ある日のソクラテス教室・大学生クラスの光景です。
今回は【人権思想】を取り上げてますが、現代社会の基本中の基本の考え方三点セットの一つです。
他の二つも是非、ご覧ください。
【国のカタチ】173.『森友学園』騒動は、国のカタチを揺るがす大問題
【人権思想】 174.人権思想の淵源は、宗教や哲学ではなく、幼子の存在です.
以下はブログ【思索の日記】2017-03-12 | 恋知から。
昨日の大学クラスでは、同時代人であるルソーの「自然人」と安藤昌益の「真人」との重なりと違いをやりました。
(『中江兆民と安藤昌益』安永寿延著1978年レグルス文庫から))
そこから、話は広がって、
《人権思想の淵源》の考察となりました。
強い一神教であるキリスト教を下敷きとして持つ「人権」の概念は、人類普遍の、とは言いますが、そこには超越神の存在を置く宗教的信念が隠されています。
わたしの、人権思想の淵源についての見方は、欧米のキリスト教思想とはまるで異なりますので、そのお話をしました。
それは誰にも、どこの国の人にも納得できるとおもわれる話です。
人権という思想の淵源は、赤ちゃん・幼児の存在です。
幼子は、生まれた瞬間から「個性」をもち、泣き方もみな違います。その一人ひとりの命は、かけがえのないもので、他の誰とも取り換えることのできない命です。金持ちや有名人の家に生まれた子も、貧乏な家に生まれた子も、そこには上下はなく、価値に少しの差もありません。赤ちゃんは、みなが大事で尊い存在として生まれてきたのです。これは、特定の思想や宗教とは何の関わりもなく、子を持つ親が誰でも自然に感じ、思うことです。子を守り育てようとする心は何よりも深く大きいです。固い言葉で言えば、この心にこそ「究極の普遍性」があると言えます。わが子のない人も、そこが淵源であることは十分に了解できるはずです。病的に歪んだ人でない限り、幼い命に対する思い=愛情は、みなに共通しています。
ここに「人権思想」の淵源があり、特定の宗教や哲学に淵源があるのではありません。だからこそ、人権とは、決して侵すことのできない人類普遍の原理なのです。自由も平等も博愛もみな、〇〇主義や〇〇宗教ではなく、自然な人間の想いや感情から生まれますので、人権とは、幼子への心身全体による愛情を淵源とすると言えます。そこから自ずと立ちあがってくる思想です。
一神教的でも、共産主義でも、安倍首相らの戦前思想=国体思想でもなく、自然な人間の感情から生じる世界共通の人の想い、それがほんらいの人権思想の淵源だというのがわたしの考えです。
一人ひとりのかけがえのない人間=「個人」の尊厳、みな「唯我独尊」として生まれてきたことの自覚、それが人間が人間として生きる上での土台となる考えです。