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24.『欲望としての他者救済』
  -‐自他問題への武田の見方

   金泰明(キムテミョン)著(NHKブックス 2008年9月刊 ¥1019) 

 教育館ホームページでもお馴染みの金泰明さんの新刊本の書評です。タケセンの「思索の日記」より抜粋します。


他者救済

 本書 『欲望としての他者救済』の帯にあるー「なぜ手を差しのべようとするのか?」「自分のために助けるのか、他者を想って助けるのか」―を見て、わたしは、あれっ、へんな問いだな、と思いました。元にひねれた想念があるから出てくる「問い」ではないでしょうか。

  人間は、誰でも自分の心身を気遣いますが、それと同時に動物や自然を含めた他者を気遣う存在です。それは子供たちを見れば一目で分かります。他に手を差しのべようとするのは自然の情であって、特定の考え方や価値観を刷り込まれていない限り、皆がそうします。同情などの感情についても同じです。

  人間は、かけがえのないこの「私」の存在を肯定し、よく生きるためには、他者を必要とします。互いに他者を必要としているので、助け合うことが必然なのです。他者の内の私であり、環境の内の私であることは、子どももみな知っています。だから、ことさらにバランスを欠いて「私」の得だけを考えるというのは、人間存在の自然性が崩れている証拠だと言えます。

  現代社会のイデオロギーは、知・歴・財の所有の多寡を競う競争主義ですから、人間の自然性は歪められて、自我主義へと堕ちています。そうだから、手を差しのべる、というふつうの行為に「なぜ?」という疑問符がつくのです。

  「私」が自分のことだけを気遣うと、私のよさは花開きませんし、私の得だけを考え、知・歴・財の所有競争をしていては、いつまでも幸福はやってきません。「私」の存在の豊かさ・魅力を伸ばすことへと生き方をシフトすることが求められるはずです。

  互いに助け合うこと=手を差しのべ合うことは、それぞれの「私」がよく生きる=存在の魅力を開くことの基本条件です。他者を助け、他者から助けられることは、人間の自然性で、それを明晰に自覚すると、人間関係はスムースになります。

  書評を書くつもりが、わたしの考えの提示になりました。

  本書は、豊富な著者の体験談に溢れていて、哲学者や社会思想家の言説も生活世界の中で検討され、意味づけられていますので、分かりやすく有益です。このような書き方は従来なかったもので、新しい思想の世界を切り開いた書と言えます。著者、キムテミョンさんの独自の体験が、センやロールズに代表される現代社会思想の欠陥(「他者の優先」という不自然な主張)を衝く土台となっていて、説得力があります。

 ただし、テミョンさんのような、自己への愛と他者への愛をはっきり分ける論理は、わたしの生の実感からは遠く、著者の結論=「自分に余裕があるとき、あるいはそうしたいと思ったときに、他者を救済すればいいのだ」は、ピンときません。他者救済をしなければならない、という脅迫観念を持っている人には意味がある言説かもしれませんが。

 わたしは、「私は他者と共によろこびたい」という欲望を持ちますので、自己愛か他者愛かという問題は、一つメダルの表裏のように思えるのです。ともあれ、ぜひご一読(クリック)されて、この新しい思想の書についてご検討下さい。

2009/01/13
2009/01/15修正
武田康弘

(以上、タケセンの『思索の日記』から )


他者愛と自己愛

「私」がよろこばしい気持ちでいられるのは、どんな時でしょうか。
私が私の心身に拘(こだわ)っているときは、私に充実やよろこびがきません。
私が、よいものや美しいものに憧れ、それを想っているときに、私は満たされます。
私は、私を目がけるのではなく、よき「他者」を想うとき、はじめて私はよろこびを得ます。この場合の他者とは、他人(人間)だけを指すのでなく、動物や自然であり、また、人間がつくり出した事物=建造物や生活用品、音楽・美術・文学作品なども含みます。
私が私を愛するとは、よき他者、美しき他者への憧れや愛をもっている私を愛するということであり、私の心身だけに意識が向かえば、私によろこびー幸福が来ることはありません。
私だけのよろこびを考えて生きている人は、どこまでいっても不幸です。他者愛ー利他的な心や行為なしに私の幸福もまたない、これは簡明な真実です。

2009年5月18日 武田康弘
(タケセンの『思索の日記』から )


古林 治

     
2009年5月22日
 
 
   
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