サイの弾くピアノは、どの曲もみな、豊かな表現とパワーにあふれている。
シリアスな曲も、暗く重く沈むということはない。固さも皆無。
柔軟で、キツさとは無縁で、音は美しさに満ちている。
バッハもモーツァルト(全集)もベートーヴェン(全集)もショパンもサティやドビュッシーも、自作の幾多の曲も、ジャズ風アレンジも、コパチンスカヤとのデュオも、古典から現代まで、千夜一夜物語のような無限に続くうっとりと千変万化の世界が広がり、聴く者にエネルギーが充填される。
西欧音楽を象徴するピアノから、西欧を超えた豊かな世界が広がり、次々と新境地が開かれる。一口で言えば、「キリスト教」という強い宗教(唯一神)の桎梏(しっこく)から解放され、自由でしなやかな生身の人間性が開花しているのだ。活字ではなく、豊穣な語りと歌だ。
いま、心躍るベートーヴェンソナタの後で、バッハのゴールドベルクが流れているが、こんなに楽しく明るさに満ちたバッハは今までなかった。音楽を聴くよろこびと楽しさに大満足~~
21世紀は、新たな時代に。 キツさ、固さ、暗さ、重さ、厳禁の精神、理屈主義から解き放たれ、日々を楽しむ愉悦の時代にしたいもの。総意工夫・臨機応変・当意即妙の羽ばたく知行の世界だ。
攻撃精神ではなく、戦争ではなく、みんな違ってみんないい。許し合いと助け合いの平和の時代へ。差別や特権者(王とか天皇という生れながらの特別存在)がいない、みなが存在として対等・平等の時代に変わらないといけませんね。中心に自由、それを取り巻く理性、すべてを包み込む愛情の「実存の三色同心円」のマークがシンボルです。
サイが作曲し、2001年にトルコで初演した「ナーズムオラトリオ」(クリックで見られます)は、はじめて宗教を超えた実存思想につく見事なオラトリオで、21世紀の幕開けにふさわしいベートーヴェン第9以来の全人類的な名曲です。行動に駆り立てるような強い迫力と、アメリカによる広島の原爆で死んだ7歳の少女への鎮魂歌で、深く魂のやすまる驚くべき音楽です。200名の演奏者と1時間20分の大曲ですが。グイグイ引き込まれてすぐに終ってしまいます。ファイナルは、みながそれぞれ「わたしが生きたといえるために」を歌い、最後に7歳までしかわたしを生きれなかった少女が「わたしが生きたといえるために」を歌います。深い感動で演奏者と数千人の聴衆者は一つになります。もちろんYouTubeを視聴するわたしも。
なお、少女が歌う詩の日本語訳(中本信幸訳)は以下です。
以下は、アメリカCNNテレビ(サイへのインタビュー番組)に書いたわたしのコメントです。
「ナーズム・ヒクメット(トルコの世界的大詩人=無神論者)の詩に少年期より親しんでいたファジル・サイが30歳のとき、トルコの文化庁・文部大臣から依頼されたのが21世紀初年に初演されて大成功を収めた「ナーズムオラトリオ」ですが、
神とか宗教とは無縁の人間賛歌と人間的抒情と人間告発(アメリカ政府と軍によるヒロシマへの原爆投下=人類史上最大の犯罪)で、それは欧米中心の歪んだ文明がもたらした悲劇です。ヒロシマで死んだ一人の少女を謳ったヒグメットの有名な詩=一人ひとりの実存(欧米人のではなく人類の)を中心とする人間性に溢れた深く心をうつ詩に、ファジル・サイは、深く抒情的な曲をつけ、「ナーズムオラトリオ」の中心に据えたのでした。
原爆投下をいまだ謝罪すらしないアメリカは、それゆに第二次大戦後も繰り返し、他国を軍事力で滅ぼしたり、脅したり、数えきれない民間人を殺害してきたのです。自分たちが日常的に人権を犯してきた罪を自覚さえしないのは、人間悪そのものといえます。世界の良心で、言語学の天才=ノーム・チョムスキーの厳しく正しい批判に応えることをしないなら、みなに呪われるでしょう。「自覚した罪は半ば許されている」-何よりも自覚が必要です。」
武田康弘