「白樺派とは何ですか?」
というご質問がありました。
以下は、2009年に出したものですが、お応えです。
学習院時代から文学や思想についての同人誌を出していた3つのグループが、雑誌「白樺」を創刊したのは1910年4月でした。この年の6月、無政府主義者の幸徳秋水が、天皇暗殺を企てたとして逮捕され、無実の罪で死刑が執行されました。この「大逆事件」について、政治には疎い志賀直哉も激しく憤り、政府批判の文章を残しています。また、8月には、「日韓併合条約」が調印され、事実上、日本は韓国を植民地としました。知識人たちは閉塞感に囚われ、政府に近い森鴎外でさえ、自由な文学の創作を諦めて「歴史小説」に限定せざるをえなくなりました。
こうした《天皇制国家主義》が大手を振るう時代に、自ら「異端者」を名乗る彼らが、その出自の特権性を活かして、自由と個性を賛美し、新たな時代を開こうとしたのが白樺派の文化運動だったのです。
千葉県我孫子に移り住んだ柳宗悦、兼子、志賀直哉、康子、武者小路実篤、房子、バーナード・リーチは、毎日のように交流しました。柳宗悦は、1919年に起きた朝鮮の「三.一独立運動」への弾圧=無差別発砲に激しい怒りと深い悲しみを持ち、翌1920年(柳31歳)に、「朝鮮人を想う」を読売新聞に書きましたが、これにより柳は、危険人物のリストに載せられ、官憲に見張られることになったのです。この年から柳夫妻は、朝鮮人を励まそうと幾度も朝鮮に渡り、兼子(リート歌手)は多くの音楽会を開き、宗悦は講演会を催しましたが、この草の根の民間交流は、朝鮮の人々に歓呼をもって迎えられたのでした。「民芸」という新しい思想=運動も、朝鮮の「ふだん使い」の陶器への感動から始まったのです。
若き獅子たちの「白樺派」としての文化運動は14年間で終わりましたが(関東大震災時まで)、その影響は、信州では自由と個性の教育運動として教師たちの間に野火のように広がり、「信州白樺」が発刊されましたし(武者と柳は信州を数十回も訪れ交流した)、近代日本最高の版画家となった棟方志功は、若いとき「白樺」で紹介されたゴッホを見て、「日本のゴッホになる」と決意したのでしたし、そのデビューは、柳に見出されたことによるのです。
さまざまな分野への白樺派の影響は、「白樺山脈」と呼ばれるほど深く大きなもので、概略だけでも書くのは大変です。なお、彼らは、みな極めて個性的ですので、同じ類の作品を他の同人に見言い出すことは困難です。
同人誌「白樺」に集った学習院出身者は、確かに特権的階級でしたが、それゆえに「おぼっちゃん」でしかなかったとは、到底言えません。暗い世相に抗して生み出した文学は、はじめて全文を口語文で書いたものですが、それは、誰でもが親しく読める小説を書くことで「民・文学」の世界を切り開いたものですし、日常品の中に高級品にはない豊かな美を見出し、その思想を世界的なものにしたのが柳の「民芸」運動ですし、平等に基づく自由な表現生活を目がけたのが武者の新しき村=「民・生活」でした。日本最高のリート歌手であり、朝鮮の人々から「声楽の神様」とまで呼ばれた柳兼子は、その音楽も人生も情と愛に溢れたもので、戦時中は軍歌を歌うことを拒否したために活躍の場を奪われたのですが、まさに「民・声楽」「民・人生」の一生でした。
そこに、「甘さ」を指摘し、社会科学的分析の欠如(「おめでたき人」を地で生きた武者の理想主義は、大東亜戦争をすばらしきものと讃えてしまう愚をおかしました)を指摘するのは簡単ですが、暗く重い時代に人間性豊かな思想や数多くの先進的な世界の文化を紹介し(一例・ロダンとの交流で彼から彫刻が贈られたのですが、これが日本に入ったはじめてのロダン彫刻でした)、また、自ら個性豊かな人生を開き、新たな文化を創造した業績は、計り知れない大きさを持ちます。
その内容をどう評価するかは自由ですが、「白樺派」は、日本で起きた最大の文化運動だったのです。匹敵するのは「プロレタリア文化運動」だけですが、これは純然たる文化運動とは言えないでしょう。
以上、ご参考になれば幸いです。
(我孫子市白樺文学館初代館長・武田康弘)