白樺教育館 教育館だより 目次
 
 

柳兼子と我孫子と

2002・12・28 於・我孫子アビスタホール
松橋桂子
1.私と我孫子
2.柳宗悦との出会い、我孫子での生活
3.舞台へ
4.白樺派との交流
5.経済基盤の破綻
6.リート歌手へ
7.朝鮮との出会い
8.我孫子を去る
松橋桂子
撮影:飯村和夫

1.私と我孫子 

 皆さんこんにちは。本日は柳兼子ゆかりの地で、その実像を語る機会を与えていただきまして、大変光栄に思っております。私が今、喜び勇んでここに居るのは、柳兼子の業績を知っていただきたい事に尽きます。柳兼子と言えば「白樺派の文人で民芸運動の創始者柳宗悦(やなぎむねよし)の妻であり、声楽家であった」と、括(くく)られています。音楽関係者や兼子ファンを別にすれば、一般的にはその様に認識され、我孫子でも長い間そうだったのではないでしょうか。「それはそれで間違いではないのですが、それだけで括るのはちょっと待って…」というのが、本日の私のテーマの一つです。

 「白樺派」の我孫子での活動の様子は、近年明らかにされてその再評価もなされつつありますが、その中で柳兼子がどう評価されて来たかを見てみましょう。
  ここに1977年4月の『朝日新聞』の千葉版があります.
「湖畔にて…ふるさとの人々」との連載記事ですが、その6‥柳宗悦・バーナード・リーチ、7…は志賀直哉(しがなおや)です。その内容は、志賀直哉の代表作『和解』の慧子(さとこ)の死の場面にK子さんの名で登場する兼子の話など、つまり「白樺派」やリーチの我孫子時代の思い出話が半分近くを占めていますが、兼子は柳宗悦の妻としての、たんなる脇役に過ぎません。「何たることか!」と兼子ファンとしては、慣懣(ふんまん)やる方なかったのでしたが、よく考えてみれば、実情が知られていないのですから当然のことだったのです。

 私の知る限りのことですが、我孫子で柳兼子について改めて触れられたのは、90年10月開催の、中央学院大学オープンカレッジ講座「手賀沼周辺の地域史」で、我孫子市史研究センター会員の品田制子(しなだせいこ)講師による「柳田国男・白樺派と女性史…武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)夫人房子と柳宗悦夫人兼子を中心に…」ではなかったでしょうか。多分この直前の頃、品田さんが私の著作『柳兼子音楽活動年譜』(日本民芸協会・87年刊)を読まれて、電話を下さいました。実はこれが、私と我孫子との縁の始まりです。この2年後の92年10月に開かれた「手賀沼を愛した文人展…白樺派と楚人冠(そじんかん)たち…」は、地域住民の協力が礎(いしづえ)となって、地元の美術館と百貨店が支え、新聞社が主催し、手賀沼の浄化再生の願いをこめた地域文化の大イベントとして、1万人の人々が入場したと伝えます。柏高島屋の会場には、柳兼子のコーナーがあり、数枚のLPレコードや演奏会のポスターが展示され、パンフレットには2ペ−ジを割いて柳兼子の紹介がなされていました。私も品田さんの勧めで「柳兼子…芸術家として妻として母として」と題してパンフレットに書かせていただきました。

柳兼子伝
楷書の絶唱 柳兼子伝
松橋桂子著 株式会社水曜社
3500円+消費税
普通の本屋さんにはあまり置いてないと思います。民藝館にもないとか・・・

詳しくは
【民知の図書館 7. CD《永遠のアルト 柳兼子》 および 『楷書の絶唱 柳兼子伝』 松橋 桂子 著】 を参照.

 この時の一文が武田康弘さんの目に止まり、私を探して下さったのです。それは2000年春のこと、武田さんは「白樺文学館」設立に向けて資料集めに奮闘中でした。武田さんは、私の著作『楷書の絶唱 柳兼子伝』を読まれ、お譲りした柳兼子の数枚のLPレコードを聴かれて、それまでは武者小路実篤・志賀直哉・柳宗悦・バーナード・リーチの4人を柱に作ろうとしていた「白樺文学館」に、急遽(きゅうきょ)柳兼子を加えて下さいました。遂(つい)に柳兼子も主役の一人です。クラシック音楽にも造詣(ぞうけい)の深い武田さんは、兼子の歌唱力を高く評価されて、2001年2月に開館した「白樺文学館」の地下の視聴室では、常に柳兼子の演奏が流され、ユニークな文学館としてのスタートを切られたのでした。それは柳兼子の一研究者として、またファンの一人としてどんなに喜ばしい事だったでしょう。しかし館と武田さんとの関係は長くは続かず、武田さんが「白樺文学館」を拠点に文化活動をし始めたことを、館の個人メセナが「よし」とはしませんでした。武田さんは、より純粋に「白樺スピリット」を生かす教育と学芸を実践するために、「白樺文学館」と袂(たもと)を分かち「白樺教育館」を設立されました。その設立記念のこの「会」へ、友人の相川 マチさんと芦田 田鶴子(あしだたずこ)さんと一緒に参加できることは、私の願ってもない喜びだったのです。前置きが長くなりましたが、我孫子における柳兼子の受容経過と、私と我孫子との関係について、ざっとお話し致しました。

2.柳宗悦との出会い、我孫子での生活 

 さて、柳兼子は1892年に生まれ、1984年に92歳で亡くなられた日本を代表するアルト歌手でした。初舞台を踏んだのは18歳の時、公式演奏最後のリサイタルをなさったのは85歳の時ですから、その演奏活動歴は、実に70年近い長期にわたります。ご存命の時から「声楽界の草分け」「明治・大正・昭和の生きた声楽史」と言われ、「日本の声楽の母」「わが国声楽界の至宝」と称えられていました。最晩年には女流で初めて芸術院恩賜(おんし)賞を受賞し、芸術院会員入りも声楽家としては初めてでしたが、社会的な評価に反して声楽界の主流に置かれてはいませんでした。時流におもねることなく、自らの歌唱を追及し「知る人ぞ知る」存在であり続けました。「知る人」を引きつけて止まなかった兼子の歌唱は、稀有(けう)な才能とその生き様に求められましょう。柳兼子の92年間の生涯を、この場で駆け足でお話することも可能ですが、せっかく我孫子に来たのですから、本日は兼子の我孫子時代を中心に話を進めたいと思います。

 兼子が学習院高等科を卒業したばかりの柳宗悦に逢ったのは1910年3月で、東京音楽学校本科2年に在学中の17歳の時でした。同年4月には学習院の卒業生・学生の中の文学好きの人達によって同人雑誌『白樺』が創刊され、兼子は直ぐその読者となります。兼子が宗悦との愛を確認し合ったのは10月末、それから3年4か月の交際の後、東京音楽学校研究科(現在の大学院修士過程)を卒業に2か月残すのみで退学して、14年2月4日に結婚しました。時に兼子は21歳、宗悦は24歳の春のことでした。

 青山原宿で7か月過ごしたのち、2人は同年9月のはじめ我孫子町南作(通称天神山・現在は緑1丁目9番13号)に転居します。我孫子には宗悦の母勝子(かつこ)の末弟嘉納治五郎(かのうじごろう)の農園と別荘がありました。嘉納治五郎は講道館の創設者として近代柔道の草分けとなり、教育界で活躍された方ですが、隣接する1000坪の土地を弟に勧められて購入した勝子は、家を建てて宗悦の姉直技子に財産分けをしていました。直枝子(すえこ)は夫加藤本四郎を舌癌(ぜつがん)で失い、行く行くは勝子とこの家で暮らすつもりでいましたが、谷口尚真(なおみ)と再婚したため空き家になっていて、新婚の2人が留守番代わりに住むことになったのです。宗悦は、母屋から一段低くなった所に自ら設計した書斎を新築し、執筆活動に専念します。
 手賀沼の北側に張り出した高台に建つ家は、我孫子一の景勝に恵まれ、庭には樹齢三百余年と推定される椎(しい)の古木が3本聳(そび)え立ち、この家を「三樹荘(さんじゅそう)」と名付けたのは嘉納治五郎でした。我孫子の“白樺コロニー”は、ここからスタートが切られます。

三樹荘
手賀沼を見下ろす現在の三樹荘
(村山氏宅)
[白樺便り]2001年 4月 8日
1. 三樹荘(旧柳宗悦邸)訪問
を参照.

 兼子は「三樹荘」を初めはとても気に入っていましたが、見るものは無いし、聴くものはないしで、とても淋しかったとも語っています。家庭を切り盛りする兼子にとって、電気・瓦斯(がす)・水道はなし、石油ランプで明りをとり、車井戸で水を汲み、井戸端で洗濯をし、マキを割って風呂を焚く…という生活は手間暇かかりとても不便でした。店と名のつくのは駅のそばに大福餅(だいふくもし)をこしらえている菓子屋が一軒と豆腐屋、手賀沼の我孫子よりにうなぎ問屋、街道から少し入った所に缶詰と福神漬ていどより置いていない乾物屋が一軒あるだけで、自給自足の農村地帯の典型的な別荘暮らしであったわけです。

 兼子は四ッ谷にある双葉高等女学校の音楽教師として週に1回出講し、そこを辞めた後も、音楽界とのつながりをつけるために毎週1回は東京に出て、友人の家を借りて声楽のレッスンなどをしていました。その折りに上野駅界隈で食料品を買ってはバスケットに詰め込んで帰ります。当時は我孫子と上野間は1時間15分かかりました.終電車は我孫子に11時ちょっと前に着きます。駅から「三樹荘」まで兼子の足で20分はかかりました。街道からちょっと脇道に入って沼のほとりに出るまでが大変です。今からおよそ90年前のそのあたりの様子を、兼子自身に語ってもらいましょう。
 その道は木が繁っていて、足元が悪いんだけれども、足元見ていちゃだめなんです。 道(みち)がわからない。だから梢(こずえ)を見る、そうすると、こちらの木とあちらの木と、道のところはスーッとそこだけ星が見える、それをにらんで帰ってくるの。足はいつつまずくかわからないです、木の根やなんか出ていて。それを出るとお墓に出る、新ぼとけがあるときには、白張提灯(しらはりちょうちん)に灯がともっているときなんって、もう化物屋敷のところを通るみたい。それから脇を通って左の方へ少し下の方に焼場があって、こちらは桑畑があって、そうすると私の所の門があるんです。若い時分よくあそこ通ったなと思って、感心しますね。宗悦は、ご機嫌のいいときには、途中まで迎えに出てきてくれるんですけれど、ときどき汽車が遅くなっちゃって、帰れなくなってむだ足さすと、さあ、あとご機嫌とりなすのがたいへん。」(『柳宗悦全集』月報5)

 現在の我孫子からは想像もつかないような情景ですが、兼子はこうした環境の中で我孫子の生活を送っていたのでした.
 我孫子転居直後の兼子の仕事の一つは、年末に刊行された宗悦の最初の本格的な著作『ヰリアム(ウィリアム)・ブレーク』の校正をすることでした。イギリスの詩人でもあり、画家でもあったブレークを宗悦に紹介したのは、イギリスの陶芸家バーナード・リーチでしたから、この著作はリーチに捧げられています。

3.舞台へ 

 同年12月6日に兼子は帝国劇場の舞台に立ちます。東京音楽学校で4年先輩にあたる山田耕筰(やまだこうさく)が声をかけてくれたのですが、山田はベルリン国立高等音楽院に4年近く留学し、この年1月に帰国しました。山田は留学中に作曲したオーケストラ作品の初演のために、海軍軍楽隊、三越少年音楽隊、東京音楽学校と宮内庁楽部の有志を集めて、80名からなるオーケストラを組織して自ら指揮をとりました。その成果が「東京フヒルハルモニー会第十四回演奏会」で、サブタイトルに「恤兵(じゅっぺい/金銭や品物を送って、兵士を慰問すること )シンフォニー音楽会」とあるのは、この年7月28日に第1次世界大戦が勃発し、日本も参戦したことに因(ちな)んでいます。
 日本の管絃楽曲創作の歴史は、この時演奏された山田耕筰の二曲の「シンフォニー」から始まります。山田はそれにワーグナーの楽劇『ローエングリン』の「前奏曲」と、ビーゼーの歌劇『カルメン』から「ミカエラのアリア」と「ハバネラ」をプログラムに添えました。独唱は前者が永井郁子(ながいいくこ)、後者は柳兼子です。
 兼子の独唱した「ハバネラ」(恋は野の鳥)は、この前年に開かれた白樺社主催「大音楽会」で、兼子が日本人による初演を担(にな)った曲ですが、当時はまだ婚約中でしたから“中島かね”の名でピアノ伴奏で歌いました。今回はオリジナルのオーケストラ版の本邦初演となりました。“柳兼子”の名で初めて聴衆の前に立った演奏の批評を見ますと、「案外小ざっぱりと美しく唱われたがアンコールの時声が涸渇(こかつ)した感があった、今少し情熱が欲しい」とあります。あまりかんばしくない批評ですが、兼子は80名のオーケストラをバックに独唱するには、音量不足だったのでしょうか。いいえ、ただベストコンディションではなく、やがてこの世に生まれる長男が、母の胎内でこの演奏に立ち会っていたからでした。

 何もない我孫子での初産を心配した宗悦の母勝子の意を汲んで、兼子は原宿の家に移り、1915年6月29日に長男が生まれて、宗理(むねみち)と名付けられました。我孫子に戻った兼子は、赤ん坊をおぶいながら、お風呂の火を焚き付けながら「アーアー」と発声練習をしたり、仕事がリズミカルに進むから、と長唄の「さらし」の合いの手を入れて井戸端で洗濯したりする生活がしはらく続きました。殆ど家で原稿を書いている宗悦の仕事が、滞りなく進むようにと兼子は一番神経を使います。
 当時は、日本の洋楽演奏家の誰もが、自主リサイタルを開く状況にはなく、東京音楽学校で開かれる演奏会に出演するか、音楽鑑賞会の企画に乗るか、グループを作って演奏活動をするか以外に方法がありませんでした。学校から離れて真に自由の身になった兼子ではありましたが、演奏活動については、暗中模索の状態が続きます。

 「ハバネラ」を歌ってから演奏活動は約1年半の空白を置き、宗理が伝い歩きを始めた頃、「帝劇オペラ」出演の話が舞い込んで、兼子は1も2もなく引き受けたのでした。「帝劇オペラ」は11年7月に始まり、翌年8月にイタリアのローシ夫妻を指導者に招き、「ローシの帝劇オペラ」と銘打って興行してきましたが、観客動員が思うようにいかず、片や第1次世界大戦勃発と日本の参戦に興行界は危機感を持ち、帝劇も経費削減を理由に洋劇部の廃止を決定しました。兼子の出演したプランケットの喜歌劇『古城の鐘』は、「帝劇オペラ」の解散公演で、1916年5月26日に開かれました。公演のサブタイトルには「第一次大戦のドイツ軍侵入によるベルギー・セルビアの救済募金」とあります。
  兼子の役は漁師グレニシュー、男装で舞台に立ったのですが、相手役は七代目松本幸四郎の守銭奴(しゅせんど)ギヤスパール。兼子は語ります。
 私が古城の中に忍び込んで、沢山飾ってある鎧の中に身を隠して、守銭奴がお金を勘定しているのを見ている役だったんです。そして幸四郎さんとデュエットするんでございますけれども、幸四郎さんなんて歌は歌えないんでございましょう。それが、実に調子よく合わせてくれました。うまいもんでございましたねえ。芸の力というものは大したもんだと思いましたね。」(『毎日新聞』72年2月9日)。

 監督ローシは「初舞台なのにこんなにやれるとは」と絶賛しましたが、兼子の感想は  
後味がわるうございました。こんなちゃちなことをやっていると思ったら気持ちがもやもやしてきて、これじゃいけない、本当にやって取り返さなくちゃいけないと思って後でローシの連中が帝劇から移った赤坂のローヤル館へ、友人の原信子さんもいましたから二度が三度稽古を見に行きましたが、中の様子を見て、私の生活できるところじゃないとつくづく感じまして、それきりピッタリ行きませんでした。」(『葵』65年8月10日)。

 兼子が当時の日本オペラ界に失望した理由は2点あります。
  1つはレコードを通じて知る世界一流のオペラ歌手を精神と生活の両面から真の芸術家として尊敬している兼子にとって、ローシの率いるオペラ・コミックは低いレベルのいわゆる芸人社会と映り、それと芸術を結びつけては考えられなかったこと。
  もう1つは、ローシと原信子が特殊な関係と噂されるような楽屋裏での生活が、宗悦と結婚している自分の身を置く所ではないと思ったからです。

 兼子の歌唱力、演技力の確かさ、直ぐその役になり切れる資質、想像力の豊かさ、そのどれをとってもオペラ界で相応の活躍は期待できたことでしょう。しかし、ローシのローヤル館は1年4か月で閉館し、歌い手の多くが娯楽性の強い「浅草オペラ」へ流れていった歴史をみれば、兼子がオペラ界で活躍することは、しょせん無理なことだったのでした。だから兼子は、この我孫子時代にリート歌手として生きる、と目標を定めたのではないかと思います。

4.白樺派との交流 

  新婚間もない志賀直哉・康子夫妻が宗悦に勧められて赤城山から移り、我孫子町雁明(がんみょう)(通称弁天山)に居を構えたのは、1915年9月のことで、兼子が宗理を出産して我孫子に帰った直後の頃でした。翌1916年12月には志賀直哉の勧めで武者小路実篤・房子夫妻も我孫子町根戸の志賀直哉所有の土地に家を新築しました。「柳君、居ますか」とバーナード・リーチが「三樹荘」に突然現れて、兼子を喜ばせたのも、12月のことでした。リーチはかつて白樺同人にエッチングを教え、準白樺同人的存在でしたが、ウェストハープという音楽美学者の教育論に共鳴して北京に移り住んでいました.宗悦はこの年8月10日から10月15日まで朝鮮と中国に旅行し、北京に住んでいたリーチに再会します。リーチとウエストハーフとの間の軋轢(あつれき)を知った宗悦は、リーチに日本へ戻り制作に専念するようにと強く勧めたのでした。

 翌1917年に入って、「三樹荘」の庭にリーチの釜と仕事場建築が始まり、三月に完成します。リーチは家族を青山原宿に住まわせ、週4日は柳家に寝泊まりして仕事をするようになりました。リーチ釜完成の間近い2月18日に、兼子は青山原宿の家で次男宗玄(むねもと)を出産しました。同年七月には志賀家にも次女留女子(るめこ)が生まれ、我孫子白樺コロニーは、子供たちも交えてとてもにぎやかになりました。
 兼子は後に志賀直哉夫人康子と我孫子時代をなつかしんで「あの頃は楽しかったわね」と語っていましたが、次の話は、私たちにも好んで聞かせて下さった我孫子時代のエピソードの一つです。
 谷を隔てて向こうの山の木陰(こかげ)に志賀さんの家、こちらの高台に私の家があります。我孫子はその時分物が何もありませんでしたからね、東京から来たお客さんがお土産を持ってきて下さるでしょう、するとね、志賀さんが「オーイ、うまい菓子がきたぞ−食べに来いよ−こねえか−」と言うのね。で柳が私に「おヽ志賀の所にうまいお菓子が来ているって、さあ行こうぜ」ってね、子供二人連れてでかけていくの。
 またある時は柳がねTオーイ、肉があるぞー晩飯食いにこねえか−」って叫ぶの、すると「あ−」って返事があって、やがて志賀さんが赤ちゃんを半纏
(はんてん)でおんぶしてね、奥さんは提灯を持って、雪解けの道をよい所を選って歩いて来るの。そんなこと始終でしたよ。
 志賀さんは柳に言えない愚痴
(ぐち)でも、歌舞伎の話でも何でも聞いて下さいました。私の 顔色を見て「兼子さん、どうしたい?」って志賀さんがお尋ねになって、「これこれ揉(も)めて、また…」と言うと、「あヽ、晩に一緒に飯食おう」とおっしゃってね、私どもを呼んで下さって、それで大概は消えてしまいましたね。(兼子からの聞き書き)

 食事を共にしたのは、週に四日は我孫子で作陶しているリーチは言うまでもなく、武者小路夫妻も同様でした。武者小路は著作『ある男』の中で「昼めしか、晩飯は、大概柳か志賀の処(ところ)で食った。志賀や柳も時々来たが、彼が二度ゆけば一度来る位のわりであったろう。そうして毎日逢っていた。」と記しています。
 こうして白樺同人が家族ぐるみで行き来の繁(しげ)くなるのは言うまでもありませんが、訪れる客も共通の知人が多いから、三軒を連れ立って渡り歩くことになります。兼子の記憶によれば、有島武郎(ありしまたけお)も一晩とまられ、外国から一時帰国した郡虎彦(こおりとらひこ)も二泊して宗悦と語らっていたと言います。来客の多くは、たいてい一・二泊して行きました。
 お客は大概11時頃に我孫子に着く汽車で来ます。兼子は「さあ、お昼の食事あげなくちゃね」といって、お豆腐屋に片道二十分かけて買いに出かけます。お菓子は駅前に大福餅があるだけ。だからいつも「あんかけ豆腐と大福でした」と笑いながら語っていました。
「結婚して一番有り難かったことは、柳の友人とも親しくつきあえたことです」と後年兼子が語るように、こうした交流の中で、芸術家として人間として兼子が学んだことは計り知れません。

5.経済基盤の破綻 

 兼子の実家「中島鉄工場」は、祖父の兼吉が創業し、隅田川に架かる厩橋(うまやばし)の東詰(ひがしづめ)・本所(ほんじょ)にありました。兼子の名前は戸籍上は平仮名の「かね」ですが、この祖父の名の一字「兼」をもらって付けられました。祖父の後を継いだ兼子の父隆道は、慶応義塾に学んだ学者肌で、経営者タイプでは在りません。その上、経営の一端を担った弟が派手な遊び人で、鉄工場の金を使い込んで経営をますます悪化させ、資金繰りに困った弟と支配人が、兼子の両親の知らぬ間に鉄工場を抵当に入れていたのでした。
 宗悦は、父からの遺産を次兄の関係していた第六銀行へ一端入金して、「中島鉄工場」に融資を計りましたが、入金直後に銀行は取り付け騒ぎを起こして潰(つぶ)れました。こうして宗悦の財産が失われると同時に、「中島鉄工場」も倒産してしまったのです。
 気丈な兼子の母屋寿(やす)は、差押えを免れた機械類を売却し、転居先を決めるまで漕ぎ着けましたが、心労から心臓麻痺を起こして四十八年の生涯を閉じました。それは、兼子が次男宗玄を生んで二か月も経っていない時のことでした。
 宗悦と兼子の経済基盤は崩れました。宗悦は身内のやった事でもあり「どうせこれは自分で稼いだお金じゃない、きれいさっぱりと諦めて再出発しよう」と不満は何も言わなかったのですが、兼子にとっては、遺産を失ったきっかけが実家を救う為だっただけに宗悦に対する負い目となりました。兼子が本腰を入れて演奏活動を模索するのも、この頃からのことです。

 兼子が演奏活動や個人レッスンをするには、我孫子はあまりに不便だったからでしょう、1917年12月に麹町(こうじまち)区富士見町に一軒家をかりて活動の場を広げていきました。しかし、活動を展開すればするほど、兼子の我孫子へ帰る余裕が失われていきます。それを宗悦は、兼子の情のない我儘(わがまま)な態度と取りました。二つの家をつなぐ電話は勿論なく、筆不精でのんびりしたところがある兼子は、宗悦との意思の疎通を欠いて、誤解や行き違いも生まれます。1918年5月に半月間グループで九州演奏旅行をした時、宗悦は兼子の手紙が「福岡に着いた」との通り一辺の内容だったことや、演奏予定を日延べしたことを怒り、「早く帰れ」との電報を九回打った、と兼子宛てに書いた手紙が残されています。演奏会を途中でキャンセル出来なかった兼子が、帰宅してからどの様に詫びなければならなかったかは、その直後に富士見町の家がたたまれたことからも察しがつきます。こうしたことから兼子は、女性であるが故に課せられた“演奏家として立つことと家庭生活の維持”という危ういバランスを常に意識して暮らして行かなければなりませんでした.

 二人が結婚してから丸四年経ちました.「結婚前に柳が言ったことと、結婚後の現実の姿があまりにも違うのでびっくりしました。こんな怖い人ではないと思って結婚したのに、本当に怖い人でしたよ」と兼子は語ります。その違いと怖さの実態はどうあったのでしょうか。
 宗悦は兼子と付合い始めた頃、“女性が抱える仕事と家庭の両立”という古くて新しい問題について、「自分が此の二つの間にある矛盾撞着(どうちゃく)を調和さすべき人になる事は出来ないでしょうか」との手紙を書き送っていました。宗悦の掲げた“理想の愛”は、現実にまみれて変貌をとげたのでしょうか。観念的に描いていた“芸術家の夫”としての自らの役割とその精神性はすっぽり抜け落ちたかのようで、実生活者としての宗悦は専制君主そのものでした。宗悦は兼子に、一個の自立した芸術家である以前に、妻であり母であることを要求しました。家に籠って思索にふける宗悦は、常に神経が過敏でしたから、夫婦間によく揉め事が起きました。居侯(いそうろう)をしているリーチの兼子に対する挨拶(あいさつ)「ヤナギーオコッテルカ」だったと言います。

 志賀直哉が康子と結婚したのは、1914年の12月ですから、我孫子では柳夫妻と共に新婚家庭と言えます。しかし、志賀夫妻がその家庭の基盤を築くうえで、夫唱婦随(ふしょうふずい)の中に夫婦としての調和を獲得していったのとは異なり、兼子と宗悦は出発から五分五分の対等でした。むしろ社会的評価では、自立した表現者として兼子の方が勝っていました。当然二人は志賀夫妻の調和よりも、互いに競い高めあう夫婦の関係になります。この点は、宗悦の「共に勉励しあい何ものかを世に残す」と掲げた“理想の愛”の体現でもあります。というところまでは、理想的でありうる夫婦関係ということになりますが、現実には、それだけではすまない時代の制約の中の、男と女の関係が影を落とします。とりわけ宗悦の中に隠されてある封建的な男性気質と、自立した音楽家でもある兼子の勝ち気で激しい気性がぶつかれば…。
 兼子は下町女性の身につけるべき教養と生活技術を徹底的に仕込まれ、料理一つとっても手早く上手でした。だから、母の世代の持つ良妻賢母へのこだわりが強い一方で、夫には盲従せず、自己の主張すべきことはします。負けず嫌いで気が強く、男性側が抱え込む責任を感じざるを得ない女性の弱さや、いわゆる“かわいい女”的なものと兼子は無縁です。宗悦も志賀的な女性の庇護者(ひごしゃ)の立場には決して立ちません。妻を自立した女性と認めたうえで、日常生活では亭主開白であり続けたとでも言うべきでしょうか。
 宗悦の掲げた“理想の愛”は、経済面からも夫婦のあり方からも変質を迫られました。それは宗悦にとって大きな痛手だったに違いありませんが、兼子は婚約中に、宗悦の要求する“理想の音楽”と“日本音楽界の現実”との板ばさみに苦しみぬき、“理想の音楽家”の実現を結婚後に委ねていましたから、宗悦以上の失望を味わっていました。

6.リート歌手へ 

雑誌 白樺 第壱巻 第八号
雑誌 白樺 第壱巻 第八号の表紙
1910(明治43)年11月14日
表紙絵は南 薫造(みなみくんぞう。
詳しくは、
【白樺だより  2001年10月15日
  11. ロダンと白樺派 】
を参照

 1917年10月、白樺同人は「公共白樺美術館」の設立運動を開始しました。『白樺』は創刊の年の11月に、ロダン生誕70周年を記念して「ロダン特集」(1巻8号)を組み、それに浮世絵30枚を添えてロダンに送りました。その返礼としてロダンから3点の彫刻が届いたのです。これが日本に来た最初のロダン彫刻です。美術館設立は、このロダン彫刻と、西洋の真に偉大な美術作品を集めて、常時展示するための募金運動で、一回一口(一口は一円)以上を寄付した人を会員とする募金には、兼子や宗悦は言うまでもなく、子供の宗理、宗玄、母勝子も名を連ねていますが、それと平行して兼子は、独唱会を開き資金集めに協力することになりました。
 兼子のこれまでの演奏会はジョイント形式が殆どでしたが、今度は初めての独唱会です。レパートリーの不足を痛感した兼子は、久しく御無沙汰していた東京音楽学校時代の恩師ぺッツォルドの門を叩こうとしました。しかし宗悦は「いつまで先生にくっついているのだ。なぜ自分で自分の芸術を生み出そうとしないのか!」と、飲みかけの味噌汁をぶっかけるほどでした。「ぺッツォルドから自立せよ」との宗悦の意見は、兼子の学生時代からの延長ですが、あれから4年以上の歳月が経ちました。今、兼子は宗悦の意に逆らい、味噌汁を浴びた髪は三回洗っても匂いが抜けずに困りながらも、ぺッツォルドのもとへ行きます。その前で歌いはじめると、二小節も歌わぬうちに「そうじゃない、こうなのだ」と言われるあり様で、「学ぶことのあるうちは先生から離れることはできない」と思います。「自分で自分の芸術を生み出せ」との宗悦の意見もよくわかる、そうありたいと思う、しかし今の段階では無理なのだ……と。

 「為公共白樺美術館設立・柳兼子独唱会」は、1918年2月17日に帝大基督(きりすと)教青年会館で開かれました。この独唱会は兼子にとっても、そして日本の音楽界にとっても画期的な意味を持っていました。
第一は日本人による声楽独唱会の嚆矢(こうし)であったこと。
第二は全十曲が兼子の初出演奏曲で、その内七曲が本邦初演であること。
第三は全てドイツ語で演奏し、今後ドイツ・リートを中心に据える姿勢を鮮明にしたこと。
第四は一連の白樺美術館設立資金募金イベントのトップバッターだったこと。
第五は夫宗悦の仕事に妻兼子が演奏で協力する形の初仕事であったことです。
 この時のことを宗悦は『白樺』誌(9巻3号)に、予想以上に盛会で席がなく、立ち見客が多かった失礼を詫びた後に、次のように記しています.「あれ程下手に唄った事は今迄ないと言うので演奏者は弱っている。もう一度是非やり直したいといっている。」
 そのやり直しの会は、同年4月13日京都、14日神戸で開かれました。二日共通のプログラムを、オペラのアリアとリートとで、半々にして華やかに組んだのは、二か月前の東京でリートのみで渋くまとめた結果、聴衆に十分にアピールできなかった経験を生かしたのでしょう。「兼子もこんなに気持ちのよかった会は少ないと言っていた。唄もよ程自由に唄えたと言っている。大阪から態態(わざわざ)来て被下(くださ)った方もあった」と宗悦は『白樺』(9巻5号)に書き、寄付金の成果も大いに上がって、と手放しの喜びようでした。

 秋に入って、信州の白樺読者の有志が「白樺美術館設立資金募金・柳兼子独唱会」を開くために奔走していました。後に“信州白樺派”と呼ばれる人達です。
 『白樺』誌は、23年8月号の通算160冊で幕を閉じますが、その14年間に“大正デモクラシー”の消長がきれいに収まっています。「白樺」が“大正デモクラシー”に一役かっていたことは、すでに大方の指摘するところでもあります。“十人十色主義”の「白樺」の人気は全国的なもので、我孫子でもこの当時、隣村の湖北小学校の青年教師加藤常吉が、熱心な『白樺』愛読者で、『白樺』を通して村の青年に影響を与え、加藤常吉寄贈と著名された『白樺』が、「湖北村青年団中峠下区支部」の印が押されて今も残っている(藤掛省吾「武者小路実篤」・手質沼を愛した文人展パンフレット)とのことです。
 加藤常吉も信州の白樺読者の多くも教育者でした。明治二十年代以後の“近代文芸思潮”の中で「白樺派」の文芸思潮のみが“教育”と結びつく性格を内抱していました.当時の教育界は“忠良なる臣民”養成の明治憲法教育から、“個性尊重教育”に転換し始めようとしていました。「白樺派」が理想主義・人道主義を標榜するものなら、“明日への前進と向上”を信じ“理想”を追及する教育は、当然「白樺」と結びつくべき要因をはらんでいたことになります。「白樺」の思想ともいうべき“個性”と“個性教育”とのめぐりあいは必然的であり、格好の出会いでもありました。

 信州の独唱会に戻りましょう。大正年代の兼子の独唱会は、東京に次いで信州が抜きん出て多いのです。確認されるものだけで21回、それに声楽講習会も加わります。それはみな、“信州白樺派”の人達に支えられていました。“信州白樺派”は、一応同志とみられた人が七・八十人、いわゆるシンパは県下で三百人ほどだったと言います。だから兼子の独唱会も、上諏訪町・長野市・上田市・松本市の順で連続演奏が可能だったのです。
 
 翌1919年4月は『白樺』創刊十周年に当たり、記念行事として白樺同人による演説会、(岸田)劉生(りゅうせい)画展、音楽会が企画されました。しかし、10日に開かれた「白樺紀(まま)年音楽会・柳兼子独唱会」は、急病のために兼子は出演していません。記念行事に参加した“信州白樺派”のうち、五名が「我孫子の柳家に寄り、ここでも兼子のかけてくれた蓄音器、ゴッホの複製画、味のいいパンとライスカレーにそれぞれ感激」(今井信雄『白樺の周辺』)しているので、兼子の病気は一過性か喉(のど)の故障だったのかも知れません。
 その半年後の10月9日に開かれた「柳兼子独唱会」は、記念演奏会をキャンセルした償いでもあるかのような気迫に満ちています。演奏の全12曲は全て初出曲、そのうち本邦初演が5曲あります。志質直哉がこの年“12月に執筆”と明記している『小僧の神様』の最後で、「彼の変な淋しい気持ちはBと会ひ、Y夫人の力強い独唱を聴いて居る内に殆ど直って了った」と記しているのは、この時の独唱会ではなかったでしょうか。
 兼子は必要に迫られながら一曲また一曲とレパートリーを増やし、聴衆の前で鍛え上げられながら歌手としての実力をつけて行きました。当時の日本では、兼子のようにリサイタルを重ねている演奏家はいません。だから兼子の演奏曲には、必然的に本邦初演が多くなるのです。宗悦の妻として、白樺の運動とともにあったことで、このような演奏活動が可能だった。それは取りも直さず、日本の声楽界の先端を切り、洋楽聴衆の据野(すその)を広げる活動でもありました。

7.朝鮮との出会い 
 
 白樺十周年の年は、兼子の身辺にも多くの変化がありました。3月1日に朝鮮で「抗日独立運動」が起こり、宗悦とともに一連の行動を超こすことは後ほどお話いたします。我孫子時代の一大事件となったリーチの仕事場の消失も、この年5月26日未明のことでした。11回目の我孫子窯の窯焚(かまたき)を終えた後、窯の煙突の過熱から仕事場に引火して、誰一人知らぬ間に全焼してしまったのです。
 リーチについて兼子が語っている記録は沢山あります。その中でも、兼子の『白樺』への唯一の執筆となった「リーチさんを思ひ出して」(14巻5号)は、最も生彩を放っています。しかし長い文なので、ここではほんの一部より紹介できません。
  忘れられない事件は矢つ張り(やっぱり)仕事場の焼けた時の事です。寝耳へ俄(にわ)かのしらせに飛び起きた刹那の「オー、マイ・ゴット」と言った叫びは未だに耳について居ます。(中略)
 「どうぞしっかりして、これから先の事を計画して下さい」と言ったら、「本当にそれを考えなくちや仕方がない、けれども…」といってうなだれて、食事の箸もとろうとしなかった様子にはこちらの胸まで痛くなってしまいました。しかし、せめてどうぞと祈った甲斐があって、お窯から出たものはかなりよかったので、ほっとしました。「昨夜は僕にとってどうしたこったかー、いい神様と悪い神様とが一緒に来た」と言って焼け上がった辰砂
(しんさ)の色を撫でて私達をかへり見た苦しそうな微笑みも忘れられません。

 このことがあってリーチは我孫子の生活を切り上げることになりました。リーチは後々まで「我孫子時代が一番幸福でした。白樺の友情に泣いたなあー」と語っています。“信州白樺派”の赤羽王郎は、戸倉事件で教職を追われ三月半ばからリーチ窯を手伝っていましたが、焼跡の始末を終えて六月半ばに我孫子を去りました。武者小路実篤は、この前年の9月に、理想郷を求めて東京駅を発ち、11月14日には宮崎県に「新しき村」が誕生しています。“我孫子白樺コロニー”は、俄然淋しくなりました。

 朝鮮は、1910年8月22日に日本側が大韓国帝国を呑(の)み込んで併合してから、日本の植民地とされて来ました。それに抗議して朝鮮の民衆が独立をめざして立ち上がったのは、1919年3月1日のことでした。延べ約二百万の朝鮮人が参加した一大抗日独立運動に対して、日本の軍隊は容赦のない弾圧を加え、約七千五百人を虐殺したのです。それを知った宗悦は直ちに筆をとり、日本側の厳しい弾圧に抗議する「朝鮮人を思ふ」を『読売新聞』に掲載(5・20〜24)しました。その一部に「我々日本人が今朝鮮人の立場にいると仮定してみたい。恐らく義憤好きな日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であろう。(中略)反抗する彼等よりも一層愚かなのは圧迫する吾々である。血の流れを見るが如き暴行を人は如何なる場合に於いてもなしてはならぬ、然しこれと共に圧制によって口を閉ざす如き愚かさを重ねてはならぬ。かかる事は嘗(かっ)て一度も如何なる処に於いても真の平和と友情を斉した場合がない。」と弾劾しました。

 宗悦は学生時代に李朝白磁を神田の骨董店から買い求めたりしていましたが、その関心が一気に高まったのは、朝鮮で小学校の教師をしながら朝鮮陶磁器の研究をしていた浅川伯教(のりたか)が、ロダンの彫刻を見たい、と“李朝染付秋草面取壷”を手土産に1914年9月、我孫子に転居したばかりの柳宅を尋ねたのがきっかけでした。 
  宗悦は1916年の夏、初めて朝鮮・中国旅行をして、伯教の弟で「朝鮮を愛し朝鮮の民芸を愛した巧(たくみ)と知り合い、終生の友となる契機に」(『朝鮮を思う』高崎宗司解説)なりました。この旅行で朝鮮の石仏寺の彫刻に感銘を受けた宗悦は「石仏寺の彫刻に就いて」を執筆中に“3・1独立運動”の弾圧を知ったのでした。宗悦は一連の朝鮮に関する論稿を「朝鮮問題に対する公憤」と「その芸術に対する思慕(しぼ)」がなければ書かなかったろう、と記しています。宗悦にとっては、この二つが一つのものであったのです。
 「朝鮮人を思ふ」を読み、我孫子の柳宅を訪れる在日朝鮮人が多くなりました。その中の一人である早稲田に留学中の南宮璧(なむぐんびょく)と相談して、宗悦と兼子は20年早春、「朝鮮に捧げる音楽会」を朝鮮と日本で開く計画を立てます。この4月、宗悦はより彼の朝鮮観を明確にした「朝鮮の友に贈る書」を書き上げて『改造』誌(6月号に掲載)と朝鮮の新聞『東亜日報』に送り、同時に当時としては非常にまれな妻兼子と連名で「『音楽会』趣意書」を作って『白樺』の支持者や知友に配布しました。
 この趣意書にいち早く応えたのは、国内ではなく、民族紙であると自称しながら4月1日に創刊されたばかりの『東亞日報』社で、その創立事業として音楽会に取組みました。同紙はまた、宗悦の「朝鮮の友に贈る書」の訳文を4月19日、20日に掲載しましたが21日は「当局の注意により中止する」との社告が出されて中途打切りとなりました。
 こうした緊迫した状況の中に、兼子と宗悦はピアニストとリーチ、母勝子(ソウルに住む娘今村千枝子宅を訪問)と共に5月1日朝鮮に向かいました。
 4日はいよいよ音楽会です。朝鮮で初めての兼子の独唱会は、朝鮮の洋楽史上で初めてのリサイタルと記録されています。プログラムはオペラのアリアとドイツ・リートが半々で構成され、異国の地で兼子が全力投球した様子が知られます。主催の『東亜日報』は、聴衆が定員を上回る千五百人も集まり、入場を断わらざるを得なかったと報じ、翌5日から15日まで兼子の独唱会が六回追加され、宗悦の講演会が四回も開かれました。
 宗悦の多岐にわたる業績の中で、社会に最も強いインパクトを与えた仕事は、朝鮮に関することであったと私は思います。だから我孫子の柳宅は、「朝鮮人を思ふ」の執筆以来、主に朝鮮の人々の出入りをチェックするために、私服刑事や特高課から派遣された刑事が、四・五人で始終見張っていたのです。
 朝鮮の人々に捧げる「『音楽会』趣意書」のアピールに応えて、国内の地方都市の有志から、連帯の意思が続々と寄せられました。宗悦の論作「彼の朝鮮行」(『改造』20年10月号)によれば、「妻は凡そ一と月の間、家と子供とを離れて、北は北海道や新潟や、南は阪神や岡山迄、寧日(ねいじつ)なく音楽の旅を続けた。」とあります。今風に言えば草の根演奏ツアーは、この年9月のことでした。この時代の演奏会がごく僅かな洋楽ファンを対象としたのとは異なり、趣旨に沿って広く一般大衆を聴衆とした点で画期的なことでもありました。しかし、その活動が当時の楽壇にどう評価されたかは、必ずしも明らかではありません。むしろ殆ど知られていなかったのではないでしょうか。
 翻(ひるがえ)って日本の音楽界を見ると、大正年代前半に第一線で活躍した演奏者は、明治末に続き東京音楽学校のお雇い外人教師が主力でしたが、大正の後半、第一次世界大戦の終結後は、世界で一級の演奏家が来日して本場の演奏を聴かせるようになりました。従って日本の音楽家も彼らと同じレベルで批評の対象となる時代が始まっていました。

 兼子もそれを意識したのでしょう、1920年7月2日に、一年ぶりに自主リサイタルを開きました。初舞台を踏んでから丁度十年目、この時兼子は二十八歳、これまでの総決算とも言えるプログラミングですが、シューベルトとブラームスに重点を置き、未来をも暗示しています。期待していた反響は、まだ音楽批評家の存在しない時代ではありましたが、「“紫色の振り袖で歌った…”程度の、批評らしからぬ批評よりなかった」と兼子は語っています。しかし、会場には兼子が最晩年に集中的に取り組む歌曲の作曲者清瀬保二(当時20歳)もいました。志賀直哉は、『暗夜行路』後編十九(『改造』22年1月号)に、主人公健作がシューベルトの「魔王」(エルケーニヒ)を歌う若きコントラルトの音楽会へ行くくだりを書いています。兼子の「魔王」の演奏はこの後数年とぎれるので、恐らくこの時のリサイタルを素材にしたのではないかと思います。

8.我孫子を去る   

  宗悦はこの年の年末に我孫子を訪れた浅川巧と図って「朝鮮民族美術館」の設立を決めました。その主旨と基金を募る『白樺』(12巻1号)の記事には、朝鮮の民族芸術Folk Artの散逸を防止するため、直ぐ行動を起こす必要性を説き、その民族と自然とに密接な関係を持つ朝鮮の作品は、朝鮮の地に置くのが自然だから、美術館は東京でなく京城(ソウル)に建てる、とあります。宗悦は美術館を設立するための資金に、個人からの募金と、兼子の演奏活動による収入をあてることにしました。再び、兼子の草の根演奏ツアーが始まろうとしています。そんな中で柳家は、病に伏した母勝子と一緒に暮らすために我孫子を去ることになりました。1921年3月25・26両日に家具や焼物の売立てをし、27日に志賀直哉邸で送別会が開かれました。
 今風に言えば我孫子時代は核家族であり、夫婦にとっては家庭の基礎をかため、子育ての時期でもありました。我孫子での生活費は、殆ど兼子の演奏活動と個人レッスンの収入でやり繰りし、宗悦の原稿料やこの引っ越し二年前に就職した東洋大学からの月給を、兼子は一度も見たことがないと言います。生活費を一人で負い、家庭の雑事をこなし、宗悦の運動に演奏で参加し、そうした中でリート歌手としての自己も確立しました。その我孫子時代の六年半の生活がここで終ります。

 以上で私の話も終りにします。今、私が確信をもって“柳兼子の我孫子時代”について言えることは二つあります。一つは、兼子が“大正デモクラシー”の真っ直中を、“白樺運動の音楽版”とも言うべき活動を、この我孫子で一人実践していたということ。もう一つは、宗悦と掲げた“理想の愛”を、兼子は生涯手放すことなく、その精神を血肉化していったのですが、その生きる姿勢がこの我孫子時代にも端的に現れていることです。
 二十世紀に不屈に生き抜いた兼子の鮮烈な生涯は、その素晴らしい歌唱と共に、今、二十一世紀に生きる私たちに多くのメッセージと感動を与えて下さっているのではないでしょうか。長い時間おつきあい頂きまして、ありがとうございました。

松橋桂子松橋桂子
   
2003年1月10日
 
 
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