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18.『新サルトル講義』―未完の思想、実存から倫理へ

   沢田 直 著 平凡社新書 ¥798(税込)


  すばらしい新書が出ました。いや迂闊にも2年以上前に出ていたのですが、知らなかったのです。暮に、神保町の三省堂で見つけた平凡社新書141の『新サルトル講義』です。

  50年前に書かれた竹内芳郎31歳の処女作―『サルトル哲学序説』(ちくま叢書193)この魅力溢れる「青春の書」と本書では、叙述の方法も文体も内容も全く異なりますが、豊かな肉体をもった思想の面白さ、華や艶のある「能動的思考」がもたらすエロースを伝える点においては、共通しています。20世紀最大の思想家―サルトルという類まれな一人の男が放つオーラは、ポストモダニズムの「秀才」=青二才たちとはレベルが違います。新書版の小著でありながら、実に魅力的なのは、著者の力量もありますが、やはりサルトルという「人間の力」でしょう。

  サルトル死後に公開された膨大な著述の紹介も兼ねた本書は、思想、文学、哲学に多少とでも興味がある方にはもちろん、大学の哲学科の教師たちにとっても必読の書です。21世紀になってサルトルの時代が新たに始まろうとしている!ようやく時代が彼に追いついてきたと言えるかも知れません。
あっ!そうです。今年・2005年はサルトル生誕100年です。何かが始まりそうな予感がします。

  狭く単純な論理でサルトルを断罪した気になっている貧しい心と頭の学者や批評家の言説は、害あって益なしです。現代社会は、灰色の人間が灰色の制度をつくり、「まじめ」な面白みのない人間が世界から深みのあるエロースを奪っています。政治の世界でも、心にふくらみ・余裕がなく、頭に論理力のない狭小で幼い男たち=小泉首相や石原都知事等が幅を利かせています。現代日本の政治を含む「文化」は、「学芸会」レベルでしかありません。成金が尊敬?を集め、受験オタクが頭がよい?と評される始末です。人間本来のよき「子ども」性を消去してしまった結果、残ったものは、愚劣な「大人」性=幼児性だけ。金もうけと外見だけの低次元の人間が生き恥をさらし、真善美=本物のエロースを追求する手強く「自由」な大人はいなくなってしまいました。 おっと失礼。脱線です。どうも「サルトル」という存在は饒舌なまでのパトスを与えるものらしいですね。

  本書の一部をご紹介します。

  『サルトルはまず、自由を否定性として捉える。だが、人間の自由は否定性に依拠してはいても、単なる否定ではなく、それ以上に意味付与、つまり真理の創造であり、投企である。と展開する。神もなく、予め与えられたいかなる真理もないと考えるサルトルは、価値あるいは意味は人間的現実が投企することによって生まれるものだと主張する。その限りにおいて自由という否定性は、同時に生産的であり、肯定的でなければならない。のみならず、倫理的なレベルにおいては、各人の自由は、他者の自由と相互に依存するがゆえに、自由は目指されるべき唯一絶対の価値とまで見なされることになる。このような奥行きを込めて「我々は自由の刑に処せられている」と宣言されるのだ。
  だが、このレトリカルない一文を、額面どおりに大真面目に捉えてしまうときに誤解が生じる。このフレーズは論理的帰結として引き出される命題ではないのに、命題であるかのように批判が行われるのだ。だがそれは、「雄弁な沈黙」を形容矛盾だと批判するようなものだ。サルトルは「自らに抗して思考する」とも言われるが、それは対義結合をたんなるレトリックを超えて、思考のあり方の根底にすえたその哲学的アプローチを意味するのだ。』(著者―澤田直)

  全体は、平易で読みにくさはありません。ぜひお買い求め下さい。760円(税別)です。 

2005.1.5 武田康弘

   
2005年1月9日
 
 
   
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