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「生活世界」の中から新しい意味と価値をつくりだそうとすること。 日々見慣れたもののなかに新たな〈意味〉を見いだし、生活の中に小さくとも新しい(価値)を生み出してゆこうとすること。
そのような生は、硬化した社会システムとはなじまない。 権威主義者は、序列と所有にこだわる。過去や過去の価値に拘泥(こうでい)する。しかし本当に問題となるのは〈今〉だ。未来への希望と現在の充実であり、過去ではない。 過去はこの今の判断に節度と落ち着きをもたらすために役立つが、それ自体が目的とはならない。過去の事実を知り解釈することの意味は、エロス豊かな未来を生み出すためにのみある。 未来は誰にとっても未知のもの。今の一刻一刻の行為〈考え・判断〉が、未来を決定してゆく。今の、未来へ向けての投企のありようが、〈私〉という人間をつくってゆく。この未来への投企を促(うながし)し、支える知が「生きた知」である。 生きた知は、具体的経験としての意識の流れからつくられる意味に満ちた知だ。 生成変化してゆく事象や精神をそれとして直截(せつ)に見ようとする。具体的な課題-問題、疑問-問い、関心-欲望から出発するこの知は、生きるパワーとエネルギーを生み出す 認識 である。 それに対して従来の知一学問は、終わったもの一出来上がったものから過去を解釈する「死んだ知」でしかない。既成の概念(がいねん)と範疇(はんちゅう)から出発する強制された記憶の集合物にすぎない。そこでは死んだ言葉=文字言語が崇拝され、権威的システムによって決定された過去の記憶が「学問」と言われる。学者の世界でいう創造とは、既存の概念と情報のパッチワークのことでしかない。このスタティックな理屈の膨大な建造物=知の廃墟は、人間の生を抑圧し、頭を不・活性化させてしまう。概念化が手段ではなく目的となるために、直観=体験能力が衰弱してゆく。やがて、言葉上の矛盾の指摘や辻褄(つじつま)合わせが知的な作業だと思い込むようになる。言葉‐概念の操作が、具体的な体験の悦びを越えた「エロス」に昇天(しょうてん)する。 この理屈‐形式‐知識による陰湿な知の支配に終止符を打つのが、新しい生きた知=実存としての生を支える知だ。一人ひとりの個人の生を勇気づけ、元気づける知だ。東大と官僚の官知による支配‐序列意識をその根元から裁ち切る知だ。 市民大学『白樺フィロソフィー』は、深い納得を生む意味に満ちた知をつくりだすための機関である。意識の深層に届き、黙(もく)せるコギトー(自己意識)に答える新しい学問は、生活世界の具体的経験の明証性から出発し、またいつでもそこに立ち戻ることのできる民衆の知=民知だ。この民知イコール広義の哲学は、民主制を要請し、逆にまた民主制を支える「知」でもある。 従来の学問は、学的世界という特殊な環境の中でしか生きられない脆(ぜい)弱で非人問的な知の体系にすぎない。権威と学の伝統という鎧(よろい)に守られていなければすぐに潰(つぶ)れてしまう。
出来上がった建造物や社会制度や人間精神や・・・・を見て結果を解釈する従来の知がつまらないのは、死んだもの‐輪郭(りんかく)線に過ぎず、実存としての生にとっての有用性がないからだ。テストゲームと他者を支配すること以外には役立たない干乾(ひから)びた惰性的(だせい)な知だからだ。やればやるほど生気を失う。輝きやツヤが消えて、溌剌(はつらつ)とした魅力が奪われてゆく。 『白樺フィロソフィー』は、21世紀を担う新しい生きた知=民知をつくりだそうとするエロス溢(あふ)れる試みだ。それは、実存としての生を支える広義の哲学、新たに意味論としてつくり直される全ての「知」である。 〔2000年8月6日 武田康弘〕 Top |
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