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志賀 直哉と武者小路 実篤
        (むしゃのこうじ さねあつ)
(1885-1976)

 わがままでかんしゃく持ち、父親の言うことなど少しも聞かなかった志賀直哉。
  一番好きだった祖母にも、「年寄の言いなり放題(ほうだい)になるのが孝行(こうこう)なら、そんな孝行(こうこう)は真っ平(まっぴら)だ」と言い放つ。
  実業家である父の直温(なおはる)は「なんの因果(いんが)で貴様のような奴が生まれたのか」と言い、息子の死さへ願った。
  二歳年下の直哉の親友、武者小路実篤も、夢想主義者と酷評(こくひょう)され、危険思想の持ち主とさえ言われる始末(しまつ)。彼は海に向かって何度も叫んだ。
「おお波よ、海よ、空よ、ここに立つ一人の男を見よ。この男こそ唯(ただの)の男ではないぞ、よく覚えておけ。』 と。
  学習院で学業成績下位を争った二人(直哉は二度落第)は共に東大に入ったが、権威主義とつまらない講義を嫌ってほとんど授業にも出ず、中退。
※当時は、学習院から東大へは文科ならば無試験入学。

 異端(いたん)者と言われたこんな彼らが、親や世間の冷たい目に少しもひるまず 自分自身の真実 を掘り進めて、ついに独力で新しい時代を切り開いた。

 日本の人間開眼! 1910〜20年代(第一次世界大戦、ロシア革命前後)、ここ我孫子の地は『白樺』村とも呼ばれ、権威に頼(たの)まず旧来の道徳に抵抗した若き白樺派文芸闘士たちの一大拠点となった。
  彼らは大胆(だいたん)に自己を肯定し、互いにその強い個性を認め合って生きたのだ。

 さあ、彼らの息吹を吸おうではないか。

1999年3月
武田康弘

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