今年は明治150年。明治維新を顕彰するイベントが数多く計画されているようです。
でも、幕末明治に関しては誰もちゃんと教えてもらっていません。
学校の授業ではほとんどパスです。
教科書に書かれていることもどこかよそよそしい内容で釈然としません。
なぜでしょうか。
いろいろと都合の悪いことがあるのです。隠したいこと、でっち上げたこと、さまざまです。
ひとつひとつ挙げ始めるとキリがありませんので、本質的な話に絞ります。
明治維新以降の150年は私たちの魂=精神に一体どんな影響を及ぼしてきたのか、今を生きる私たちにとって何が問題なのか、【150年間の闇】の本質について触れます。
以下に、タケセンの「思索の日記」より2本を転載します。
途中、タケセンと私のやり取りが少しだけ。接着剤のようなもんです(笑)。
個人のエゴと国家エゴの物語です。
エゴイスティックな人、
自分のプライべートな世界が全ての人。
日本では、それは家族主義、家族エゴイズムとして現れることも多いです。
自分が考え行為することの中には、「プライべート」と「仕事」のほかに、「公共的・社会的」な行為もありますが、後者には関心がなく、心も頭も時間もお金も狭い自己にしか使わない人がいます。そういう人がエゴイストです。
閉じた世界で生きていて自他を幸福にしない行為ですが、それがどれほど愚かでいやらしいことかの自覚がないので、いつまでも自我は開放・解放されず、エゴの中でうごめきます。狭い損得の観念に呪縛されているので、悦びや明るさのない自分の人生が、自分自身のエゴの精神によって作り出されてることが分かりません。そういう人は、必ずというほど、他者批判・社会批判をしますが、それは、いつもピント外れです。自覚されないエゴイズムは、「他者を悪者にし批判することで自分のアイデンティティを確立する」という精神構造をもつために、救いがないのです。悪者がいないと自分を保てないわけです。なんとも不幸ですが、自分で気づかない限り一生そのままです。
公共性のあること、公共性を豊かにすること、公共性を生み出すこと(公共性とは役所関連のことではなく、市民の自発的な行為や普遍性のある理念を実現しようとする営み)を考え、行為し、お金や労力を用いているか否か、それが社会人・公共人としての基本条件です。
残念なことに、高学歴者で、いまの政治や文化を批判する人の中には、公共人としての行為をしていない人が多くいます。損得勘定が先立つ「せこい」人で、かえって、保守派で「ふつう」の人(「エリート」ではない人)に、公共性をもつ人が多いように思えます。いわゆる「賢い人」は、自分の労力もお金も出さず、本を読んで理屈ばかりという傾向があります。ヘーゲルの「他者承認」の哲学などを援用し、自らの社会的地位の正当性の根拠にして公共的な責務から逃れ、自分の仕事や趣味にしか取り組まないというのでは、エゴイストというほかありません。
こうしたエゴイズムからの脱出は、他者承認を得ることー社会的な地位を上げることでは果たせません。周囲の価値意識に同調し、他者承認を求める生き方では、エゴイズムから離れるどころか、逆にエゴイズムの固定化=強弁にしかなりません。醜さ、濁り、汚れのエゴイズムから解き放たれて自由で豊かな公共的人間として生きるには、自己の考えを主張する営為が必要です。自分の意見をきちんと言わないと、いつまでもそのままです。
自分が感じ思うことをよく見つめ、自覚して、自己を偽らないことから始め、その自己が感じ、想い、考えることを言葉にする努力が必要です。黙っている人は、いつまでも閉じたエゴの世界から抜け出すことができません。言葉=態度の表明があるとはじめてエゴは、それを批判検討できる可能性をもつからです。何も言わないおとなしい人はエゴイズムとは無縁なのではなく、閉じた人です。それでは、一生涯、エゴイズム(プライベートと「仕事」だけ)にとどまり、開かれた公共世界とは無縁に生きることになります。多くの日本人に見られる主張しない人生は、閉じた生であり、自己の想念を固定化してしまい、エゴイズムの陥穽に堕ちています。エゴイズムからの脱出は、「私」からはじまる人生を生きること、自己を主張するところから開始されるのです。
繰り返しますが、私が感じ、想い、考えることにつき、それを表現すること・主張することがないと、いつまでもエゴイズムの世界から抜けられず、自分も周囲の人も社会も幸福にしません。開かれた「私」がつくる悦びの多い人生が始まりません。自由闊達な精神が育たず、形式や儀式ばかりのツマラナイ生しかつくれないのです。内容ではなく形式が先立つために、勝ち負けにこだわり、上とか下とか=外的価値を基準に生きるほかなくなるのです。競争主義者で、楽しく豊かな人間性をもちません。何より大切なのは、内なる心、内的価値、内的意味充実であるのに、それが分からないのです。
エゴイズムの反対は、集団同調主義や空気を読むことではではありません。それらは、エゴイズムを固定化するアイテムに過ぎません。表面は反対に見えるエゴイズムと集団同調主義は、実はセットであり、同じことの表裏です。
「私」からはじまる人生を歩み、私という個人の意見を育て、私が責任をもつこと。周りの思惑で動かず、がエゴイズムからの脱出の条件です。「私」からはじまる人生を歩むことがエゴイズムの対極にあるのです。個人の自由と責任の意識が弱いとエゴイストに陥ります。しばしば組織人・団体人が見せる悪は、彼らが個人として生きないために、組織エゴイズムに堕ちている証左であり、さらに愛国という名の国家主義は、国家エゴイズムとなるために、言語に絶する悪=人間抑圧や殺害を平気で行うのです。個人のエゴイズムも組織のエゴイズムも国家のエゴイズムもみな人間を不幸にする思想です。「市民みなのために」という公共性をもたないのです。
エゴイズムは、他者を否定し、戦争に至る愚かで想念で、とても危険です。
結語として、以前書いた「『私』の意味本質」(「恋知」第2章)を載せます。
いま、わたしは「自分自身から発し」と書きましたが、この「自分」=「私」から発するという言い方は、多くの哲学・思想関係の研究者が誤解・混同しているように、エゴイズムにつながるものではまったくありません。こういう混乱が生じる原因は、「私」という言葉を、存在と所有の二面を区別なく使う習慣にあります。存在とは≪豊かさ、優しさ、愛らしさ、強さ、大きさ・・・≫のことですが、所有とは≪知識、履歴、財産の量≫のことですので、次元を異にする概念です。
「私」から発する・「私」を中心に考える・「私」の関心と欲望から始まるという思想を、【所有】という意味で見れば、確かにエゴイズムに陥るほかありません。俺は専門知識の所有者だからふつうの人間より優れているとか、金品・財産を多く持っているから人の上に立つ人間だとか、高い学歴・職歴を所有しているから、あるいは政治権力を持つ人間だから偉いというような想念は、おぞましいエゴイズムそのものです。
しかし、「私」の健康な心身をつくる実践・「私」の主観性の知を鍛える営み・「私」が憧れ想う世界への探求・・・・「私」の【存在】を優れた魅力あるものとする努力という意味で「私」につく・「私」から始まる・「私」の関心と欲望と言えば、それは、人間の生の基盤=原理であることが了解されるでしょう。善美を憧れ求める心は、「私」からしか始まりようがなく、「私」に位置づくほかにありません。この簡明な原理中の原理を明晰に自覚することで「自他の存在」は始めて意味づき・価値づきます。美辞麗句や衒学哲学や上下倫理という人心支配のインチキ思想ではなく、自他の存在を深く肯定できるほんものの思想は、「私」からしか始まりようがないのです。
最後に重要な事実を。
存在のよさを目がけるという意味での「私」につくことは、その子(人)の【存在】が肯定されていれば、誰でもが始める自然な行為です。その子(人)の関心と欲望が否定されたり、操作誘導されたり、閉じ込められたりせず、自由意志が尊重され、心身全体で愛されれば、人は、誰でも「私」の存在を優れた魅力あるものにしようとする営みを始めます。怠惰で醜い存在にはなりませんし、知識、履歴、財産の【所有】の量によって威張る愚か者にもなりません。
古林:
なるほど!
人が個人のエゴイズムに堕していく姿がとてもよくわかります。
それに、「集団同調主義や空気を読むことがエゴイズムを固定化することになる」、
という指摘にも合点。
【自己主張=エゴイズム】という勘違いの構図もとても明瞭でした。
【所有】と【存在】の区分けができていない、というよりは【存在】としての人を見る目に欠けているのでしょうね。
ただ一つ、今、ナショナリズムが蔓延しつつありますが、それを支える国家エゴと個人のエゴとの関係についてもう少し説明があるとうれしいですね。
一体どのようにして個人のエゴが国家エゴに変身していくのか?
武田:
お答えしましょう。
以下、「明治維新がつくった精神」について触れます。
何がよいのか、ほんとうなのか、と問うことなしに、
自己の利害損得、
家族の利害損得、
所属する組織や団体(学校・会社・役所・組合・サークルなど)の利害損得、
自国の利害損得、
に固執して、「閉じた」世界に生きれば、それはエゴイズムです。
個人エゴイズム、家族エゴイズム、組織エゴイズム、国家エゴイズム。
明治政府の富国強兵政策は、一人ひとりの私の欲望を愛国主義のもとに国家への欲望として統一し、滅私奉公を合言葉にしましたが、これは、広く世界に開かれた関心・興味・欲望ではなく、日本に閉じた関心・興味・欲望でした。
日本国家という概念は、あくまで言葉=概念ですから、それを目に見えるものとする必要が、天皇とその家族=皇室でした。日本を象徴する特別な人間・家族を置くことで、国体という概念を子どもにも分からせようとする政策で、小学1年生から天皇像を毎日拝ませ、日本国への忠義の心=愛国心を養ったわけです。
「閉じている」というのがエゴですが、個人のエゴを開かせるのではなく、閉じたまま国家レベルに拡大するのが「国家エゴイズム」です。明治以降、よく「日本に哲学なし」といわれるのは、私を開いて、普遍性のある「よい」を探求する営みがなく、私を国へと拡大して利害損得を求める日本のありようが必然的に生みだす精神です。
だから、公(おおやけ)と呼ばれる国家(天皇や皇族はそれを象徴する役割を担わされている)と、閉じた私(エゴ)はセットですし、
開かれた私(普遍性を目がけるわたし)と公共性(市民みなのという意識がつくる社会性)はセットです。
私を活かさないと(開かれた私でないと)公共性はつくれませんし、逆に、公共性を生むためには、開かれた私である必要があります。
後者を現実のもとのするには、幼いころより自分で考え・意見をもてるようにする子育てが必要です。自分が何かをした、どこかに行ったという「事実」ではなく、自分はどう思い、いかに考えるか、それをどのように語るか、という「意味」充実の世界がつくれないと、「はじめの一歩」が歩みだせないのです。
戦前の国家エゴイズムは、戦後は個人エゴイズムになりましたが、このエゴイズムの不毛性からの脱却は、これからの最重要な課題と思います。
明治維新の深く大きな負の遺産を清算しないと、日本の未来が開けませんし、一人ひとりの幸福はつくれないでしょう。