義はほとんどありませんから。

その意味でも「歴史的」だと思って います。

私は、サンデル講義に触発された 人々の声を毎日のように聞いていますから、あの講義が日本の多くの人びとの知的関心を深いところで目覚めさせ ていることや、日本の現実に関係があることを、ことさら「議論」する必要は感じないのです。

たとえば、講義内容におけるリバタリアニズム批判を聞けば、それが私たちの現実とストレートに 関係していることがただちにわかるはずです。市場経済や自己所有権テーゼを絶対視することがいかなる問題を 私たちの現実にもたらしているか。それを感じとるからこそ、多くの人びとが私に読むべき文献を 聞いてくるのです。サンデル関係の文献だけではなく、リバタリアニズムやリベラリズム文献について聞いてくる人々も少なくはないのです。

そして、私たちは、そのような声や要望に応えるために、HPのコンテンツを整備し、サンデ ル特設サイトを作ってきました。
私だけではなく、公共哲学センター に関わる人々の無償の努力によって、そういったこ とがなされています。
その人々は、多くの人びとがこれらを活用して、喜んでくださることを期待して、そうしています。
これからは、私だけではなく、そう いった運営側の方々からも、このMLにも直接にメールを送ってもらいたいと思っています。

せっかく関心を持ち期待してこのMLに入られた人々が、この内部の「議論」にうんざりして止めていかれるのでは、この善意の努力が意味を持たなく なってしまいます。それで、
1人の登録解除に踏み切りました。

いま、ネチケットを議論し始めていますが、これも、上記の目的を達成するために必要だと思っています。

私としては、武田さんが言われる 「哲学」の態度も、個人的にはわからないではありません。でも、このMLでは必ずしも望ましいとは思わないのです。この点、武田さんが考慮して下さることをお願いしたいと思います。

もしかすると、武田さんの望まれるような「哲学」の「議論」の場を別に作った方がいいかもしれません。この 「公共民フォーラム」の他に、「公共哲学論争フォーラム」というようなMLを作ることも論理的には考えられると思うのです
が、管理が大変なので、私としては 提案を躊躇しますし、私はそこで議論する時間的余裕はありません。希望者や管理の労をとって下さる方はおられるでしょうか。

小林正弥
公共哲学ネット ワーク代表
地球平和公共ネッ トワーク代表
              public-philosophy@mbj.nifty.com
http://public-philosophy.net/
http://global-public-peace.net/
【公共哲学ネットワーク/ 地球平和公共ネットワーク】
――――――――――――――――――――――――――――――

小林正弥さん

「さて、武田さんのメールについて、応答すること自体が好ましくないという有力意見が届いているのですが、今後のこのMLの発展にとって大事な問題を含んでいると思いますので、今はさせていただきたいと思います。しばらくご寛恕ください。」(小林正弥)

「武田さんのメールについて、応答 すること自体が好ましくないという有力意見」――――応答すること自体が好ましくない、とは随分と失礼な話ではないでしょうか。大学内での人間関係ではなく「一般の市民社会」ではとても通用しないと思います。

このような言い方が自然と出てきて しまうところに、大学内で生きる人(大学に限らず学校関係者)と一般社会人との溝があるのです。


「武田さん、このMLには、様々 な方々が参加されており、最近は友愛公共フォーラムやサンデル講義に触発されて公共哲学に関心を持たれる方々も増 えています。
私は、その方々の声や気持を大事にしたいと思います。
なぜなら、そういった方々がさらに 探究していかれることにより、
本当の意味で公共哲学が日本に根付 くからです。
私は、そのような方々の探究を手助 けし、これらが
開いた可能性を全面的に開花させて いきたいと思っています。」(小林)

「そういった方々がさらに探究して いかれることにより、本当の意味で公共哲学が日本に根付くからです。」――――

――――これは、小林さんの願望ですよね。「根付くからです。」と断定できる根拠は何も示されていません。

わたしは、サンデル講義のTV番組 は、一時のブームだと見ていますが、その根拠は、幾度もブログとこのmlに書き ましたので、繰り返しません。


「サンデル講義は「ただの大学内の授業模様」ではなく、NHK教育の放送によって、日本の 人々が初めて本格的に接することのできる政治哲 学の講義になったと思います。何しろ、日本には、わが千葉大学を除くと、政治哲学の講義はほとんどありませんから。
その意味でも「歴史的」だと思って います。」(小林)

わたしは、あの講義が「歴史的」だとはとても思えませんが、それは小林さんとわたしが生きてきた時空の相違であり、見解の違いですので、議論しても意味がありませんね。


「私は、サンデル講義に触発され た人々の声を毎日のように聞いていますから、あの講義が日本の多くの人びとの知的関心を深いところで目覚めさせていることや、日本の現実に関係があることを、ことさら「議論」する必要は感じないのです。」(小林)

「あの講義が日本の多くの人びとの 知的関心を深いところで目覚めさせていること」
――――――これも全く事実認識が異なります。わたしの生徒や白樺同人の見解は、サンデル講義に否定的ですが、これについて も見解の相違ですから、議論にはなりません。

「たとえば、講義内容におけるリ バタリアニズム批判を聞けば、それが私たちの現実とストレートに 関係していることがただちにわかるはずです。市場経済や自己所有権テーゼを絶対視することがいかなる問題を 私たちの現実にもたらしているか。それを感じとるからこそ、多くの人びとが私に読むべき文献を聞いてくるのです。サンデル関係の文献だけではなく、リバタリアニズムやリベラリズム文献について聞いてくる人々も少な くはないのです。」(小林)

「講義内容におけるリバタリアニズ ム批判を聞けば、それが私たちの現実とストレートに関係していることがただちにわかるはずです」―――
ーーーこれは、豊富な海外経験をもつ会社員の人が、一番驚いていたことです。彼曰く
「日本において『リバタリアニズ ム』を主張する人などまずいない。もしそのような認識をもつ人がいるならば、観念的・理論的にしか現実を知らない人だな。」と。

わたし武田の意見は、「市場経済や自己所有権テーゼを絶対視することがいかなる問題を私たちの現実にもたらしているか。」は、当然問題にすべきだと思っています。そのことは、わたしも幾度となく角度を 変えてブログに書いてきましたが、なぜ、それをアメリカの現実に基づいて語るサンデル氏に依拠して考えなければならないのか?全く意味不明です。


「せっかく関心を持ち期待してこのMLに入られた人々が、この内部の「議論」にうんざりして止めていかれるのでは、この善意の努力が意味を持たなくなってしまいます。それで、1人の登録解除に踏み切りました。
いま、ネチケットを議論し始めていますが、これも、上記の目的を達成するために必要だ と思っています。」(小林)

そういうことならば、前のメールにも書きましたように、ML参加は「サンデル氏支持」が基本条件と明記すればよいで しょう。

「私としては、武田さんが言われる「哲学」の態度も、個人的にはわからないではありません。でも、このMLでは必ずしも望ましいとは思わないのです。この点、武田さんが考慮して下さることをお願いしたいと思います。」(小林)

サンデル氏への批判をしないことが このmlの条件なのであれば、その旨、明記して下さい。そうすれば、わたしは情報のみを発信し、意見は言いません。

「もしかすると、武田さんの望まれるような「哲学」の「議論」の場を別に作った方がいいかもしれません。この「公共民フォーラム」の他に、「公共哲学論争フォーラム」というようなMLを作ることも論理的には考えられると思うのですが、管理が大変なので、私としては提案を躊躇しますし、私はそこで議論する時間的余裕はありません。希望者や管理の労をとって下さる方はおられるでしょうか。」(小林)

論争は、内輪でやらないで、誰でもが見れる場でするのがよいでしょう。わたしのブログでOKですが、公共哲学のホー ムページ内でもいいですね。

以上は、忌憚のないわたしの意見で す。失礼しました。

武田康弘
――――――――――――――――――――――――

小林正弥です。

以下の武田さんのご意見は、ご自身で書かれているようにここで議論することには意味がない点がほとんどと思いますので、皆さんにとっても有意義と思われる点についてのみ書いておきます。

●私たちの翻訳した『民主政の不満』の副題が「公共哲学を求めるアメリカ」となっているように、サンデル教授の議論は、世界的な観点からみた時、もっとも 影響力のある公共哲学の議論の1つです。
それはもちろん、このMLの主題である公共哲学の1つであり、ここでその講義について注目が集まることは当然です。

その公共哲学は政治哲学を中心に しています。
政治哲学の用語が日本ではあまり知られていなかったので、私はこれまで講義や論文以外ではあまり 積極的に使ってきませんでしたが、
ハーバード講義の成功で、一般的な メディアでそれらを使用することができるようになったことを喜んでいます。

これは今日の政治哲学の主要な内容の相当部分をなしますから、これらの学問的議論が日本でも有意 義かどうかは、ここで議論するまでもなく、自ずと明らかになっていくで しょう。

ちなみに、『公共哲学』20巻シリーズを主導された金泰昌氏は、サンデル公共哲学に非常に批判的です。そこで、『民主政の不満』解説でふれたハーバード地球的公共哲学セミナーでは、金泰昌氏はサンデルらを批判して、自らの公共哲学の優位を示そうとされました。
私はその ような試みには同意しなかったので、そこには鋭い緊張関係が生まれま した。


この会議の様子については、以下 をご覧下さい。
http://public-philosophy.net/archives/46

また、この会議には、サンデルらの思想的意義を評価する大学院生たちが参加しており、彼らとサンデル、テイラーとの対話が『民主政の不満』の訳書に収録されています。この対話には重要な意義があると思ったので監訳したのですが、同時に、上記の事情も念頭において読まれるといいか、と思います。

このような思想的立場を反映し て、金泰昌氏の主導される公共哲学企画では、サンデルらの公共哲学は軽視されるか、ほとんど無視されています。しかし、私は(公共哲学という概念はサンデルらが主張したことによって世界中にインパクトを持ったという)経緯や、その内容からして、日本の公共哲学プロジェクトにおいても軽視すべきではないと思っています。

そこで、「公共哲学宣言」の原案の起草にあたっては、日本の公共哲学プロジェクトだけではなく、サンデルらの公共哲学の意味も盛り込むようにしました。この点では、「公共哲学宣言」は、20巻シリーズの基調、特にそれを主導した金泰昌氏の見解とは異なっている部分があります。
したがって、「公共哲学宣言」を立脚点としている本MLにおいては、サンデルらの公共哲学はその重要な焦点の1つをなします。

20巻シリーズでは、もちろんこのような点は書かれていませんから、それだけを通して「公共哲学」に接した方々は、この点を認識されていなくとも不思議はないと思います。公共哲学ネット ワークは、20巻シリーズでいう日本独自の「公共哲学」だけではなく、世界的な 公共哲学の全体を意識して形成されています。

これは、本ネットワークやMLの運営にも現れますので、この機会に、以上の点をご理解いただければ幸いです。

●公共哲学論争MLという問題提起について、武田さんのご意見では、武田さんのブログか、公共哲学サイ トで行うのがいいのではないか、
ということでした。

公共哲学のサイトでは、武田さんの
サンデル講義批判のご意見を載せることは致しません。失礼ながら、 私の判断では、学問的にその価値はないと思うからです。
公共哲学においては品位も重要ですので、公共哲学ネットワークの品位を落とすような議論を掲載することは致しません。

そこで、武田さんのブログで行うという可能性が残ります。
武田さんをはじめ、その論争に参加される方は、本MLではなく、武田さんのブロクで行われたらどうか、と思います。

小林正 弥
公共哲学ネット ワーク代表
地球平和公共ネッ トワーク代表
              public-philosophy@mbj.nifty.com
http://public-philosophy.net/
http://global-public-peace.net/
【公共哲学ネットワーク/ 地球平和公共ネットワーク】
―――――――――――――――――――――――――――――――

小林正弥さん

「公共哲学のサイトでは、武田さんのサンデル講義批判のご意見を載せることは致しません。失礼ながら、私の判断では、学問的にその価値はないと思うからです。公共 哲学においては品位も重要ですので、公共哲学ネットワークの品位を落とすような議論を掲載することは致しません。」(小林)

「失礼ながら、私の判断では、学問的にその価値はないと思うからです。・・公共哲学ネットワークの品位を落とすような議論を掲載することは致しません。」

と、小林さんは発話しながら、その論拠は一切示さない。ただ驚き以外のなにものでもありませんね。

そこまで言われるならば(市民社会でこれほど失礼な発話をすることはまず無いこと)、ブログ等でこのまま公表し、学問に専門に携わる人を含む多くの方々に忌憚のな い意見を聞くことが必要ではないでしょうか。それをしないならば、学問の基本条件(フェアな議論)に反すると思いますが、違いま すか? 

小林さんが自身が主宰するmlの中だけで、他者への極めて失礼な発言をし、それをあたかも「正解」のように言われるのは、公共性・社会的常識に反する言辞行為であ る、そうわたしは思いますので。

武田康弘
――――――――――――――――――――――――――――――

小林正弥です。

以下 の武田さんのメールには直接答えずに、
公共哲学に興味を持って加わられた 方々のために、1つ参考になる話を書いておきましょう。

私の大学では、私と思想的立場がほとんど正反対の法哲学研究者がおられ、リバタリア ニズムやネオ・リベラリズムの立場を主張しておられます。ノー ジックの代表作の翻訳者です。

研究主題が似ているので、論文入 試や論文審査の場では、その先生としばしば同席することに なります。私自身がはじめは驚いていたのですが、多く の場合、論文の評価はほとんど一致します。私の思想的立場に近くとも、彼の思想的立場に近くとも、優れた論文 かそうでないかということに関しては、かなり一致 するのです。

ここから私は思ったのですが、学問の場では、評価者が一定の学問的水準を満たし ている場合は、思想的立場を超えて、かなり評価が近似します。

政治哲学や法哲学において、全ての研究者が同意する理論は存在しませんが、それでも審査において質的な評価が成立しうる根拠がここにあります。

私たちの議論に対して批判的だからといって、私は低い評価を下すことは致しませ ん。
思想的・学問的に良質な批判とそうでない批判が存在する
と私は思うのです。

公共哲学ネットワークは、私たち の責任において運営していますから、そのサイトに おいて公表する場合には、管理側の質的基準が背景にあります。そして、このMLにおいても、そのような気持を込めて学問的・思想的品位を保ちたいと私は願っています。
小林正 弥
公共哲学ネット ワーク代表
地球平和公共ネッ トワーク代表
              public-philosophy@mbj.nifty.com
http://public-philosophy.net/
http://global-public-peace.net/
【公共哲学ネットワーク/ 地球平和公共ネットワーク】
―――――――――――――――――――――――――――――――

武田康弘です。

以下の小林正弥さんのメールと似た 論法で、小林さんのメールには直接お応えせずに、みなさまに一つ参考になるであろう話を書きます。

わたし自身の名誉と、狭い「学」の世界を超えてひろく市民社会に通用する品位をうみだすために。ここは、公共の場なのですから。

東大出版会の近刊案内にもあります ように、シリーズ『公共哲学』全20巻の最大の推進者であった金泰昌さんの総括本が出ます(数日前に初版ができました)。

その本=『ともに公共哲学す る』(金泰昌編著 8月1日東大出版会刊 3800円)のメインは、金氏とわたし武田康弘との30回に及ぶ「哲学往復書簡」(総ページ数400の四分の一)ですが、
金泰昌氏は、その冒頭で、「武田康 弘氏は今日に到るまでの日本在住(一九九〇−二〇〇七)の期間に出会ったほとんど唯一の在野の気概のある民間哲学者もしくは市民哲学者 です。・・・制度知の横暴に対する民生知による是正を重視しその力動をもって日本維新を実現することに全力投入する姿に共感を覚 える」とわたしを紹介しています。

その内容―【哲学とはなにか?】か らはじまり【天皇制と主権在民について】でおわる往復書簡による金・武田哲学対話については、お読み頂くしかありませんが、

わたしの根源的な問題提起をぜひみなさまに知ってほしいと思います。

この度、韓国人の金氏は、自身とは 異なる考えを幾つも持つわたしの書簡を、武田さんの考えは優れているのだから、として本にしたのですし(公正)、また、東大出版会の竹中英俊編集長も、金氏とわたしの忌憚のない厳しいやりとりをとても高く評価してのことでした。竹中さんは、わたしが付けた小見出しまで全体の目次として載せましたので、(4)「学校序列宗教=東大病の下では、自我の内的成長は不可能」の文字も目次に 踊っています。内容をきちんと表示し、その内容のみで議論をしていく文化に変えたい=日本の悪しき常識(旧い序列主義)を変革したい、東大出版会の中からそれを果たそう(自己変革)という新たな【公共的良心】の試みが実を結ぶか否か?それは、わたしたち自身の心・言動にかかっているのではないでしょうか。

このmlは、小林正弥さんが主宰するものですが(わたしはかつて山脇さんに熱心に勧められて加盟しました。また、金氏にわたしの情報を知らせたのも山脇さんでした。そのことは本の中に明記しました)、小林さんには金氏にならい公正な発言を希望します。

 公共哲学ML内での議論は以上ですが、最後に武田康弘のまとめを以下に載せておきます。

わたしの指摘は、
サンデル教授の思考法が、
極限状態における人間の行為の是非と、日常生活における社会思想の良否を混同させてしまうために(=次元の混同)社会・人間問題の適切な分析にも解決にもならず、思考を混乱させるだけである、
というものです。
これは、ソフィストの思考法(ディベート=言語ゲーム)であり、真実を目がけるソ クラテスの問答法(ディアレクティケー)とは無縁です。

ところが、これはひとりサンデル教授の思考法の欠陥ではなく、多くの大学人に共通する実に困った問題です。単なる「事実学」(フッサールの概念)の累積が学問だと 信じ込んでいる大学人の多数派は、知を硬直化させ、知から有意味性を奪っています。事実学とは、受験知の延長上にある「パターン知=二次元的な平面知」のことですが、立体から見れば影に過ぎない世界を実像だと思い込むために(比ゆ的には、写 真を現実と混同するものと言えます)、言葉の上の問題を現実の問題としてしまい、いたずらに混乱を招く形式論理なのです。

小林正弥さんらの公共哲学が言葉の遊戯・造語趣味に陥るのは、頭脳(=思考構造) が立体化していないために、平面的思考の枠内で現実問題に取り組まざるを得ないからです。形式論理でしかない「事実学」の累積では現実問題を解決する視座が得られないために、「霊性」をプラスして、公共哲哲学運動を【公共的霊性(スピリチュアル)】の運動としていますが、これを公金で行っているのですから、なんとも酷い話です。

人間の生の問題や社会問題を考えるには、『意味論・本質論』として取り組まなければならず、『事実学』の累積ではどうしようもないのですが、そのことの明晰な認識を持つ人が少数なのは、ほんとうに困った問題(知のありようと教育)です。

事実学だけなら、勉強時間を増やして暗記すればいいのですが、そのような頭の使い方をしていれば、論理とはイコール「形式論理」となり、知は【受験知・官知】という狭く固い非人間的な〈形式知〉に堕ちる他ありません。まさに「人間を幸福にしない知」と言えます。いま何よりも必要なのは、ディアレクティケーの営み=実践なのであり、サンデル教授ら大学人の次元を混同させた言語ゲームや事実学ではありません。

2010年9月17日
武田康弘



2010年9月17日追記
2010年9月15日
古林 治

 
 
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