手に入れたばかりのブレイクの版画を『とわの会』の面々に説明する武田.
2001年 開館当時の白樺文学館ホール(12枚のブレイクの版画).
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● 誕生秘話 ●
2.ブレイクの版画柳宗悦夫人・兼子さんによると、宗悦は晩年になっても、ブレイクの詩を寝言(英語)で呟いていたとのことですが、そこからも分かるように、柳は、詩と絵画(石版画)を融合させた大胆なまでに自由な幻視者であったウイリアム・ブレイクを生涯愛し続けたのです。 当時は、本国のイギリスでもブレイクについての研究は「危険」なことであり、ブレイク賛美など出来る状況にはありませんでした。性とキリストに対する自由な見方は、異端であり、ブレイクは危険人物、ないし「狂人」とされていたからです。 そのような状況の中で、1914年、柳は我孫子に来てすぐに『ウイリアム・ブレイク』を発表しましたが、この弱冠25歳の若者によって書かれた大著(778ページ)は、後に、世界水準を抜くブレイク論として高く評価されることになりました。 「創造の地―我孫子」というコンセプトの下につくる『白樺文学館』においては、我孫子白樺村の最初の来訪者(※注)であった若き柳宗悦の心を占め(ブレイクが柳か、柳がブレイクか、とまで評されもした。)また、生涯にわたって伴侶であり続けたブレイクを展示することは必須のことです。そこで、わたしは文学館をつくるとき、ブレイクの石版画を探し歩いたのですが、偶然にも2000年7月の神田の古書祭り(「古書七夕大入札会」)で、驚くほど安価にブレイクの版画集を入手することができました。その版画集(WATER‐COLOUR DESIGNS FOR THE POEMS OF THOMAS GRAY)は、100枚を超えるものですが、そこから一つの章12枚を選び、額装し(柏市のいしど画材店に依頼)、文学館の玄関ホールに飾ったのです。建築会議で建築士たちに版画を見せ、文学館の玄関ホールの壁の仕上げと色は、いぶし銀の額に収めたブレイクの版画に合うように決めたのでした。 ところが、わたしが館長を辞した後、ブレイクの版画は外され、この壁面には竹久夢二(大正ロマン主義の象徴)の絵が数枚飾られることになりました。いまは、白樺派の面々が写った特大の写真パネルが飾られていますが、どちらにせよ、これでは白樺派の魂―精神を見せることにはなりません。内的意味の希薄な「文化」は現代に生きる力を持たず、ただの飾り物に過ぎない、そう言う他ないのです。とても残念です。 日本人画家の絵を展示するならば、白樺同人の南薫造か有島生馬、また著名な画家・版画家では白樺派と密接な関係にあった岸田劉生か梅原龍三郎、棟方志功のものとすべきです。もし竹久夢二の絵を展示するならば、大衆的な人気を得、生馬が追悼の辞を呈した画家ということで、参考として一枚、それが良識というものでしょう。現在の「白樺文学館」のように、一室全部を夢二の絵で飾るというのは、元・オーナーであった佐野力さんの個人的な趣味に過ぎず、普遍性を持ちませんし、公共性にも欠けます。
2009年 5月2日 武田康弘 |