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  • 144. 歴史を学ぶことの意味
        尖閣(釣魚島)と竹島(独島)問題の背景ー説明と結語

     現在進行中の領土問題ですが、メディアでは様々な取り上げ方がされています。かなり感情的であったり、一面的な捉え方だと感じている方も多いようです。
     この問題、教育上の大きな問題とも密接に絡んでいると考えますので、取り上げることにしました。

     いうまでもなく、私たちが歴史を学ぶ意味は、基本の史実を知り、そこから意味をつかみ取り、そしてより良い社会を構想することにあります。どうもその基本を踏み外しているような気がしてなりません。
     かくいう私(古林)自身もこの領土問題をきっかけに、戦後の日本の出発点とも言えるポツダム宣言カイロ宣言降伏文書の中身を初めて読むことになりました。情けない話です。基本的な事実すら知らずにいたのですから。

     領土問題の背景にある基本的な史実をしっかり捉え、それがどのような意味を持っているのか、そしてどうしたらよいのか、基本中の基本の話ですが、タケセンがその良い一例を示していますので、以下に紹介します。これをきっかけに、より突っ込んだ創造的な議論が始まることを切に願っています。

     なお、言うまでもないことですが、現実世界の問題を語る時に絶対正しい答というのは存在しません。あるのは、どの考えがより優れているか、です。より良い考えを一人一人、皆で考えてみようではありませんか。


    尖閣(釣魚島)と竹島(独島)問題の背景―説明と結語 (タケセンの「思索の日記」 より)

     尖閣(釣魚島)問題は、前のブログにも書きました通り、中国蔑視の感情を持 ち続ける一人の権力者・石原慎太郎東京都知事が日中国交40周年に合わせて仕掛けた罠に野田首相が嵌(はま)ったことから大騒動に発展しました。中国との約束を反故にして尖閣を国有化したために、中国人の「反石原」で留まっていた感情は「反日」へと変化拡大してしまったのです。

     これによる国民益損は計り知れないものです。政治を主権者である市民の「一般意思」ではなく、政治家個人が持つイデオロギーで行うのは民主主義の否定ですが、それは国を大厄災に投げ込みます。私たち日本人は、戦前の「天皇現人神の国体思想」に基づく強権政治・軍国政治でイヤというほど経験済みです。

      また、竹島(独島)については、すでに半世紀以上に渡って韓国が実効支配していますので今さら話題になるはずはないのですが、李 明博(イ・ミョンバク)大統領が人気取りのために島に渡ったことが大きく報道されて騒動に発展しました。

      すでにブログに書きましたように、この韓国、中国との領土問題が生じる原因は、わが国の明治維新後の政府による【強権】(戦争による領土拡張戦略とそれを支えた天皇教)と、第二次世界大戦へと続いた中国侵略にはじまる15年戦争の敗戦 (『ポツダム宣言』受諾―『降伏文書』への署名)という厳しい現実に対する【認識の甘さ】にあります。

     何より必要なのは、わが国は領土について大きな顔ができる立場にないことの自覚です。慎重に考え、対処しなければなりません。

     

     それでは、まず尖閣諸島(釣魚島)ですが、歴史的には台湾に所属していたことは各種文献から明白です。琉球王国(「明」が承認した独立国)からは遠くて海流も逆ですので、古代の木造船で行くのは至難でした。また、中国の版図には15世紀から釣魚島として記載されています。

     明治になり、伊藤博文は日清戦争時に日本領として編入したのですが、その経緯は以下の通りです。
    1885年(明治18年)に明治政府(山県有朋)は、閣議で魚釣島(尖閣諸島)を日本の領有とすることを否定しています。 この年の9月に沖縄県令(今の県知事)の西村捨三は、内務卿の山県有朋宛ての報告書で、
    「魚釣島は大東島とは地勢が違う し、中国の記録が多くあり、冊封船(さくほうせん/中国が承認した国の船)が通っていて島に詳しく、それぞれに中国名もついている。日本領という標識を立てるのは待った方がよい(要旨)」
    と 記しています。
     これを受けて山県有朋は井上馨外務卿 に相談しますが、井上は
    「調べるのはよいが、右 島嶼(とうしょ)(魚釣島)に、国標を立てるのはよくない、清国の疑惑を招 く。また島を調査していることを官報並びに新聞に掲載してはいけない(要旨)」
    と応えました。
     それを聞いて山県は、1885年の閣議で魚釣島の日本領有を否定 したのです。

      ところがその10年後、日清戦争の末期に皇軍の勝利が確実になった時点で (1895年・明治28年1月14日)突然、伊藤博文は「標杭建設の義」を決定し領有に踏み切りました。
    「久米島魚釣島と称する無人島へ向け近来漁業等を試むる者有。之為取締を要するに、付ては同島の議は沖縄県所轄と認めるのを以て、・・・・明治二十八年一月十四日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文」。

      その後、わが国は日露戦争、第一次世界大戦参戦、シベリア出兵、満州侵略に始まる15年戦争(日米開戦による第二次世界大戦へ)と連続して戦争を行い、最後に 『ポツダム宣言』を受諾して敗戦します。ポツダム宣言はアメリカ、中国、イギリスの三カ国による13項目の宣言で、日本の抵抗は、「連合国による日本全土の完全な破壊を意味する」と書かれ、「カイロ宣言は履行されるべきものとし、日本国の主権は本州、北海道、九州および四国、並びにわれわれの決定する幾つかの小島に限定される」とされました。

     ここで問題なのは、尖閣(魚釣島)が沖縄と台湾のどちらに帰属するかですが、敗戦まで日本支配下の台湾で警備府長官だった福田良三は、釣魚島が自分の管轄区内(「台湾州」の管轄)であったことを認めています(余談ですが、福田良三さんは、わたしの主宰する『愉しい哲学の会』の中心的参加者である清水光子さん(82歳)の実父です)

     なお、琉球王国は、1879年(明治 12年)に明治政府による【琉球処分】 (琉球王朝廃止・王族の全員逮捕・琉球を認めず)で沖縄と変えられたのですが、それまでは中国と盛んに交易し「琉球の大航海時代」が続きました。
     以下は9月28 日のブログです。  

     「琉球(沖縄)と中国は500年間の交流をもちます。1372年に琉球王朝を明が承認してから定期的に交流をもってきました。魚釣島(尖閣諸島)は福建省から琉球への途次に航海の目印として使われていたことが中国の古文書に記録されています(一番古いものは1534年5月8日)。  
     1609年に薩摩が琉球を侵略してからは明と薩摩の「両属」となります。薩摩の兵隊は(明は琉球に軍隊を置きませんでした)明の役人が来ると平服に着替えて隠れるようにしていたと記録されています。
     薩摩は、琉球が中国と江戸の橋渡しをしていた(琉球の「大航海時代」と呼ばれる)為に交易物(物や情報)を得るのが目的で来ていたのです。琉球は、中国と日本の仲立ちをしていましたが、この盛んな交易は1879年(明治12年)に明治政府による【琉球処分】(琉球王朝廃止・王族の全員逮捕・琉球を認めず沖縄と呼称)まで続きました。」

     

     では、次に竹島(独島)問題に移りま す。  

     竹島は、極めて小さな島で二つに分かれています。周囲の岩礁を含めても0.21平方キロメートルしかなく、大きな岩の塊でしかありませんので、歴史的にはこの島自体が領有権争いの対象とはなりませんでした。90キロメートル離れた鬱陵島(うつりょうとう)へ行くために寄る(天候悪化時の待場)か、そこで漁をする場として知られていたわけです。  

     それがなぜこれほどの問題になっているのかと言えば、明治の日露戦争時に桂内閣が日本領に編入したのと韓国支配がリンクしているからです。  

     民主的な運動に対する弾圧者として知られる桂太郎は、陸相を歴任し、三度首相を務めた人ですが、彼は、日清戦争に勝ち日露戦争(1904年2月〜1905年9月)を戦っていた1905年(明治43年)1月28日に、閣議で竹島を日本領に編入することを決めます。これは、島根県でアシカ漁を営む(短期間でしたが) 中井養三郎が政府に提出した『りやんこ島(竹島)領土編入並に貸下願』を受理したことによります。最初は内務省が書類の受付を拒否しましたが、外務省の山座政務局長が助力して受理されました。  

     明治維新後の1877年(明治10 年)に政府は「竹島外一島(たけしまほかいっとう)本邦関係無之」と決定し、島根県庁に通達を出していた(ここでいう竹島とは現在の鬱陵島のことで、竹島外一島が現在の竹島)のですが、日本海での海戦を有利に進めるために竹島を領土に編入することが急務だと考えてのこと でした。

     この竹島編入をキッカケに、同年 (1905年)の11月に伊藤博文は、韓国皇帝の高宋(コジョン)と政府高官を脅して「第二次日韓協定」に署名させました。 拒否できないように王宮前に日本軍を配置し、武装デモンストレーションで威嚇して嫌がるのを無理に調印させたのです。外交権を奪い内政も左右し実質的に韓国を支配したのですが、これは「無法の一語に尽きる」と評されるように、伊藤と駐韓公使・林権助の筋書き通りの陰謀でした。それから5年後の1910年8月に「天皇の直轄地として日本に併合」したのですが、この年5月に日本では「大逆事件」(社会主義者を撲滅するために仕組まれた国家の権力犯罪)が起き、罪のない無政府主義の思想家・幸徳秋水らが捕らえられ、翌年1月に24名の死刑判決が下りました。なお、権力・権威におもねない個性と自由尊重の同人誌『白樺』が創刊されたのもこの年、1910年です。  

     次に地理的な話しですが、鬱陵島はかなり大きな島で面積は72平方キロメートルあり(伊豆大島より一回り小さい)、竹島までの距離は90キロメートルですから、伊豆大島からならば御蔵島までと同じです。竹島は日本側からは隠岐から170キロメートルですので、二倍近くの距離があります。この鬱陵島をめぐっては江戸幕府の『竹島(いまの鬱陵島のこと)一件』の判決で、 朝鮮領であることが確定しています。竹島(当時は松島と呼ばれた)については、鬱陵島に行く途中にある小島ということで鬱陵島の属島と認識されていたようです。  

    竹島=独島問題入門
    小雑誌ですが、とても内容の
      濃い本です。
    安価(840円)ですので、興味
      ある方は是非購入を。

     なお、この竹島をめぐる問題の詳細に ついては、外務省発行のパンフレット 『竹島』(ネットでも見られる)と、それへの批判である『竹島=独島問題入門』 (内藤正中島根大学名誉教授著)の双方を読まれることをお勧めします。  

     近代史を知ると、竹島は、韓国側から見れば日本の韓国侵略の象徴であったために彼らにとっては死活問題であることが分かります。  

    日清・日露_集英社版
    集英社版『日本の歴史』
    これは第18巻.
    大変優れた本です。高価ですが、
    ときどき全巻が中古で売られています.

     わたしがここで書いた歴史的経緯は、 主に集英社版の『日本の歴史』(全21巻+別巻)に依っていますが、近現代史は、歴史研究者の本を読むほどにわが国が犯 した罪の深さを実感します。
    「非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそう した危険に陥りやすいのです。」
    というドイツのヴァイツゼッカー大統領の言葉を皆のものとしなければ未来は拓けないと思います。  

     以上、わたしは、尖閣と竹島問題の歴史的経緯の「事実」を踏まえた 「本質論 =意味論」を記しましたが、そこから導かれる結論はシンプルなものです。
     以下は 10月3日のブログです。

     「まず、尖閣(魚釣島)については、中国側から「棚上げ」を打診してきているのですから、これを受け入れるのがベストです。40年前の国交回復時から「棚上げ」でしたが、「棚上げ」は日本にとって有利な話です。棚上げして共同事業を立ち上げれば、大きな利益が生まれます。日中の経済交流は今よりもずっとスムースに進み、日本の国民益(国益)は莫大なものとなるでしょう。  
     また、韓国が実行支配している竹島については、韓国領として承認するのがよいのです。そうすれば韓国の対日観は大きく変わります。韓国の日本歓迎は予想を超えたものとなると思います。これによる心理的・経済的効果は計りしれません。すでに韓国が実行支配している小島を韓国領として認めるだけでよいのです。 そのかわりに漁業権を認めてもらうように交渉するのです。  
     わが国が領土問題で余裕のある利他的態度を示せば、近隣諸国は日本を高評価します。それがもたらす倫理的・心理的・政治的・経済的効果は予測を超えたものとなるはずです。日本への評価は一変するでしょう。 わが日本の市民と政治家と官僚は、ぜひ、大胆な発想の転換で領土問題を乗り越えようではありませんか。危機は何よりのチャンスです。  
     男のヒステリーほど危険でおぞましい ものはありません。冷静な理性と人間性豊かな愛の心をもちましょう。上手に国際的なネットワークを築くことがどれほどの利益を生むことか。イデオロギーではなく、豊かな現実の果実を目がけたいものです。 」  

     私は、領土問題の核心は明治政府(〜 昭和)のアジア侵略への反省を通じて新 しいアジアとの交流をつくりだす点にあると考えますので、その視点から以上の文章を書きました。人生や社会問題では、「絶対的に正しい見方」は存在しませんから、 何をどう考えどう対処したら優れた友好を創造できるか、それを考えることが何よりも大切です。

    2012年10月18日 武田康弘


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