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金泰昌-武田康弘の恋知対話  20
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2007年6月21日 金泰昌
    徹底的に市民として哲学する立場を大事にする

わたくしも学者だけが公共哲学の中心的役割を担うということには、懐疑的です。公共する主体が学者だけとは話しにもなりません。公共する哲学の主体は一人ひとりの市民であると考えます。しかし学者も市民という位相をもっていますし、それを何よりも重視する学者もおりますので学者と言うだけで一括批判するのはどうでしょうか。今日の反哲学的な日本の知的風土の中で哲学的良識をもちつづけながら、誠実に哲学しつづける学者=生涯学習者=哲学実践者もいらっしゃるわけです。わたくしは哲学する市民を何よりも重視する立場ですが、哲学する学者・官僚・政治家・企業人もあってほしいと思っております。

わたくしは過去の一時期、政治哲学と国際関係哲学の専門学者でありました。しかし現在は一切の大学所属なしの、一私人・市民として哲学するだけです。ですからわたくしがかんがえている哲学=公共する哲学は私人=市民の立場から他者と共に考え、語りあう哲学です。相異なる多様な専門分野の学者=哲学研究者たちもそれぞれの専門分野の枠から脱出して一人ひとりの私人=市民の立場から考え、語りあうという前提条件の相互了解に基づいて発題・質疑・総合討論・発展協議というプロセスを共に体験してきたのです。

わたくし自身は哲学する市民の一人として自分を位置付け・意味付けしているつもりです。わたくしの過去の経歴には学者であった時期もありましたが、現在はあらゆる側面から、学者業界=学会から公認された学者とは言えないですし、そのように言われてもいません。あえて言わせていただけば、在野の好学者=野人学習者です。ですから市民の・市民による・市民のための・市民と共にする哲学としての「公共する哲学」を強調してきたのです。

徹底的に市民として哲学する立場を大事にしているからこそ、白樺教育館の存在とその活動に敬意をはらうのです。そして武田さんを尊敬するのです。わたくしも哲学を大学の独占から解放して、生活世界の公共財に転換していくことが緊急課題であると思っています。哲学を民主化するということが今日の哲学の課題ではありませんか。

より民主的な哲学とは誰もがその気さえあれば哲学することが可能な哲学でしょう。しかし世界中の人々が皆、哲学するようになるのが本当に望ましいことでしょうか。世界中の人々が皆、政治するというのはあまりよいことではないような気がします。何だか急に世界がおかしくなるのではないかと不安になります。政治する人間は数が少ないほうがよいのではないかという気がします。しかし哲学するというのはちがうと考えます。哲学するということは、自分の頭で考え、自分の心で実感し、自分の意志で決定し、自分の身体をもって実践し、自分の人格をかけて責任を負うということです。他者と共に対話し、共働し、そこから新しい次元=地平=世界を拓いて行くというのは普通の私人たち=生活者たち=市民たちの日常生活の中でもいつでもどこでも現実的に必要なことですから、それを出来る限りうまく上手にして行くというのは望ましいことと言えるのでありませんか。ですから世界中の人々が皆、専門哲学者になるのはむしろ、恐ろしいことになるかも知れませんが、哲学すること=公共哲学することはすべての人々にしてもらいたいことだと思うのですが、武田さんはどうお考えでしょうか。勿論、今すぐすべての人々に100%期待するということではありませんし、そうするべきであると強要するということでもありません。しかし、哲学する市民がより多く育まれることを希望するという意味です。本当の意味で哲学する市民が主導する社会が善良な社会ではないかと思いますが、如何でしょうか。わたくしは哲学が切り拓く世界に対して希望をもちたいのです。

金泰昌

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