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白樺文学館オリジナル・ホームページより (体裁のみ変更)

●白樺文学館開館顛末記


 
 

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15.『白樺フィロソフィー』

 前回触れたように、白樺文学館は基本的には市民によるボランティア精神で運営されます。というわけで毎日常時開館・運営というわけには残念ながらいきません。そこで必然的に休館日ができるわけですが、その休館日に意義のあることができないかと タケセン はいろいろと考えていたようです。
その答えをここにお知らせしましょう。

  まだ予定ではありますが、市民大学的なものを開設するということになりました。その名も『白樺フィロソフィー』。
予定表を一番下に載せておきます。あくまで予定です。例によって良いと思ったことはどんどん実行に移しますので。)

 ところで、以前から何度も書いていますが、白樺派の最良の部分を継承・発展させるとはどういうことなのでしょうか?なんて思ってる方もいらっしゃるでしょう。
お答えします、といっても私が答えるわけではありませんが。
最良の部分というのは、白樺派の人たちが書いているわけではありません。あたりまえですね。史実を緻密(ちみつ)に積み上げたところでわかるものでもありません。といって、この世界の専門家たちが書いているわけでもないし、無論のこと教科書にも出ていません。では、何がそれを見出すのでしょうね。
それは私たち自身の内部にあるものが見出すのです。もっと直接的にいってしまえば、私たちにとってより良い生とは何だろうか、そんな地点から見るということにほかならないでしょう。
そういう意味からすると、下にあるタケセンが記した『白樺フィロソフィー』の理念が白樺派の最良の部分を抽出(ちゅうしゅつ)する地点といえるのではないでしょうか。私にはそのように思えますが、いかが。

2000年8月13日 古林 治

ブレイクの水彩画はもうちょっとマッテネ。


実存としての生・『白樺フィロソフィー』 武田 康弘

 「生活世界」の中から新しい意味と価値をつくりだそうとすること。 日々見慣れたもののなかに新たな〈意味〉を見いだし、生活の中に小さくとも新しい(価値)を生み出してゆこうとすること。
それが人間が人間としての悦びをもって生きるための条件だ。
新たな意味と価値の予感の中に生きることを、私は、「実存として生きる」と呼ぶ。

 そのような生は、硬化した社会システムとはなじまない。
なぜ? どうして? なんのために? 
意味と価値を問うことは、必然的に既存(きぞん)の社会システムの固定化、マンネリ化を許さないからだ。実存としての生は、序列意識や権威主義とは相容(あいい)れない。

 権威主義者は、序列と所有にこだわる。過去や過去の価値に拘泥する。しかし本当に問題となるのは〈今〉だ。未来への希望と現在の充実であり、過去ではない。 過去はこの今の判断に節度と落ち着きをもたらすために役立つが、それ自体が目的とはならない。過去の事実を知り解釈することの意味は、エロス豊かな未来を生み出すためにのみある。

 未来は誰にとっても未知のもの。今の一刻一刻の行為〈考え・判断〉が、未来を決定してゆく。今の、未来へ向けての投企のありようが、〈私〉という人間をつくってゆく。この未来への投企を促(うながし)し、支える知が「生きた知」である。

 生きた知は、具体的経験としての意識の流れからつくられる意味に満ちた知だ。 生成変化してゆく事象や精神をそれとして直截(せつ)に見ようとする。具体的な課題-問題、疑問-問い、関心-欲望から出発するこの知は、生きるパワーとエネルギーを生み出す認識 である。

 それに対して従来の知-学問は、終わったもの-出来上がったものから過去を解釈する「死んだ知」でしかない。既成の概念(がいねん)と範疇(はんちゅう)から出発する強制された記憶の集合物にすぎない。そこでは死んだ言葉=文字言語が崇拝され、権威的システムによって決定された過去の記憶が「学問」と言われる。学者の世界でいう創造とは、既存の概念と情報のパッチワークのことでしかない。このスタティックな理屈の膨大な建造物=知の廃墟は、人間の生を抑圧し、頭を不・活性化させてしまう。概念化が手段ではなく目的となるために、直観=体験能力が衰弱してゆく。やがて、言葉上の矛盾の指摘や辻褄(つじつま)合わせが知的な作業だと思い込むようになる。言葉‐概念の操作が、具体的な体験の悦びを越えた「エロス」に昇天(しょうてん)する。

 この理屈‐形式‐知識による陰湿な知の支配に終止符を打つのが、新しい生きた知=実存としての生を支える知だ。一人ひとりの個人の生を勇気づけ、元気づける知だ。東大と官僚の官知による支配‐序列意識をその根元から裁ち切る知だ。

 市民大学『白樺フィロソフィー』は、深い納得を生む意味に満ちた知をつくりだすための機関である。意識の深層に届き、黙(もく)せるコギトー(自己意識)に答える新しい学問は、生活世界の具体的経験の明証性から出発し、またいつでもそこに立ち戻ることのできる民衆の知=民知だ。この民知イコール広義の哲学は、民主制を要請し、逆にまた民主制を支える「知」でもある。

  従来の学問は、学的世界という特殊な環境の中でしか生きられない脆(ぜい)弱で非人問的な知の体系にすぎない。権威と学の伝統という鎧(よろい)に守られていなければすぐに潰(つぶ)れてしまう。
もはや私たち市民は、意味のないスタティクな知の殿堂=廃墟に呪縛(じゅばく)されている必要はない。より大きな普遍性、(ふ)に落ちる知、民知の探求に乗り出そう。

 出来上がった建造物や社会制度や人間精神や・・・・を見て結果を解釈する従来の知がつまらないのは、死んだもの‐輪郭(りんかく)線に過ぎず、実存としての生にとっての有用性がないからだ。テストゲームと他者を支配すること以外には役立たない干乾(ひから)びた惰性的(だせい)な知だからだ。やればやるほど生気を失う。輝きやツヤが消えて、溌剌(はつらつ)とした魅力が奪われてゆく。
事象や生の原理にまで降り、創造の只中(ただなか)に立って生成のありさまを見、知る生きた知、広義の哲学=民知には形式ばったもの、儀式めいたものは何もない。豊かな内容が自(おの)ずと形をつくり、また変えてゆく。囚(とら)われがなく、軽やかで、刺激的。ざっくばらんで、真剣で、愉(たの)しい。やればやるほど元気がでて、勇気が湧いてくる。

 『白樺フィロソフィー』は、21世紀を担う新しい生きた知=民知をつくりだそうとするエロス溢(あふ)れる試みだ。それは、実存としての生を支える広義の哲学、新たに意味論としてつくり直される全ての「知」である。

   

〔2000年8月6日 武田康弘〕

白樺文学館 開館予定日、『白樺フィロソフィー』予定日

 白樺フィロソフィーは、文学、美術、音楽、教育、天文学、歴史、思想、哲学のための市民大学(小学生〜年長者)です。
(現在、『白樺フィロソフィー』は白樺文学館ではなく白樺教育館にて開催されています。
2009年5月3日)

 

     
白樺フィロソフィー
     





   
   
   
   
   
   
   
   


一般

夜7:30〜
♪音楽と
星の夕べ





   
   
   
   
   
   
   
   


一般

夜7:30〜
♪音楽と
星の夕べ





   
   
   
   
   
   
   
   


一般

夜8:15〜
*哲研プラス
市政研





   
   
   
   
   
   
   
   


一般

夜7:30〜
♪音楽と
星の夕べ





   
   
   
   
   
   
   
   


一般

夜7:30〜
♪音楽と
星の夕べ

 
一般の開館時間は、
A.M.10:30〜P.M.6:30
入館は6:00まで
1. A.M.10:00〜P.M. 1:00
2. P.M. 1:00〜P.M. 4:30
3. P.M. 4:30〜P.M. 7:00
4. P.M. 7:00〜P.M.10:00
毎水曜日は、
白樺コミュニティー会員の日
 
 
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