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「民芸」の意味と価値=
「民知」を了解するためのヒント

 上流階級の生活の奢侈遊惰は、得てして病的な趣味に走るが、質素単純な働く生活は健やかである。民芸品は、このような民衆に用いられる故に、健やかな性質をおのずからそなえるようになるのだ。だから、現代のように民衆の生活の乱れた時代には、健やかな民芸品は生まれ得なくなるのである。
  民芸品の安価という特徴は、そのまま美の条件となっている。安くなければならないという要求が、質素で単純で健やかな美しさを導き出したのである。
  現代の「安かろう悪かろう」という現象は、工芸の変質と堕落によって起こった。資本万能主義が、職人の仕事を軽蔑し、工人を搾取し、手仕事を圧迫し、機械文明が民芸を破壊した歴史にともなって、この現象は顕著になってきた。安かろう悪かろうは、歪んだ誤った人間社会によって植えつけられた悲しむべき常識だ。安価と美とが強く結ばれている民芸の世界は、人間と社会の健全な姿を反映している。

  民芸品は実用品である。その機能はまずなによりも実用によって規制される。鑑賞性を本旨とする美術作品とは明確に区別される。しかし、実用という概念をせまく限ってはならない。そこには、物理的な用だけではなく、心理的な、生活の精神面に仕える用も重要な要素として含まれている。宗教的な行事や遊戯のための用もある。
  使いやすい品物は、生活に悦び(エロース)を与える。使いやすさは、無限の豊かさを生じさせる。健康を増す。さらに積極的な感覚の悦びを誘う要素が加われば、実用性は、さらに豊潤となる。色や形や装飾は、心理的な用を高める重要な要素だ。よき実用品=ほんものとは、このような物心両面の用を満たし得るものを言う。用と美の一致とはこのことをさすのだ=「用 即 美」。
  実用品の人為的ではない、使われるうちに生じる自然な変化は、ものの美しさをいっそう深いものにする。茶人はこれは「味」と呼んだが、それは生活に黙々と奉仕する品々に対して、用が報いた絶妙の思いやりなのである。

  「理論でものを見るようになってはいけない。すぐに直観が曇ってくるからである。直観さえ純に働けば、誰だとて民芸美を即座に見抜くことができる」(柳宗悦)現代は、事実学としての知の時代であり、人間に本来そなわっている直観の力は、はなはだしく衰えている。美を、また物事の真実を見る眼が、浅い知によって覆われている時代である。私たちはその悪弊に染まって、「知」を「見」に先立てる慣わしから抜けることがきわめて難しくなっている。この失われた本来の力を回復するのに、民芸の世界はもっとも身近で有意義な場を提供してくれる。知識や調査や研究はすべて後でよい。ただ見ること。そして「見」の後に働く「知」は、そのことを考える興味を生む。見てその後で「考える」ことが意味の濃いほんらいの知(民知)を生む条件である。

 健康な人は健康の尊さに気付かず、無事の生活のなかでは平常なるよさを見逃してしまうのと同じく、また、病におち有事が出来てはじめて失われた健康や無事の貴重さを知るのと同じく、民芸品の美は、病的で有事の頻発する現代になって、ようやく人々の認識を呼び覚ましたのだ、と言える。
  古人の惹かれた「わび」の最も基本的な性質は、奢りに心を奪われず、虚飾に走らず、謙虚で親しみやすく、尋常な心がそのまま表出されていることだ。構えたり、作ったりする有事はそこにはない。これは無事の相である。
  単純さは、複雑な迷いを誘わない故に無事である。物事をあからさまにし、誰にも理解しやすくする。複雑さがしばしば奥深く感じられるのは、実は深いのではなくて、濁っているのである。濁りは有事だ。単純さは明澄でさえぎるものがなく、無事である。
  健やかさは、病んでいない故にもとより無事そのものだ。病は人間にとって大きな有事である。精神の病はさらに不幸な有事であることを、現代人たる私たちはよく知っている。健やかさこそもっとも尊い無事に他ならない。かくして、民芸の美は、無事の美と言い換えることができる。

・〔下線部分は武田による付け足しであり、民知は武田の造語です。〕
『近代の美術』11号(1972年刊・水尾比呂志編)より一部文章を変えて抜粋
  ― したがって文責は武田
 ―

2006年5月2日
武田 康弘

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