「知る」とは?=土門拳の言葉をヒントに(授業の一コマ)
識別したり、覚えたりすることは、『知る』こととは違います。
では『知る』とは何でしょうか?
写真家の土門拳が次のようなことを言っています。
「例えば、松の木を写そうとする場合、ただ漠然と松をフレームに掴み、それが構図的にいくらまとまったものになったとしても、それだけでは非常に弱い概念的な松しか写すことはできない。
松が生えている大地、すなわち土台を抜きにしては一本の松といえども、地上に生えているものとしては成立しないのである。どこに、どのように生えているのか?ギョロリとよく睨み付ける。モノを正確に、的確に捉える目がないならば、一本の松といえども写すことはできないのである。
われわれがモノを知るとは、なまやさしいことではない。
概念的に知っているだけではダメだ。概念を飛び越えて深く、深く知らなければダメだ。君の胸をゲンコで打ち感じ知るように知るのである。ゲンコで胸を打たれた以上、知るということが単に概念的に知るということではないのである。われわれが知るということに向かって、思い切って胸を開いて、「どすん」と立ち向かうのである。一直線に!である。
迷いなしにである。知るということは、そういう迷いのない一直線でない限り、ああ!果たせないのである。」(要旨―文責は武田)
知るとは、識別することや覚えることとは違うのです。概念的に知るだけの今の「知」では、知の意味は希薄になり、悦びは生じません。五感の全体で感じ知る「知」がないと、事実学と情報知だけの愚か者になってしまいます。
以上は、「愉しい哲学の会」と「高校・大学クラス」での授業の一コマです。
blog タケセンの『思索の日記 2005/11/29』から
2006年5月7日
武田 康弘
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