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白樺教育館

 
 

実存として生きる

市民大学 『白樺フィロソフィー』 と民知の理念

武田 康弘
「民知」とは・・・「深い納得を生む民衆の知恵。それは、生活世界の体験に根差す知。」
 ※武田康弘(元・白樺文学館館長、現・白樺教育館館長)の造語
再び統合する魂と肉体
ブレイク(1805年)

 「生活世界」の中から新しい意味と価値をつくりだそうとすること。 日々見慣れたもののなかに新たな〈意味〉を見いだし、生活の中に小さくとも新しい(価値)を生み出してゆこうとすること。
  それが人間が人間としての悦(よろこ)びをもって生きるための条件だ。
  新たな意味と価値の予感の中に生きることを、私は、「実存として生きる」と呼ぶ。

 そのような生は、硬化した社会システムとはなじまない。
  なぜ? どうして? なんのために? 
 意味と価値を問うことは、必然的に既存(きぞん)の社会システムの固定化、マンネリ化を許さないからだ。実存としての生は、序列意識や権威主義とは相容(あいい)れない。

 権威主義者は、序列と所有にこだわる。過去や過去の価値に拘泥(こうでい)する。しかし本当に問題となるのは〈今〉だ。未来への希望と現在の充実であり、過去ではない。 過去はこの今の判断に節度と落ち着きをもたらすために役立つが、それ自体が目的とはならない。過去の事実を知り解釈することの意味は、エロス豊かな未来を生み出すためにのみある。

 未来は誰にとっても未知のもの。今の一刻一刻の行為〈考え・判断〉が、未来を決定してゆく。今の、未来へ向けての投企のありようが、〈私〉という人間をつくってゆく。この未来への投企を促(うながし)し、支える知が「生きた知」である。

 生きた知は、具体的経験としての意識の流れからつくられる意味に満ちた知だ。 生成変化してゆく事象や精神をそれとして直截(せつ)に見ようとする。具体的な課題-問題、疑問-問い、関心-欲望から出発するこの知は、生きるパワーとエネルギーを生み出す 認識 である。

 それに対して従来の知一学問は、終わったもの一出来上がったものから過去を解釈する「死んだ知」でしかない。既成の概念(がいねん)と範疇(はんちゅう)から出発する強制された記憶の集合物にすぎない。そこでは死んだ言葉=文字言語が崇拝され、権威的システムによって決定された過去の記憶が「学問」と言われる。学者の世界でいう創造とは、既存の概念と情報のパッチワークのことでしかない。このスタティックな理屈の膨大な建造物=知の廃墟は、人間の生を抑圧し、頭を不・活性化させてしまう。概念化が手段ではなく目的となるために、直観=体験能力が衰弱してゆく。やがて、言葉上の矛盾の指摘や辻褄(つじつま)合わせが知的な作業だと思い込むようになる。言葉‐概念の操作が、具体的な体験の悦びを越えた「エロス」に昇天(しょうてん)する。

 この理屈‐形式‐知識による陰湿な知の支配に終止符を打つのが、新しい生きた知=実存としての生を支える知だ。一人ひとりの個人の生を勇気づけ、元気づける知だ。東大と官僚の官知による支配‐序列意識をその根元から裁ち切る知だ。

 市民大学『白樺フィロソフィー』は、深い納得を生む意味に満ちた知をつくりだすための機関である。意識の深層に届き、黙(もく)せるコギトー(自己意識)に答える新しい学問は、生活世界の具体的経験の明証性から出発し、またいつでもそこに立ち戻ることのできる民衆の知=民知だ。この民知イコール広義の哲学は、民主制を要請し、逆にまた民主制を支える「知」でもある。

  従来の学問は、学的世界という特殊な環境の中でしか生きられない脆(ぜい)弱で非人問的な知の体系にすぎない。権威と学の伝統という鎧(よろい)に守られていなければすぐに潰(つぶ)れてしまう。
  もはや私たち市民は、意味のないスタティクな知の殿堂=廃墟に呪縛(じゅばく)されている必要はない。より大きな普遍性、(ふ)に落ちる知、民知の探求に乗り出そう。

 出来上がった建造物や社会制度や人間精神や・・・・を見て結果を解釈する従来の知がつまらないのは、死んだもの‐輪郭(りんかく)線に過ぎず、実存としての生にとっての有用性がないからだ。テストゲームと他者を支配すること以外には役立たない干乾(ひから)びた惰性的(だせい)な知だからだ。やればやるほど生気を失う。輝きやツヤが消えて、溌剌(はつらつ)とした魅力が奪われてゆく。
 事象や生の原理にまで降り、創造の只中(ただなか)に立って生成のありさまを見、知る生きた知、広義の哲学=民知には形式ばったもの、儀式めいたものは何もない。豊かな内容が自(おの)ずと形をつくり、また変えてゆく。囚(とら)われがなく、軽やかで、刺激的。ざっくばらんで、真剣で、愉(たの)しい。やればやるほど元気がでて、勇気が湧いてくる。

 『白樺フィロソフィー』は、21世紀を担う新しい生きた知=民知をつくりだそうとするエロス溢(あふ)れる試みだ。それは、実存としての生を支える広義の哲学、新たに意味論としてつくり直される全ての「知」である。    

〔2000年8月6日 武田康弘〕
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