柳宗悦

若き日の柳宗悦.絵は周剣石さん(現在、中国精華大学美術学院教授).

柳 宗悦 (やなぎ むねよし)
(1889-1961)

 1914年(大正3年)に叔父(おじ)の嘉納治五郎(かのうじごろう)の勧(すす)めで我孫子に移り住んだ柳宗悦(25)は、徹底して民衆の側に立つ反-国家主義の思想家であり、ブレイクとホイットマンの詩を魂とするその思想は、戦前戦中、戦後と一貫して変わることがありませんでした。柳は、朝鮮に渡り、名も無き民間の陶工たちが、国の保護の下にある有名な陶工たちよりもはるかに優れていることを知ります。彼は民衆の手工芸に高い価値を置く自身の思想を「民芸」という造語で表現しましたが、その運動は我孫子から始まり、やがて大きな潮流(ちょうりゅう)となって全国に拡がっていきました。柳は文筆以外にも、1924年には朝鮮の京城(けいじょう)(現在のソウル)に「朝鮮民族美術館」を、1936年には駒場に「日本民芸館」を開き、初代館長に就任するなど精力的に活動しましたが、その背骨となっていたのは、法然(ほうねん)・親鸞(しんらん)・一遍(いっぺん)の欣求浄土(ごんぐじょうど)、他力本願の思想でした。今日では「民芸」という言葉は普通名詞になっています。

【白樺文学館の理念】より抜粋。
〔 1999年12月22日 2000年6月改訂 武田康弘 〕