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金泰昌-武田康弘の恋知対話  23
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2007年6月24日 武田康弘
    内と外の「同化」 / まとめ

わたしは「他者を自己に同化させる」という考え方ほど嫌らしくおぞましいものはないと思っています。かつて、わが日本は、朝鮮を天皇直属の朝鮮総督腑によって植民地支配しましたが、その思想・手法は、「朝鮮を日本に同化する」というものでした。白樺派の柳宗悦は、1920年にここ我孫子の地から「朝鮮の友に贈る書」」(虐げる人々の方が死の終わりに近い、として日本政府の同化政策を痛烈に批判)を書き、雑誌「改造」、読売新聞、東亜日報、The Japan Advertiserに載せましたが、柳家は官憲に監視されることとなりました。
 「同化」とは、言語に絶する狂気の蛮行であり、謝っても謝っても謝りきれない恐ろしい政策でしたが、それを支えた八紘一宇・大東亜共栄圏をスローガンにした国体思想=天皇教とは、わたし自身にとっても不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵という他ないのです。なぜなら、明治の山県有朋らによってつくられた近代天皇制が廃棄された今もなお、個々人の意思を超越した国家という共同幻想を置く思想は強く生き残り、個人の自由と責任の具現化を阻害しているからです。この人間を底なしの不幸にする様式宗教は、外的価値を個人の内面価値の上に置き、型・様式によって生きている生身の人間を支配する「思想」です。金と物がいくら溢れても、「私」の心の充実=悦・愉・嬉が湧き上がることのない仕組みを生む源泉が、この日本主義というイデオロギーだと思っています。様式による意識の支配ーあるべき型が存在するという想念は、主観を消去するシステムをつくり、個々人から立ち昇るエロースを断ってしまうのです。わたし自身幼い頃から、この「同化」(上位者の意向に沿って個々人を同一・一色の集団と化する)の巧妙な詐術と無言の圧力=集団同調をつくり出し、個人の意識・言動を金縛りにするという環境の中でずっとそれと闘い続けてきました。
 だから、キムさんの書かれた「宇井純さん」の存在は、わたしにとっても大きな心の支えでした。

「生活世界の現場から考え、そこから新しい地平を拓く」というキムさんと共通する哲学の原理を持ちつつも、その上で、ズレ・差異があるのは、とても生産的なことだと思います。新しい世界を拓く「共感・共鳴」が生むエネルギーは、「差異・ズレ」がなければ湧き出ることがないのですから。

キムさんとのこの哲学の対話をわたしは「恋知対話」と命名していますが、一月余りでずいぶんな量になりましたが、このような内容での往復書簡による対話が出来たのは、もしかすると何かの始まりを告げる「事件」かもしれません。哲学の民主化―「哲学する主体は市民である」という理念を具現化していくための試みは、いまようやく緒についたばかりで、ここからはまた道なき道を進むしかありませんが、金泰昌さんという優れた異邦人との出会いは、わたしに限りない勇気を与えてくれます。共に哲学する友を得たことはとても嬉しいことです。キムさんとわたしとの出会いをつくってくれた山脇直司さんにも改めてお礼を言います。どうもありがとう。

金泰昌

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