白樺文学館の理念 白樺文学館創成記ホーム 白樺文学館オリジナル・ホームページ 白樺教育館ホームページ
白樺文学館創成記とは 誕生秘話 更新履歴 白樺文学館開館顛末記
Home > 誕生秘話 > 3.創造の地―我孫子 〜「白樺派の4人」が5人になった経緯
return 前へ 次へ
      

志賀直哉と武者小路実篤 
画・桜井真紀子さん(学芸員・当時).

白樺派の5人

白樺派の5人 
画・周剣石さん(現在、中国精華大学美術学院教授)

柳兼子

『白樺派の5人』から 
画・周剣石さん(現在、中国精華大学美術学院教授)

● 誕生秘話 ●

3.創造の地―我孫子 〜「白樺派の4人」が5人になった経緯

 佐野力さんの提案による『志賀直哉文学館』構想、その創成のすべてを任されたわたしは、土地の購入と同時に「理念づくり」に入り、まずそれを『志賀直哉と武者小路実篤』という簡明な文章に表しました。

 但し、誕生秘話(1)に書きましたように、7ヶ月後、『白樺文学館』へと変貌・飛躍することになりましたので、理念を表す文章作りは、一からやり直すことになりました。

 志賀直哉という一作家の文学館から、白樺派という多岐にわたる文化運動を検証し、顕彰する文学館へと変貌したため、理念は彼らの仕事の解釈・位置づけと一体化させて表現するほかないと判断し、わたしはその作業に着手したのでした。

  白樺派の面々の仕事を、誰もがその意味と価値を了解できるように紹介し、それを文学館の理念と融合させた文章をつくろう、そう考え、3ヶ月後の1999年12月に一応の完成を見ましたが、少しずつ改定を繰り返し2000年6月に現在のものとしました。
彼ら若き白樺派の獅子たちは、ここ我孫子に集まり、この地で新たな思想を生み(柳宗悦 )、新たな小説を確立し(志賀直哉)、新たな生活の構想を練り( 武者小路実篤 )、新たな陶芸の世界に挑んだ(バーナード・リーチ)わけですが、そのことに着目して、わたしは【創造の地―我孫子】という言葉・概念で全体をまとめるのが適切だと考えたのです。

  以上のように最初の構想は、従来の常識通り、柳宗悦・志賀直哉・武者小路実篤の3人の「白樺同人」とその強力な同伴者・バーナード・リーチを加えて「白樺派の4人」だったのですが、それがある偶然により柳兼子を加え「白樺派の5人」となったのです。

  その偶然とは、1999年の10月に出版された兼子のはじめての伝記―『楷書の絶唱・柳兼子伝』との出会いです。これは、孤高の天才作曲家・清瀬保二のお弟子さんで、晩年の兼子をよく知る松橋桂子さんによる渾身の力作、400ページを超える大著です。ちょうど「白樺文学館」の理念づくりをはじめて一ヶ月後に世に出たこの本は、わたしにうれしい「衝撃」を与えてくれました。

  柳宗悦の妻である兼子は、才能に恵まれた努力家で、我孫子時代にリート歌手としての自己を確立しましたが、経済面でも、家計を支えるだけでなく、「白樺コンサート」で家が何軒もたつほどの収益をあげ、民芸運動の資金としました。兼子は、1920年、我孫子から夫の宗悦と共に朝鮮に渡り、日本政府の朝鮮同化政策を批判し、朝鮮の人々を励ますために「独唱会」を開きましたが、それは朝鮮の洋楽史上はじめてのリサイタルとなりました。グノー、シューベルト、ブラームス、ビゼーなど多彩なプログラムで、観客は興奮し、みな感激し涙した、「割れるような拍手、火のような感情」―と報じられ、わずか10日間に7回のコンサートを開いたのでした。後にドイツで絶賛された日本最高のリート歌手であった兼子は、晩年に至るまでずっと朝鮮の音楽家から「声楽の神様」と呼ばれ、尊敬を集めたのです。また、京城に「朝鮮民族美術館」を設立するための「募金―独唱会」を、翌1921年から「信州白樺派」の企画ではじめ、日本各地でコンサートを開き、最終的には兼子の演奏会による募金額は、全体の8割近くを占めるまでになりました。
(詳しくは、『柳兼子伝』第5章、及び第6章をお読み下さい)

  以上のようなわけで、音楽における白樺派をひとりで代表した兼子を外すことはできないと確信したわたしは、白樺派の中心メンバーのひとりとして兼子を加え、創造の地―我孫子〜「白樺派の5人」としたのです。

参考  
(1) 志賀直哉と武者小路実篤」の文章
(2) 創造の地―我孫子」の文章
(3) 白樺だより「4. 《永遠のアルト 柳兼子》発売の顛末
白樺文学館オリジナルホームページより

2009年 5月5日  武田康弘

Top

Home > 誕生秘話 > 3.創造の地―我孫子 〜「白樺派の4人」が5人になった経緯

return 白樺文学館オリジナル・ホームページ 白樺教育館ホームページ 前へ 次へ