白樺教育館学芸員の楊原(やなぎはら)さんによる市民活動の成果が東京新聞2013年1月15日夕刊の一面トップの記事になりました。
戦時下、一韓国人である伊東柱(ユン・ドンジュン、韓国詩人)は朝鮮語で詩を書いただけで投獄され獄死したわけですが、彼はまぎれもなく、日本の『国家主義‐帝国主義』の犠牲者でした。記事は、楊原さんが、これまでわからなかった伊東柱の下宿先を東京の高田馬場であることを特定した、というものです。
この記事をめぐって白樺MLでのやり取りをタケセンが『思索の日記』で取り上げました。
戦前の状況に酷似してきた今日の問題についても言及し、大変興味深い内容ですので、このページでも取り上げることにしました。
以下は、タケセンの思索の日記からの抜粋です。
なお、参考までに、楊原さんが以前、寄稿してくれた『講演会「『道〜白磁の人』の歩みと想い」を聞いて』 も併せて掲載します。楊原さんは実際に韓国に赴き、浅川巧(たくみ)の墓にも行かれたことがあります。写真とともに、お楽しみください。
注): 『道〜白磁の人』は(柳宗悦(やなぎむねよし)とともに民芸運動を推進した)浅川巧の半生を描いた映画です。私たちの多くが近現代史を学ばずに来てしまいました。この時代が描かれた貴重な映画でもあり、何よりも、巧のピュアな魂に触れることができます。機会があれば是非ご覧になってください。(巧に焦点が当てられているせいでしょうか、宗悦の描写は軽すぎ、共に働いた柳兼子が登場しないことには少々物足りなさも感じますが、そのあたりは皆様の想像力で補っていただければ、と思います。)
以下は、白樺MLです。
みなさま
昨日今日と、詩と詩人についてやりとりしていたのとピッタリのタイミングで、
今日の『東京新聞』夕刊の一面は、治安維持法で逮捕されて獄死した(警察組織に殺された)韓国の詩人―尹東柱(ユン・ドンジュ)さんについての記事でしたが、
それは、わが白樺同人―『白樺教育館』学芸員の楊原さんの成果の紹介でした。
一面トップで詩人の話題とは、さすが『東京新聞』ですが、楊原さんの長年の地道な活動が実ったもので、すばらしい!!
いま、複写しましたので、添付します。
武田康弘
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武田様、古林様
ありがとうございます!
ヨンさま ならぬユンさまの追っかけおば(あ←トル)さん楊原です。
以前、我孫子の駅前で、取材を受けたことがある記者さんがあれ以来、毎年2月の立教での集いのお知らせを都内版に書いて下さり、当日のアンケートを見ると、多い時で40人が「東京新聞を見て参加」になっていました。
今年は下宿のことがあるので、大きな扱いになりびっくりしています。
尹東柱は朝鮮民族として暗黒の時代に、
名前を奪われ、
言葉を奪われても絶望せず、
変節も沈黙もせず、
自らが正しいと思う道を真っ直ぐに歩み、誇らしく民族の言葉で詩を書き続けました。
詩を書く営みの中で思考を重ね、普遍的な価値を問い続けていたのでしょう。
長い年月を経てもその詩の言葉は色褪せることがありません。
今、時代の記憶を運ぶ風となって私たちに大切なことを示してくれているような気がします。
少しずつでも、尹東柱の詩や生涯を通して、歴史の真実に真摯に向き合う人が静かに増えて行けば嬉しいです。
このような時代にはとても大切な存在だと思っています。
楊原
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武田です。
彼は、日本の国家主義=帝国主義の犠牲者です。
彼と同様に、日本人にもアジア人にも、明治政府がつくった「近代天皇制」という思想の下で抑圧され殺された人々が大勢いました。
「ポ ツダム宣言」受諾による敗戦は、【人権と民主主義】という人類的な普遍的をもつ原理による【国家主義】からの個々人の解放をもたらしましたが、「自由と責 任の意識を育てる教育&実践で自治政治を現実のものとする」という原則が貫かれなかった為の混乱を、戦後民主主義を否定することで乗り越えようと宣言する 首相が誕生する事態にまで至っています。
いよいよ安倍首相のブレーン、「反・人権宣言」の著者で国家主義者の八木秀次氏が、官邸の教育再生委員となり、テレビ出演しました。
彼ら(安倍氏、橋下氏、八木氏ら)は、今回のイジメ自殺問題への批判でも「人権」という言葉は一度も使いません。「人権という思想」には依らないという確信犯です。
このイジメ自殺問題を利用して(厳しく対応することで)国民の支持を得、そのままナショナリズム教育(「人権思想」を否定し「日本国民の常識」につくべきだと明言)へと走ります。現『日本国憲法』の全面廃棄へと一歩一歩進みます。
このような状況の中で、いま、近代日本における【社会主義】の意味と意義を再考することは、重大な意味と価値をもちます。黒岩比佐子さんの絶筆『パンとペン』(堺利彦の「売文社」の闘い)は、目を開かせてくれます。社会主義とは、教条化した理論ではなく、国家主義(帝国主義)への対抗思想だったことを知れば、その価値は計り知れない大きさをもちます。
社会主義には、徳富蘆花の君主制社会主義、有島武郎の博愛主義社会主義、仏教 社会主義、キリスト教社会主義、ロマン社会主義、唯物弁証法(マルクス主義)社会主義、民主社会主義(資本主義内社会主義)と、いろいろですが、いずれも 個々人の対等と自由を主張し、博愛の精神を持ち、国家主義による画一的な統制(自国主義・愛国心の強制)を批判するものでした。「国家主義vs社会主義」 と捉えると分かりよいと思います。その意味では、現在の中国の共産党一党政治は、社会主義とは呼べないはずです。また、北朝鮮の世襲による権力などは論外 です(わが日本も実際上は世襲です)。
国家主義者の思想に合わせて彼らの都合のよいように教育と政治を行う「悪」と 闘う人間性豊かな思想を社会主義と呼べば、なるほどなるほど、とその思想と行動の意味が分かります。それにしても、わが日本の近代天皇制下のおぞましい暴 力(警察・憲兵隊・軍隊)には背筋が寒くなります。「国体思想」とは実に恐ろしきもの。
旧日本軍(皇軍)の体罰→学校教育・部活における体罰は、個人の尊厳を消し、「私」からの出発=人権を否定するもので、許し難いものですが、
安倍氏や橋下氏や八木氏らの体罰批判は、それが勝つために効果がない、という無用性からの批判であり、また、日本の評判を落とすという観点からの批判にすぎません。
楊原 泰子
7月29日、我孫子アビスタで「『道〜白磁の人』の歩みと想い」という講演会が開かれました。講師は日韓合作映画「道〜白磁の人」松本上映をすすめる会副代表李春浩(リ・チュノ)さん。柳宗悦・兼子の碑をつくる会、千葉県日本韓国・朝鮮関係史研究会が主催しました。
「道〜白磁の人」は今年6月に封切られた浅川巧(あさかわたくみ)の半生を描いた映画です。
浅川巧は1891年山梨県北巨摩郡高根町に生まれました。6歳上の兄浅川伯教(のりたか)が朝鮮の小学教師になり、巧も山梨県立農林学校を卒業し、大館で林業に従事した後、1914年に朝鮮総督府農工商部山林課に就職し、朝鮮の荒廃した山林緑化復元の為に力を尽くしました。
同年、兄伯教が我孫子の柳宗悦を訪ね、その時に土産として持参した「李朝染付秋草面取壺」を見て柳は朝鮮の陶器の美しさに惹かれ、その後朝鮮を訪れるきっかけになったといわれています。
1915年には巧も兄とともに我孫子の柳宗悦を訪ねました。やがて巧は林業試験場の仕事のかたわら、柳が提唱した「朝鮮民族美術館建設運動」に尽力しました。林業上では「露天埋蔵発芽促進法」の発見によってチョウセンカラマツの養苗に成功し、大きな業績を残しました。
朝鮮の人々と文化を心から愛し、その生涯を捧げました。自身の給料の中から貧しい子どもたちを援助していました。のちに柳宗悦が「彼は明確な頭脳と温かい目との所有者ではあった。しかしそれらを越えて私を引きつけたのは、その誠実な魂であった。彼程自分を棄てることの出来る人は世に多くはない」と語りました。
浅川巧は1931年4月2日、急性肺炎により41歳の若さで亡くなりました。葬儀には彼を慕う多くの朝鮮の人々が参列し、競って棺を担ぎました。現在はソウル郊外の忘憂里の共同墓地に眠っています。日本の敗戦後荒れた墓はその後、巧の遺徳を知る韓国林業試験場の人たちの手で修復されました。墓碑には、ハングルで「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれています。
ソウルで陶磁器店を営む鄭好蓮さんを中心に、韓国人と韓国に住む日本人がともに参加する「浅川巧先生を想う会」は、1995年から毎年4月の逝去日近くに忘憂里墓地での墓参を続けてきました。
浅川巧のことは日韓の歴史教科書にも取り上げられています。 また、山梨県北杜市には浅川伯教・巧兄弟資料館が2001年に開館しました。
李春浩さんは講演で、日本統治時代、朝鮮の人々と、真の友人として交わり、朝鮮の植林事業に生涯をささげた浅川巧の仕事や人々との触れ合いを描いた映画「道〜白磁の人」を作ることにかけた深い想いと映画完成までの紆余曲折、さらに今後の夢を語りました。
李春浩さんは長野県松本市在住ですが、今年9月末に7回目を迎えた「渡来人まつり」を主催する「信州渡来人倶楽部」の世話役としても活躍しておられます。
日本統治時代、多くの日本人は朝鮮の人々や文化を意味もなく蔑視していました。そんな中で、浅川巧は外的な価値観に惑わされることなく、真に善きもの、真に美しいものを求め、それまで見向きもされなかった朝鮮時代の陶磁器や工芸品の価値を正しく評価しました。
朝鮮半島の陶磁器や木工品は、古来よりわが国に渡来し、多くの影響を与えてきました。日本人や日本文化は、決して独自に形成されたものではありません。米作を初め多くの文化は朝鮮半島を通って渡ってきました。私たちは朝鮮半島を通じて、大陸から大きな恩恵を受けてきたのです。
悠久の歴史に想いを馳せ、歴史の真実を知るとともに、よき隣人であろうと努めた浅川巧の想いを受け継いでいきたいと願います。